「沈黙 サイレンス」に75点をつけました。 https://t.co/M1gQMFYFMX #KINENOTE #キネマ旬報 #映画
— とみしゅう【不惑ワクワク】 (@tomishu) February 12, 2017
話題作のひとつでもありましたし、親友が大絶賛していたこともあって、ようやく腹をくくって観に来ました。
「胃に来そうな」重い作品であることは明らかだったので、ちょっと踏ん切りが付かなかったのです。
場内は満員。自分よりも上と見られる世代のお客さんが多かった印象です。
遠藤周作の小説が原作。
名前だけは知っていますが未読。
アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバーの若手に加え、重鎮のリーアム・ニーソンが主演。
日本からも窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也などが参加しています。
キリシタンが弾圧されていた江戸時代の日本が舞台。
棄教(信仰を捨てること)したと噂される宣教師を追って、2人の若き宣教師が日本にやって来ます。
もちろん、それは命懸けの行為。
しかし、宣教師にとってはむしろ殉教は尊い行為になるわけで、使命が重いほど彼らは自分の信仰心が試されると覚悟し、日本へと密航してくるのです。
命懸けでやって来た2人は、しかし予想を上回る過酷な弾圧を目の当たりにします。
僕は、特定の宗教の信者ではありません。
正月には初詣に行くこともあれば行かないこともある。
親族が亡くなった時には日蓮宗で葬儀をあげるけれど、僕自身は何妙法蓮華経の一節も覚えてはおらず、「なんみょうほうれんげきょう」という音を口にするだけ。
お盆の時期も、墓参りした記憶はほとんどありません。
無神論者と自称するほどではないけれど、ほぼそれに近い状況です。
でも先日、友人に連れられて、自分が住む地元の社(やしろ)を何カ所か回りました。
いくつかの神社では賽銭をあげて、手を合わせて拝みました。
いわゆる「二礼二拍一礼」というやつです。
それも、具体的な神様を思い描いているわけではない。
もっともっと漠然とした「神様」です。
あえていうなら「お天道様」という感じでしょうか。
いつも自分の頭上にあって(夜は沈むけれど)、すべてを見通している存在。
そういう神様に手を合わせて、こうして元気でいられることに感謝を捧げる。
それが僕にとっての神様であり、信仰です。
そんな自分にとって、本作で描かれるさまざまな困難や弾圧は、「酷いもの」「痛々しい」ものではあるけれど、「信仰を脅かされること」の意味や痛みを感じることはできませんでした。
なぜならば、そこまで強固な信仰が自分にはないから。
では、信仰ではなく何を脅かされるのが、自分にとって一番の苦痛なんだろうか?
僕にとって、それは「平々凡々な日常」です。
当たり前のように今日がやって来て、当たり前のように明日がやって来る。
生命の危機を感じることなく仕事をして、友と語らい、誰かに思いを馳せる。
そんな日常が脅かされることが、なによりも怖いです。
その日常を支えているものは何だろうか?
それは漠然とした「平和」というものなのでしょう。
現代の日本には、もちろんさまざまな問題があります
原発しかり、経済しかり、政治しかり。
でも、少なくとも今の自分にとっては、明日生きているかどうか分からないような危機は感じていません。
だから何もしなくていいというわけではないけれど、恐怖に怯えて夜も眠れないという状況でもない。
僕には確固たる信仰心はないけれど、いまこうしてカフェでMacBookを広げてブログを書いていられる平穏な時間には感謝しているのです。
宗教とは何か。信仰心とは何か。
それを深く語れるだけの知識も経験も、僕にはありません。
できることなら、宗教は平和や平穏のためだけに存在し、機能してほしいとは思います。
でも、それが理想論に過ぎないことも、いちおう学校で歴史を学んだ身としては分かっています。
過酷な弾圧や葛藤の果てに、本作のラストで何が描かれるのか。
もちろんここでは書きません。
僕はそのラストシーンで、ささやかだけれど深い安堵を覚えました。
人は生きるために、いつでも何かに依存しているのだと僕は思います。
僕にとって、依存するもののリストには「宗教」は入っていません(少なくとも自覚的には)。
そういう自分にとって、本作は深く共感できる作品ではありませんでした。
でも、「自分の魂が求めるもの」は何なのか?
そういうことを考えるきっかけになる作品となったことは確かです。
3時間近くある大作だけれど、途中で退屈することなく、最後まで集中して観ることができました。
気楽に観られる作品ではないけれど、宗教に興味のない人でも十分に楽しめる(語弊はありますが)内容だと思います。