野老の里

奥武蔵をメインに日帰りの山歩きを中心としたブログです

武蔵野の記憶 鎌倉街道上道の入間川道を自転車で散策する

2021年09月29日 | 武蔵野の記憶
(コーセーの工場付近を走る)

今年のGWに鎌倉街道上道の一つ、堀兼道を歩いた。堀兼道は所沢市泉町でやはり鎌倉街道の一つと考えられている入間川道に合流している。いずれこの入間川道も散策してみたいと思っていたのだが、狭山市入間川を起点とすると堀兼道の倍くらいの距離がある。しかも堀兼道が現在は抜け道として利用されることが多いのに対し、埼玉県道50号所沢狭山線として指定されている入間川道は交通量もかなり多く、歩いて楽しい道とは言い難い。そこで狭山市入間川から所沢市松が丘まで自転車で乗り通してみることにした。

まずは自転車で自宅から入間川まで向かう。輪行できるタイプの自転車なら狭山市駅まで電車を使うことができるのだが、今乗っているクロスバイクを入れられる輪行袋は持っていない。やむなく県道所沢堀兼狭山線を使って入間川を目指す。幸いなことに二車線の高規格道路で自転車でも走りやすい。出発から1時間弱で国道16号に出る。入間川道は「道・鎌倉街道上道(埼玉編)」によると八丁の渡しで入間川を渡り、入間川宿を通っていたという。八丁の渡しはもちろんのこと、入間川宿も現存しておらず、どのように道が通っていたのかははっきりとはしてない。「道・鎌倉街道上道(埼玉編)」では昭代橋と新富士見橋の間の道と推測しているので、それに従って昭代橋へ向かう。…と言いたい所だが、一旦所沢堀兼狭山線を更に進む。狭山大橋の手前で川沿いの道に入る。この辺りは水田が多く、大きな川が無い所沢市ではなかなか見られない光景だ。

(入間川沿いは水田が多い 上奥富と呼ばれる辺りにいる)


(狭山大橋付近から入間川河川敷を眺める)


(狭山大橋 かつては有料道路だった)

イオン(かつてはフランスのスーパーであるカルフールだった)が見えてきた辺りで国道に戻り、昭代橋付近から入間川へ下りる。かなり広い川で河川敷には舗装路がある。本来土手にも道があるのだが、改修中で川を見下ろすことは難しい。新富士見橋付近で国道に戻り、市役所に通じる広い道路に入る。国道16号から狭山市役所までは20mの標高差があり、途中かなり急な登り坂になっている。郵便局のある交差点で左に入ると入間川七夕通り商店街に出る。入間川七夕まつりが行われる所として有名であるが、かつて入間川宿があった頃の賑わいを感じさせる昭和の街並みが続く道でもある。狭山市立中央図書館を示す看板が立つ交差点を右に入ると狭山市駅へと向かう登り坂だ。途中路地を入ると徳林寺という大きなお寺がある。新田義貞が滞陣したと伝えられていて、鎌倉街道の名残を感じさせる。

(昭代橋)


(昭代橋からの眺め)


(新富士見橋が見える)


(入間川七夕通り)


(通り沿いにある神社には火の見櫓がある)


(中央図書館・狭山市駅へと続く道 奥に向かって上り坂)


(徳林寺)

地理院地図を見ると図書館の辺りで道は左に大きくカーブするが、実際は駅に向かって階段とスロープがある。スロープは自転車に乗ったままでは通行できないが、押して通る分には問題ない。坂道を上がると立派な狭山市駅に出る。駅前のロータリーを右に入ると線路沿いに小道が分岐する。小道といってもクルマが抜け道として利用するので交通量は多い。踏切を渡って道なりに進むと交差点に出る。目の前を横切るつつじ通りが入間川道だ。明治の頃の地図ではかつての道は狭山市駅を突っ切り、先ほど歩いた図書館脇の道を下って入間川へと至っている。入間川を渡った先は昭代橋からの道のみが描かれているが、入間川道は新富士見橋を渡ったほうだと考えられている。

(駅前ロータリーの下に階段とスロープがある)


(狭山市駅)


(踏切を渡るとつつじ通りに出る)


(狭山市駅周辺図  出典:国土地理院発行2.5万分1地形図 地理院タイルに文字等を追記して掲載)

つつじ通りに入るとひたすら直線的な道路が延びる。この直線的な道路は所沢市宮本町の神明神社付近まで続く。つつじ通りには商業施設が立ち並び七夕通りよりも開いている店が多い。かつては西武新宿線の西側に当たる入間川沿いに集落が発展し、東側に当たるつつじ通り沿いは畑や雑木林が広がっていた。しかし1970年代に所沢堀兼狭山線が通る狭山台に大きな団地が造られてからはつつじ通り周辺も大きく発展していくこととなった。大きな郵便局が立つ交差点は狭山市役所と狭山台を結ぶ道路が横切っており、かなり交通量が多い。交差点を過ぎると低層の住宅街が広がる。この辺りは入間基地ができる以前から区画整理が進んだ所で、住宅街としては古い部類に入る。

(郵便局のある交差点 画面左に進むと狭山台団地)


(この辺りは1970年代の時点で既に区画整理が済んでいた)

コーセー化粧品の大きな工場を過ぎると道は下りに入る。この先に不老川があるのだ。不老川付近へやって来ると東に住宅街を抜ける道がある。この道を入ると野々宮神社がある。意外と広い境内だ。道を戻り、入間川道を渡ると常泉寺(野々宮神社の更に奥にあるが、その事実を知らず訪れなかった)の観音堂があり、その裏手には懐かしい七曲井(ななまがりのい)がある。明治の地図を見ると不老川と入間川道が交差するこの辺りは古くから集落として発展していたようだ。不老川を渡った先には入間野神社があり、鎌倉街道の大きな案内板もある。

(コーセー化粧品の工場前を行く)


(野々宮神社)


(常泉寺観音堂)


(不老川沿いには普門品供養塔などがある)


(七曲井 観音堂裏にある)






(各種案内板)


(入間野神社)

入間野神社を過ぎると入曽の交差点がある。横切る道は埼玉県道8号川越入間線。川越入間線は堀兼(上)交差点で薬研坂方面の道と分岐し、この入曽の交差点を通っているが、どちらも明治の地図に記された古い道である。ただ薬研坂方面の道は入間基地が造られた関係で入間川道にぶつかる所より先は廃道となった。入間川越線を渡ると歩道の無い細い道となる。入曽駅前から出た所に当たり、現在は商店が点在している。古い地形図には宿と書かれているが、入間川道沿い以外は開けた農地となっていたようだ。

(入曽交差点)


(入曽交差点周辺図 出典:国土地理院発行2.5万分1地形図 地理院タイルに文字等を追記して掲載)

上赤坂と入間市藤沢を結ぶ道を渡ると狭山市水野に入る。入間川道の東側は緩やかな斜面に農地が広がり、その先の丘は住宅街となっている。住宅街を過ぎ、雑木林の中の中古車販売店を過ぎると所沢市北岩岡に入る。北岩岡は下富地区と同じく所沢市北端に位置し、畑と雑木林が広がっている。ボクのお気に入りの地域の一つだ。再び住宅街に入った所に北岩岡の交差点がある。元々今通り過ぎた辺りは北田と呼ばれていた。そのせいかこの辺りは北田姓が多い。交差点を渡り、再び農地に入ると西武新宿線を渡る踏切がある。踏切を渡った先は岩岡町だ。元々は入間川道の北東側を北岩岡、南西側を岩岡町と呼んでいたようだ。

(狭山市水野の農地 住宅地がある辺りは丘のように高くなっている)


(北岩岡の農地 所沢市北部の典型的な光景だ)


(北岩岡交差点 踏切と信号が近いため渋滞が起きやすい)

岩岡町の狭い道を抜けると岩岡町交差点に出る。交差点から南西に延びる道(北野下富線)は昨年12月に出来たばかりで、この道ができる前は岩岡町と北中地区の住宅街をクネクネと抜けて小手指方面へと出るクルマが多かった。計画としては西武新宿線を潜り、花園・所沢新町を通って下富方面へとつながる予定になっている。岩岡町の交差点を過ぎると住宅街に入る。これより先は住宅街と駅前商業地域が続き、これまでのような農地は一切見られなくなる。住宅街を進んでいくと小さな水路の上を行くが、これは以前歩いた砂川堀だ。

(岩岡町交差点 左奥に向かって新しい道が延びている ここは踏切が小さいため渋滞が起きやすい)


(砂川堀 小さな川だったためかアップダウンは小さめ)

砂川堀から少し登るとデニーズとガストに挟まれた緑町四丁目交差点に出る。ここで線路側から合流してくる道が川越所沢線だ。砂川堀の暗渠が通っているほか、本川越駅と新所沢駅とを結ぶバス通りにもなっている。この道路は元々川越方面から所沢市神米金(かめがね)・所沢新田を通り、現在の中新井・並木・喜多町を通って神明神社のある宮本町へと通じていた。道が付け替えられたのは1911年に開設した所沢陸軍飛行場の工事によるものである。現在は中新井地区に入る辺り(ちょうどファッションセンターしまむらがある)で大きくカーブし、この交差点へと通じている。そして入間川道は県道50号所沢狭山線から県道6号川越所沢線へと名称が変わる。

(緑町四丁目交差点 左は川越方面 右は小手指駅に通ずる ここも踏切が近く渋滞が起きやすい)

緑町四丁目交差点から新所沢駅西口ロータリーに通じるりそな銀行のある交差点まではかつてアーケードのある商店街と団地があった。現在でもURのマンションが立っているが、元々は低層の団地が立ち並んでいた。一方商店街は店が減り、アーケードも無くなったが、今でも営業している商店が多い。そしてこの商店街の前を通る入間川道には新所沢駅西口行きのバスが通っていたが、ボクが子供の頃に東口行きへと変更になった。東口行きに変更したのは渋滞を回避するためであったが、経路変更が可能になったのは現在国立リハビリテーションセンターのある辺りから新所沢駅東口への道が通じたことによる。東口周辺は住宅街が先に完成してしまい、広い道路の建設が後回しになっていたのだ。

(この辺りもかつてはアーケード街だった また右の団地はもっと低層だった)


(左に入れば新所沢駅 横切る道はけやき並木通りと名付けられている)

緑町四丁目交差点からアンダーパスのある新所沢跨道橋通りまでは広い歩道がある。跨道橋通りを横切る泉町交差点からは再び狭い道で交通量が多いため自転車では走りにくい。コンビニの先で堀兼道と合流し、水道局のある交差点(けやき町2丁目)から先が宮本町だ。飲食店の木曽路を過ぎると峰の坂交差点に着く。ここは五差路の交差点で国道463号が入間川道を横切っているため、交通量が多く、渋滞も起きやすい所だ。喜多町に向かって北東方向に延びる道は所沢飛行場が出来る前の川越からの道の名残で、1970年代の地図では航空公園駅北西にある踏切まで一本の道が延びていた。現在は道路の一部が廃止となり、住宅地となっている。

(堀兼道と合流 車道も歩道も狭く自転車では走りにくい)


(峰の坂 五差路なので少々わかりにくい)

峰の坂交差点から元町交差点へは大きく下る。ちょうど中間辺り、道の両脇に所澤神明社と遊石山新光寺がある。市民に神明神社として親しまれる所澤神明社へは石畳が延びており、数本の古木が大きい。石段を上がった先にあるのが拝殿で、参拝客もそれなりにいる。クルマで来る場合には旧市役所側から入るため、石段側から入ってくるのは近所の人が多いようだ。

(峰の坂を下る わかりにくいが結構な下り)






(所澤神明社参道の古木)


(境内にも大きな木がある)


(神明社の拝殿)


(一番上の石段からの眺め 木の背後にタワーマンションが見える)

現在神明社から南へ広い道路が通っていて、元町交差点から先は元町通りと名付けられている。しかし1970年代の地図を見るとまだ元町通りはなく、実蔵院の近くに警察署があった。つまり元町通りは入間川道ではないのだ。では入間川道は現在どうなっているのだろう。神明社の向かいに細い道が延びており、新光寺の前で90度に曲がっている。これが入間川道だ。このクランク状の道は桝形と呼ばれ、宿場町でよくみられる光景である。明治期の地図を見ると元町には大きな集落があり、宿場町として栄えていたことがわかる。

(新光寺 ここで90度曲がる なおここからは県道指定から外れる)

新光寺で曲がると小さな橋で東川を渡る。橋の袂には旧鎌倉街道の石柱が立ち、クルマがやっとすれ違えるほどの細い道が延びている。所沢市の道路地図などを見ると東川左岸(北側)が宮本町、右岸(南側)が元町となっている。明治期の地図だと東川は新光寺の北側を通っていたので今とは若干流路が違っていたようだ。東川から少し上ると交通量の多い道路が横切る。埼玉県道・東京都道179号所沢青梅線で、明治期の地図にも広い道として描かれている。ただ現在と少し違うのは東京都西東京市田無方面からやって来て元町の交差点で峰の坂に至るルートが強調されている点だ。鎌倉ではなく東京(江戸)を中心に考えれば新光寺より南の道があまり使われなくなっていたとしても不思議なことではない。

(東川を渡る 橋の右に標柱が立つ)


(所澤神明社周辺図 出典:国土地理院発行2.5万分1地形図 地理院タイルに文字等を追記して掲載)

一旦元町交差点で信号を渡り、再び入間川道に入る。結構急な上り坂で峰の坂から神明神社の参道へ下りてきたときに匹敵する斜度だ。途中隣に階段状の墓地がある実蔵院がある。お彼岸ということもあり、境内はお墓参りをする人が多い。墓地が階段状になっているのは今歩いている入間川道と新しくできた元町通り(元町交差点から南へ延びる道)との標高差が大きいからだ。墓地と所沢富士幼稚園との境で見ると4mほど、つまり平屋の建物一軒分以上の高さがあるのだ。

(元町交差点 なお画面奥に向かってかなりの上り坂となっている)


(実蔵院手前から南を見る わかりにくいが結構な上り坂)


(実蔵院)


(実蔵院の墓地脇から北を見る 右の塀を見ると下っていることがわかる)


(富士幼稚園の裏手にある鎌倉街道の案内板)

旧ダイエー、現在のトコトコスクエアから西へ延びる学校新道を横切り、NTTの建物辺りで道は少しずつ下っていく。この辺りは星の宮と呼ばれているが、古い地形図では久米で統一されていたようだ。低層の住宅街を抜けていくと所沢駅西口通りにぶつかる。ボクが神明神社で七五三のお宮参りをした頃には無かった道で、開通したのは大人になった頃だったと記憶している。入間川道はここで寸断されているが、駒形交差点で県道4号東京所沢線を渡ると更に道が続いている。南住吉と呼ばれる地域に入ったが、雰囲気は星の宮辺りと変わらない。鎌倉街道の遺構が残されていたという南小学校を過ぎると西武池袋線にぶつかる。地図ではわかりにくいが小さな踏切で渡ることができる。

(NTTの建物の裏を通る この辺りは星の宮と呼ばれている)


(高麗川交差点に差し掛かる 道が途切れるため少々わかりにくい)


(南住吉地区 静かな住宅街だ)


(線路沿いを行けば踏切がある)

踏切を渡った先は久米という地域に入る。住宅街に入って南へ進むと長久寺があり、急な下り坂となっている。これは更に南へ下った所に柳瀬川が流れているためだ。明治期の地図でもはっきりと流路が描かれており、上流にダムがある現在よりも水量が多かったものと推測できる。長久寺の正門へ回ると細い割に交通量の多い道路に出る。明治期の地図を見ると現在の二瀬橋を通って府中街道へと通ずる道だったようで、役割としては変わっていない。所沢市のHPではこの府中街道へと通ずる道と勢揃橋を通るルートの二つを鎌倉街道としている。長久寺から東へ下ると勢揃橋北交差点に出る。「道・鎌倉街道上道(埼玉編)」では勢揃橋を渡るルートを鎌倉街道としているので、一旦勢揃橋を渡ってみることにする。

(写真ではわかりにくいが結構な下り坂 なお踏切付近に立つと住宅街が斜面にあることがわかる)


(長久寺 案内図があったので境内を参観しても問題ないようだ)


(勢揃橋北交差点 狭い道の割に交通量が多いので要注意)

勢揃橋は所沢市松が丘地区への路線バスが通っているが、その割には狭い橋である。この狭い道が鎌倉街道とされていたのは二瀬橋を通るルートが柳瀬川と北川(北山公園のそばを通る川)の合流地点にあったからではないかと推測する。柳瀬川も北川も普段は水量の少ない川であるが、台風などで水量が増せば通行が難しくなる。特に合流地点は氾濫が起きやすい所だ。勢揃橋から八国山を越えるルートのほうが道は安定していたのだろう。勢揃橋を渡ると八国山の緑地が見えてくる。住宅街を抜けた所には松が丘調整池(たぬき池)がある。所沢市のHPではこの調整池を回り込んで府中街道から分かれた公事道に通ずるのが鎌倉街道であるとしている。今回は「道・鎌倉街道上道(埼玉編)」の見解に従い、松が丘の分譲地に入り、八国山の入口へ向かう。というのも八国山の東端の入口が所沢市と東京都東村山市との境になっており、きりが良いと考えたのだ。

(勢揃橋 近くには所沢駅西口発西武園駅行きのバスの停留所もある)


(松が丘調整池から八国山緑地を望む)


(松が丘調整池 たぬき池とも呼ばれている)


(勢揃橋周辺図 出典:国土地理院発行2.5万分1地形図 地理院タイルに文字等を追記して掲載)

松が丘調整池の信号を道なりに進み、松が丘の住宅街に入ると八国山を示す道標がある。道標に従い左折すると東へ延びる歩道がある。歩道に入り、東へ進むと八国山の東端の入口に着く。八国山の中には鎌倉街道あるいは東山道武蔵路(とうせんどうむさしみち)のものとされる掘割道が残されているが、今回は寄らずにここで終了とした。入間川道は狭山市内では畑、所沢市内では住宅街とやや見所に乏しく、歩き通すには辛いと感じた。かといって自転車ではややきつい急坂もあり、新所沢駅で分割して歩くのがちょうどよいのではないだろうか。



(八国山緑地入口)

DATA:
12:42狭山大橋~12:53昭代橋~12:58新富士見橋~13:06入間川七夕通り~13:09徳林寺~13:15狭山市駅~13:33野々宮神社~13:35七曲井(常泉寺観音堂)~13:39入間野神社~13:54北岩岡交差点~14:02緑町四丁目交差点~14:11堀兼道合流地点~14:15所澤神明社14:19~14:23新光寺~14:25実蔵院~14:36長久寺~14:41勢揃橋~14:42松が丘調整池~14:47八国山緑地入口(すべて自転車移動)

徒歩の場合、狭山市駅から昭代橋までは15分弱かかります。入間川道は西武新宿線に沿っているため、入曽駅・新所沢駅・航空公園駅・所沢駅がエスケープとして使えます。八国山からの帰路は将軍塚バス停から西武バス所沢駅西口行きが使えます(土休日は毎時2本)。東村山駅へ出る場合は30分ほどの時間を見ておいたほうが良いでしょう。

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