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南京の人口(ラーベ日記検証・閑話休題)

2005年10月10日 | 南京事件
ふーー、実際、歴史検証とは大変な作業ですな(笑)
否定論者のようにWEB上に自説に都合のよさそうな文節を資料を流し読みしながら見つけ出して1,2行書き出して○○はこういっている、等というトンデモを作り上げていくのは楽ですが科学的に検証するというのは読み下し矛盾点・整合点を解決し、しかもラーベの日記だけ検証したところで結論がでるはずもなく、、、、。

当掲示板常連投稿者諸氏の資料集作成作業ひとつをとって見てもその大変さは実際にやってみると骨身にしみてわかります、改めて皆さんに感謝したい思いです。

へげもんさんは大分お忙しそうですが進展具合はいかがでしょうか?私はもう飽きてきました(^^;(^^;
でもま、こういう歴史資料の電子化は決して無駄な作業ではないと思います、ボチボチと薦めていきましょう。

まあ、へげもんさんの注目した十二月六日の日記にある記述
『なぜ、金持ちを、約八十万人と言う恵まれた市民を逃がしたんだ?』
の80万と言う数字は実際ラーベ日記全体からすると非常に唐突ですよね、しかもこの記述は誰かに対して発した言説ではなく、中国民衆を一人でも多く避難させたいラーベに対して、「最後の一人まで戦え」と言う国民党軍の将校への怒りを日記に書き記した部分です。公言したとか誰かにそういったというものではないのでラーベにしてもそれほど意識しての発言ではないでしょう。
(ラーベの日記と言うのは家族に宛てたものと言う傾向が非常に強いのです。考えてもみてください、ラーベは1市民に過ぎません自分の日記が自分の死後、重要な歴史資料になるなどとは少なくともこの時点では思ってもいないことでしょう)

にしても、何ら根拠もなく80万と言う数字が発想されるわけはないです。なにか根拠があるはずです。ラーベ自身には人口調査をやる力も動機もないし市内の動向調査にしてもしかりです。公的・私的に関わらず、なんらかの機関がそれをやったという資料も確認されていません。この数字がどうしてラーベの発想に出てきたのか?を検証するのはおそらく日記だけでは不可能でしょう。(もっとも最後まで検証作業をやり遂げてみないとわかりませんが、へげもんさんの担当部分にそのヒントがあるかもしれませんし)

私が現時点で一つ考えられる検証方法としてのヒントが以前に渡辺さんが指摘された7月の時点でのラーベの南京人口の認識135万と言う数字です、これが一つのヒントでしょう。これはラーベが書き送ったヒトラーへの上申書の中にある数字でしてへげもんさんの担当部分です。この上申書が歴史家に「ラーベの日記は公文書的史料価値がある」と言わしめる由縁です。へげもんさんの論説に期待しましょう。

80万人という流失数は噂だとしてもちょっと考えにくいので、ラーベがこの数字を発想したのは135万から80万を引いた数字、55万人、つまり十二月六日時点での残留人口、この数字が何らかの作用でラーベの認識の中にあった、ということの方が考えやすいです。この55万人と言う数字は陥落時の人口数として笠原氏らが主張する数字にほぼ近いです。笠原氏らが何を根拠にこの数字を主張しているのか?が一つのヒントになるかもしれません。もう一度「南京事件、笠原」を読む必要がありそうです。

また、実は当掲示板常連の熊猫さんもはっきりとは言いませんが30万人ではない、と言う認識を、確証はないにしろある程度の根拠があって持っている、とわたしは思っているんです(笑)今回秋時雨さんのおかげでヨッパゲ熊猫さんがその極一端(ヒント)を披露しました(^^;
さっそく[#1071]で紹介してもらった『目撃者の南京事件』(三交社)を発注してまして明日かあさってには手元に入る予定で、これの検証もせねばなりません(^^;

基本的には[#1030]においてタラリさんがおっしゃるように
【しかし、陥落後人口はまだしも正確であるものの、陥落前人口は殺害人口に関するいろいろな資料以上に資料の内容と精度が乏しいのであり、陥落前人口-陥落後人口で殺害人口を推計して、殺害人口に対する批判にしようとすること自体が無謀なのです。】
と言う認識が正しいと思います。が、私が興味があるのは熊猫さんが隠し持っている「ある程度の根拠」なので何かを掴めるかもしれません。(^^;

ま、とりあえずラーベ日記の電子化作業を進めましょう、私は今日はもう勘弁、です(^^;