長年、信仰していれば、それくらいはわかります。
神がこれはと、見定めて、この親ならしっかりと育ててくれるであろう(人間の)親を選び、たいせつに育てた器(うつわ)が、先々になって偉大な聖人になっていきました。
しかし、そんなにも、神が期待し、陰から手助けした器であっても、かならずしもそうなるとは限りません。
途中から欲や我がでて、神の望む器とはなり得なかったものもあるといいます。
これは私たちの世界でも、よくあることかもしれませんね。
悪人がはじめから、悪人ではないでしょう。
もしかするとほんとうは、若いとき人一倍に理想にもえ、努力し鍛練していたのかもしれません。
天も、それをよしとして、それをたすけたのは想像にかたくありません。
ただ、人一倍努力し経験をつみ、それが自信となったとき、それが過信となることはよくあります。
神が期待し、たんせいこめて育てた器であっても、わずかな過信、ちょっとした欲から腐っていくこともあったのでしょう。
神は、ため息をつき、ただ首をふり、去っていったのかもしれません。
とても細くて、きびしくて。
そして、たった一人の孤独な道を、黙々と進んだ、ひとりの聖人がいたはずです。
たよるのは、かすかに聞こえるはげましの声。
どこから来ているのか、天からきたのか、悪魔からなのかもわからない、内なる心の声だったのかもしれません。
学者はそんな人たちを、宗教的天才と呼びますが、私はちょっと違うと思っています。
天才どころか、素朴で愚直で、でも、神との関係において妥協することはありません。
その点だけは、とても頑固であったに違いありません。
私たちとは、妥協するところが違うのでしょうね。
物質(もの)に対する欲は、それが執着となれば、第一関門で失格です。
肉親への愛情も、よいようで、ただの我執となってしまえば、誤った道を進むことになります。
人間としてあたりまえのことが、神の器としては邪魔になるのかもしれませんね。
誤解しないでください。
神の使命をはたすという喜びが、
人間として当然である、肉親への愛情や、物質欲を上回ることもあるということなのです。