大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

愛(バクティ・ヨーガ=献身の道)~29日の日記を読んで

2010-03-30 01:26:26 | 日記
愛(バクティ・ヨーガ=献身の道)29日の日記を読んで

人間が人生の中で経験する愛を想像してみてください。
いろいろな愛の流れがみえてきます。
まず親子の愛、友人への愛、異性との愛、また様々なレベルの生命に対する愛、全人類に向けられる愛、神への愛。
まず、赤ちゃんは母の愛を受け、成長していきます。母は我が子に見返りを求めない愛を与えます。母がいなかったという人でも、「私」に乳を与え育ててくれた人がいるはずです。子供はその絶対なる母の愛の安心感の中で成長していくことが出来ます。子供が学生になり、友人との関係の中に愛を感じます。友情は家族の絆のように確実に人と人を結び付けていくことになるでしょう。またその愛が小さなものであったとしても個人の成長と共に進化していくことでしょう。
その人が大人になり恋愛します。異性に好意をもつ感情が発展し愛は新たな家族の絆を創ります。小さな命をはぐくみ生み育てるという責任を伴った愛を経験します。さらにその人の愛は進化します。他人に対する愛が発展し、全人類を愛するようになります。地球上に「存在」する全ての生命体に博愛が生れてきます。
愛は、慈しみ、哀れみなど、様々な表現を体験させます。
その人はさらに進化し、神の愛を感じるようになります。神の愛はその人の個性を無くすだけではなく神そのものへと進化させるほどの強烈な愛です。その愛に溺れ我を失います。
私たちは神の愛を知るために生れてきています。
子供のもつ幼稚な愛から完成された献身的な愛へと発展しながら人は進化しています。その流れは与える、与える、与えるものへと進化していきます。

本質的に、「私」は愛で溢れています。
それを忘れているのは、知りたい、思い出しもう一度確認したいということなのかもしれません。

バガヴァッド・ギーター全ての章では、読者の感情を満足させる、尊主クリシュナの愛の流れを生き生きと感じることが出来ます。
第4章 詩節10では、
「執着、恐怖、怒りを離れ「私」に専心し、「私」に帰依する多くの者は、英知の苦行(熱力)によって浄化され、「私」の状態に達した。
第4章 詩節11 人々がいかなる方法で「私」に帰依しても、「私」はそれに応じて彼らを愛する。人々は全て「私」の道に従う。
第6章 詩節47 すべてのヨーギーのうちでも、「私」に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は「最も最高に統一した者」であると「私」は考える。
第7章 詩節17 彼らうち、常に「私」に心を向け、ひたむきなバクティ(親愛)を抱く、知識(英知)ある人が優れている。知識ある人にとって「私」はこの上なく愛しく、「私」にとって彼は愛しいから。
第7章 詩節18 この人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに「私」と一心同体(合一)であると考える。というのは、彼は統一し、至高の帰趨である「私」に依拠しているから。

ここでの、知識ある人とは、最高神であるクリシュナについての真の知識を持つ人で、同時に常に自分をクリシュナに結びつけ、ひたむきな親愛(バクティ)を抱く人だということです。
この、バクティ(親愛)とは、サンスクリット語で「愛する」とか。「分ける」とか「与る」、「信仰」という意味で、動詞語源「バジュ」から派生したことばです。
また語源的には、「席などを分かち合う」、「一緒になる」「結合」「合一」というような意味もあります。
最後の18章までクリシュナの愛は止まることがありません。その愛の流れをアルジュナは受け取っていきます。
最初は友人として、そして最高神からの愛を受け取れる状態にまで高まっていく姿は、全人類に崇高なるインスピレーションを与える素晴らしいものです。
第7章 詩節25、26、27、28
「ヨーガのマーヤーに覆われた「私」は、全ての者に明瞭ではない。この迷える世界は、「私」が不生不滅であることを知らない。
 「私」は過去、現在、未来の万物を知っている。アルジュナよ。しかし、何者も私を知らない。
 好悪から生ずる相対観の迷いにより、万物は創造の時すでに迷いに陥る。
 しかし、善行の人々の罪悪が尽きる時、彼らは相対観の迷いを脱し、強固な信念を持って「私」を信愛する。
 老死から脱するため、「私」に帰依して努力する人は、あのブラフマンを知る。アートマン(真我)に関してその一切を知り、カルマ(行為)を残らず知る。
 また、被造物に関して、神格に関して知識を得る。また、祭祀に関して「私」を知る。臨終の時においても、私をこのように知る人々は、「私」に崇拝し、最も内なる「真我」が私の中に溶け込み、真の「私」を知る。

万人の最も内側深くに鎮座されている、絶対神であるクリシュナの状態が生き生きと表現されているのがわかりますでしょうか。
7章までの一部の表現をピックアップいたしましたが、この部分だけでも愛の本質を知るのに十分な知識が与えられています。
人は、この愛を知るために生れてきています。経験上、疑う余地はありません。
バガヴァッド・ギーターは、全宇宙の生命に贈られている崇高で偉大な聖書である所以です。
この、「愛」の質とは、それを愛と表現することにより、その人の意識状態で捉えるしかないのですが、その意識状態により様々な捉え方があるということを肝に銘じておかなければなりません。「神」と「私」の中の愛の流れを繋ぐことは、尊主クリシュナもいっている通り、誠実に、信頼を持って、「私」を崇拝し、献身の過程を経たとき、自然に沸き起こるインスピレーションであり、自然に沸き起こる感情です。
もし、まだわからないと思う場合は、それを知っている人にいくらかでもその状態を聞きながら、その人を師とし、知識を得ていくことが必要です。
「真我」、「本質」の「私」が「存在」している理由は、すでに万人の中に「在る」のですが、それを思い出せないだけです。
純粋なる意識になれないのであれば、アルジュナのように実直に、その状態を知っている人に聞くことです。知識ある人は、求める人に対し愛をもって教えてくれることでしょう。そのような人の慈愛は深いので、求める人は即座に安心し、信頼を持って教えを請うべきです。どのような問題も存在しないということを、愛を持って教えてくれます。自分の小さな世界に生きているだけでなく、あなたの内側にある、「真我」の「私」の「存在」に入れば無限の至福を生きられるようになるということを教えてくれます。
私たちは、「神」の内で生かされ、「神」を知り、それと一体となるために生きています。

そもそも、私たちは一心同体なのです。

アルジュナのブログ
http://ameblo.jp/kurisyunaarujyuna/day-20100329.html