でも、たまに経験することは、いつもあるあたりまえに支えられています。
わたしたちの経験している世界は相対的です。
一方での、得、勝利、善は、他方では、損、敗北、悪です。
得したと思えたことも、視点を変えれば、損にもなります。
限られた部分での視点、生き方、「わたし」を限られた部分と捕らえれば、ごく限られた部分に、得も勝利も善を感じ、多くの部分に損や敗北や悪を見ます。
これらの相対的な世界、変わり続ける世界、変化、は、「変わらない」を基盤にしています。
Aの状態がBに変わります。
Aの瞬間と次のBの瞬間。
文字通り、そこには間、瞬の間があります。
間。中間。
連続しているようでも、よく考察するとそこには間があります。
文章は文字の連続ですが、文字と文字には間があります。
話す言葉、聴く言葉も、音と音の間があります。
呼吸と呼吸の間。
間は普段は忘れられています。AやBは経験しますが、間は経験しません。
AとBの間として理解され、経験されますが、間そのものは経験されません。
ですが、すべて、この「間」が、すべてを支えています。「間」がなければ表現は成立しません。
見えるものは見えないものに支えられています。経験は経験できないものに支えられています。
それゆえにそれらが「ある」こと自体、忘れられやすいのです。
わたしたちは毎日、寝ます。寝ると、今まで経験していた世界は失われ、どこかへ向かいます。
夢をみる時もあれば、みない時もあります。夢の世界、それ以外の世界。
いったいどこへいったのか、わかりませんが、朝には戻ってきます。
寝る前と寝た後の間。
活動は休息に支えられています。
活動を続けると、やがて眠くなり、寝てしまいます。
夢をみている間は夢を経験していますが、夢も経験していない状態、
熟睡中には、何も経験していない状態も含まれています。
何も経験がない状態。それは「わたし」だけの状態です。
そこには、対象がありません。対象がなければ経験できません。
対象は「わたし」ではありません。
「わたし」は経験する側であり、経験される対象ではありません。
鏡に映る「わたし」は「わたし」ではありません。
日常、経験する世界に「わたし」はいません。
「わたし」は経験できないものです。
この肉体が「わたし」ではありません。
「わたし」が肉体を経験しているだけです。
さまざまな感覚器官、目や口や鼻、手や足といった感覚器官を通して経験しています。
これらは窓のようなものです。
これらの窓をとおして、世界を経験していますが、窓も家も「わたし」ではありません。
「わたし」は表現されていません。
それゆえ、永遠不変で不滅です。「あり続け」「経験しつづける」永遠の主体。
それが真の「わたし」です。
「わたし」は有であり、無です。
そして、そのどちらでもありません。
「わたし」は認識される者ではなく、認識するものです。
ですから、言葉など認識するものを超えています。
絶対で普遍的な意識そのものです。
また唯一の「わたし」にとって、認識対象と認識主体という区別は存在しません。