手の届かない透き通る闇、指の隙間から覗き込んだ この世界に 千切れてゆく
赤 細い腕が綺麗な君の嘘 雨に濡れ、たたずんだ希望も嘘? 朽ち果ての夢で
廻るハルカカナタ滲む空はただただ暮れる 薄れてゆく存在さえ遅れてゆくまま
無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま ただ怖い 風鈴、闇を裂き 生
暖かい風と息を殺し 朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ… 昨
日までの夜を振り返ればもう…もう二度と…光は消え…叶わない…もう二度と…
もう誰も…全て消えろ 叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ
この詞は敢えて形式立てておらず、一行36文字と定めひたすらに綴っている。歌詞カードの横幅の許容が36文字だったのだろうか。もし、そのような定めがないとすればこれは行をも改めずにひたすらに書き連ねているものなのだろう。しかしその内容を見てみると、起承転結といった流れがあることが窺えるのである。形式立ててまとめた方が、妥当なものである、と言えるのではないだろうか。しかし、敢えてこのような形をとっている。しかし、そのことはかえって重要なことをこの詞に託しているのではないかということを示唆してしまう。そして、また、この詞の様はなかなか解読に労を要する暗号化された文章のようではないだろうか。彼の何かが秘められている、または、彼が何かを秘めらせたものではないだろうか。
‥‥。
ちょっと本格的に書き過ぎただろうか。
これもまた彼、または彼らの今立っている地平から生み出されたものである、と思う。今の彼、または彼らが、今ある地平に立ち、何を感じているか、を窺うことができるものではないだろうか。綺麗な曲調である。何か強い念が込められていて、ネットで調べて見ると「なんか、涙が流れ出てきた」という方もいる。この曲は彼、彼ら自身のものであるため、詞への共感はなかなか難しいのかもしれないが、しかし、そういった者をも引き込んでしまうほどの強い何かが秘められたものであることは確かではないだろうか。
‥‥涙が出てくるのは、この詞に、彼が、何か念というか、言ってしまえば魂を強く秘めらせたことが伝わるからなのか。そういう曲であることが伝わるからなのか。
共感できるからか。しかし、これはどう考えたって、彼、または彼ら自身の曲である。
やはり、そのような曲であるということが伝わるから、なのだろう。
‥‥。
真面目にというか、本格的に論じようとしている私は異様なのだろうか。なんとなく、そう思い始めてきた。
Dir en greyの音楽はアート視できないのである。どの曲にもまず決定的にナルシシズムがあるためである。孤高であるかもしれないが、崇高ではない‥‥いや、そうではないだろう。この曲も含めて、崇高さも秘めているものも結構あるだろう。ただナルシシズムがあるため、アートとして評価もしづらいのだ。言ってみれば、崇高なナルシシズムである。
そして、この曲はその中でも、彼らにとって何か重要なテーマを含んでいるものなのではないかと、私は考えている。
「悲劇は目蓋を下ろした優しき鬱」にしてもそうなのだが、この曲は彼らの叙情なのである。彼らの地平にある、彼らの抱いている叙情を歌っているのである。いや、専ら彼ら自身のものというふうに片付けてしまうと、あまりよくないかもしれない。私達も似たような思いを抱いたことがあるのではないだろうか。大きな何かに批判し、抵抗し、また反抗し続けてきたが、結局何も生み出されずただ空虚なだけであった時。この曲は、そのような独特な空虚感を持ち合わせているのではないだろうか。
ただ、やはりあくまで、この曲は、彼ら自身がこれまで生きてきた中で綴った彼ら自身の叙情なのである。
‥‥私も、どうしてうまく言えないのだろうか。書いている最中にもどこか右往左往してしまっている。言ってみれば半分アドリブで書いているからである。
彼らは一般社会で生きる者とはまた違った生き方をしてきたのであり、そういった生き方をしてきた者から綴られた叙情なのである。したがって、一般的に生きている者には理解し難いものとなっているのであり、それはアートとしても評価し難いものとなってしまっている。アートとして評価するということは、言い方を換えてみれば社会的に、本格的に取り扱うということではないだろうか。では、なぜ社会的に、本格的に取り扱うことができないかと言えば、単に彼らの音楽が時代を象徴する心情とすることができないからではないだろうか。どうだろうか。彼らの音楽を時代を象徴する音楽として聴くものだろうか。確かに今の時代の色彩みたいなものはあるが。
いや、違う。今の日本社会での抱きかねない感情であるため、これで片付けてはならない。
やっぱ俺、まだまだですね。
しかし、これは芸術作品です、と紹介し、聴かせるものではないとは思う。自分個人の情念として歌っているからであろうか。
‥‥。
下手に書いたら駄目な気がする。っていうか複雑なのであると思う。
・ナルシシズムがあるからである。
・意図的に芸術的に歌っているからである。
・自身の境地を、そうであるかないかは問わず意図的に崇高なものとして歌っているからである。
結論
つまり、「意図的に」なされたものであるからである。
しかし、誤解しないでいただきたい。決して本格的に取り扱う部分が彼らにないのだと言っているわけではない。彼らの本格的に取り扱われるべきことというのは、何よりも彼らの生き方なのである。彼らの生き方がアートなのである。社会がないがしろにしている抱きかねない感情を音として表現し歌い続け、かつ精神的にも受ける痛みというものを身体を張り表現し、証明し続けるが、最後には朽ちていく一連はまさにアートではないだろうか。
今度こそ、これで、いかがだろうか。
「手の届かない透き通る闇、指の隙間から覗き込んだ この世界に 千切れてゆく赤」
私自身は、この部分を読んでみてヴォーカルである京が一人、暗い部屋の中でベッドか何かに横になり天井を見上げているところをイメージしてしまう。あくまで私のイメージである。手をかざし、その指の隙間から透き通るような闇を眺めている。その闇はどこまでも深くて、その深さには手が届かず、触れることができない。そして、そこでイメージする。この世界に、千切れていく赤を。(私は別にこれを深く追求しようとは思わない。ここでの目的はDir en greyを紐解くことであり、この部分を追求したからといって、おそらく重要な何かが語られるようなことはないだろうと考えるからである。)
何か、この詞はアート作品として仕上げているのではないだろうか。答えがまるで何通りもあるような、書き方がなされているのだと思う。特に「この世界に 千切れていく赤」は文章的にも不可解である。
この部分は、個々でイメージしていけば良いのではないでしょうか。
「細い腕が綺麗な君の嘘 雨に濡れ、たたずんだ希望も嘘?」
というのは、まるで誰かに導かれてきたかのように、「君」のいざないに招かれるかのように、ここまで来たが、それは幻だったのか、そして、あの時(親々から、また学校で)提示されてきた崩壊しつつあるあの希望も偽りなのか、ということではないだろうか。
「朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ暮れる」
は、朽ち果てている偽りの希望の中で廻っていく、ハルカカナタ思い描いている未来は滲んでいき、朽ちていく、ということなのではないだろうか。先行きは暗いものだと言いたいのではないだろうか。「悲劇は‥‥」の詞において、「救えるはずもない 命を感じ 今だけでもいい 生きてください」というように日本社会で生きる者に対して絶望的であるという捉え方をしているからである。
「薄れてゆく存在さえ遅れてゆくまま 無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま ただ怖い」
これは、偽りの希望の中で生きる日本社会の者に対してのものなのだろうか。それともこれは、自分自身に関することだろうか。おそらく、自分自身に関することなのではないかと思う。後々を見ていくと、そうなのではないかと思う。そのことに関しては後に触れるとして、だとすると「薄れてゆく存在」というのは一体何なのか。また「遅れてゆくまま」というのは一体どういうことなのだろうか。
ここで「悲劇は‥‥」の「凍てつく心に誰も触れない」という箇所と関連付けようと思う。
「薄れてゆく存在」というのは私の心は誰にも触れられず、存在が軽んじられていくようなさまを表現したのではないだろうか。そして、「遅れてゆくまま」というのはまるで置き去りにされていくまま、という意味合いではないだろうか。
そして、自分達の持っているこの感情、また、それ歌ってきたことが、まるで空虚なものとして片付けられていこうとしているがために、そのことに関して、「無駄に泣いた 事に今も 気付けないまま」という表現をしているのではないだろうか。
そして、「ただ怖い」。これは一体、どういうことなのだろうか。無駄に泣いたことに気付けないことが怖いということなのだろうか。
ここでよく考えてみると、そもそも彼らのやっていることはとてつもなく恐ろしいものである。「Hydra」や「CLEVER SLEAZOID」といった境地に突っ込もうとする彼らを、想像してみると、とても無茶苦茶な方達だと私は思ったのである。そんな恐ろしいことをよくできるなぁ、と思ったのである。それほどまでの感情をさらけ出して、それほどまでの境地にまで行ってしまって、今後社会の枠組みの中でやっていけるのだろうか、と思ったのである。そして、それと同時にカッコいいと思ったのであるが。「ただ怖い」というのは、なんとなく彼らのいる境地と関連しているのではないかと私は思うのである。
‥‥。
もしかして、これは日本社会に生きる者に対して訴えてるものなのだろうか。
絶望的な先行きだと考えている者達に対して、「彼らは生き長らえている」と言いたいのだろうか。
まず、それはどうであるのかは置いておくこととする。
例えば、敵意を抱き、表明し、攻撃したとする。そうするとその方から、何か復讐でもされるのではないか、という危惧を抱いてしまうだろうと思う。そして、例えばその相手が機関銃を手に入れたとして、それを知っただけで逃げたくならないだろうか。彼らはそのようなことを社会に向けてやったと言っても過言ではないのだと思う。どうだろうか。秩序を破壊し得るほどのような曲だからである。そうした後に、日本社会に対して多少、恐怖感が生まれてしまうのではないだろうか。そしてこのことと関連付けて考えてみると、「ただ怖い」というのはこのようなニュアンスのものではないだろうか。
そして、この「ただ怖い」が自分自身のことであると考えれば、どうだろうか。文章の繋がりとして、「無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま」も自分自身のものであるということにならないだろうか。
「風鈴、闇を裂き」
「風鈴」とは何だろうか。それは後にまわそうと思う。ここでの「闇」は、「手の届かない透き通る闇」のものだろう。
「生暖かい風と息を殺し」
「生暖かい風」というのは、日本社会に未だにある生ぬるいような安定のことではないだろうか。「息を殺し」はそのまま「息を殺し」でいいだろう。
‥‥。
と、書きましたがこれは日本特有の気候からのものではないだろうか。
「朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ…」
は前述の通りである。「朽ち果てている偽りの希望の中で廻っていく、ハルカカナタ思い描いている未来はただただ…」
「昨日までの夜を振り返ればもう…もう二度と…光は消え…叶わない…もう二度と…
もう誰も…全て消えろ 叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ」
一気にやっていこうと思う。
「昨日」というのは彼らが活動してきた日々のことでいいだろう。これまでの活動を振り返ってみれば、もう二度と光は消え、叶わないだろう(私達のやってきたことは実を結ばないだろう)、もう二度と‥‥、ということではないだろうか。
そしてそこから、「もう誰も…全て消えろ」である。印象的である。
叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ
「鈴」と前に出てきた「風鈴」は同じものを指すのではないだろうか。では、それはどういう意味なのか。私なりに解釈をしてみようと思う。っていうかこれまでやってきたのも私なりの解釈なのですが。
「風鈴」「鈴」は彼なりの表現なのではないだろうか。「鈴の元」というのは言ってみれば故郷のような、彼が「もともと居た場所」を意味しているのではないだろうか。「風鈴、闇を裂き」のところも一緒に解釈してみる。
遠い昔に聞いていた風鈴の音。風鈴の音が闇を裂き、聞こえてくる
‥‥
そして、あの風鈴が鳴っている、あの場所へ
どうだろうか。違うのかもしれない。しかし、今の私としてはこんなところである。
私の発想は単調なのだと思う。彼は感覚で表現しているのだ。
彼のインタビューを聞いてみると、自分の心に謙虚に向かい合い、浮かんだものを偽らずに書いているのだ、と思う。
「千切れてゆく赤」にしてもそうなのかもしれないが、それがイメージとして見えたのだと思う。「風鈴」にしてもそうなのであると思う。
したがって、こうだからこのような言葉となったなどと、論じない方がいいのだ。
ここで先人の知恵をお借りし、この記事を締めようと思う。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)
赤 細い腕が綺麗な君の嘘 雨に濡れ、たたずんだ希望も嘘? 朽ち果ての夢で
廻るハルカカナタ滲む空はただただ暮れる 薄れてゆく存在さえ遅れてゆくまま
無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま ただ怖い 風鈴、闇を裂き 生
暖かい風と息を殺し 朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ… 昨
日までの夜を振り返ればもう…もう二度と…光は消え…叶わない…もう二度と…
もう誰も…全て消えろ 叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ
この詞は敢えて形式立てておらず、一行36文字と定めひたすらに綴っている。歌詞カードの横幅の許容が36文字だったのだろうか。もし、そのような定めがないとすればこれは行をも改めずにひたすらに書き連ねているものなのだろう。しかしその内容を見てみると、起承転結といった流れがあることが窺えるのである。形式立ててまとめた方が、妥当なものである、と言えるのではないだろうか。しかし、敢えてこのような形をとっている。しかし、そのことはかえって重要なことをこの詞に託しているのではないかということを示唆してしまう。そして、また、この詞の様はなかなか解読に労を要する暗号化された文章のようではないだろうか。彼の何かが秘められている、または、彼が何かを秘めらせたものではないだろうか。
‥‥。
ちょっと本格的に書き過ぎただろうか。
これもまた彼、または彼らの今立っている地平から生み出されたものである、と思う。今の彼、または彼らが、今ある地平に立ち、何を感じているか、を窺うことができるものではないだろうか。綺麗な曲調である。何か強い念が込められていて、ネットで調べて見ると「なんか、涙が流れ出てきた」という方もいる。この曲は彼、彼ら自身のものであるため、詞への共感はなかなか難しいのかもしれないが、しかし、そういった者をも引き込んでしまうほどの強い何かが秘められたものであることは確かではないだろうか。
‥‥涙が出てくるのは、この詞に、彼が、何か念というか、言ってしまえば魂を強く秘めらせたことが伝わるからなのか。そういう曲であることが伝わるからなのか。
共感できるからか。しかし、これはどう考えたって、彼、または彼ら自身の曲である。
やはり、そのような曲であるということが伝わるから、なのだろう。
‥‥。
真面目にというか、本格的に論じようとしている私は異様なのだろうか。なんとなく、そう思い始めてきた。
Dir en greyの音楽はアート視できないのである。どの曲にもまず決定的にナルシシズムがあるためである。孤高であるかもしれないが、崇高ではない‥‥いや、そうではないだろう。この曲も含めて、崇高さも秘めているものも結構あるだろう。ただナルシシズムがあるため、アートとして評価もしづらいのだ。言ってみれば、崇高なナルシシズムである。
そして、この曲はその中でも、彼らにとって何か重要なテーマを含んでいるものなのではないかと、私は考えている。
「悲劇は目蓋を下ろした優しき鬱」にしてもそうなのだが、この曲は彼らの叙情なのである。彼らの地平にある、彼らの抱いている叙情を歌っているのである。いや、専ら彼ら自身のものというふうに片付けてしまうと、あまりよくないかもしれない。私達も似たような思いを抱いたことがあるのではないだろうか。大きな何かに批判し、抵抗し、また反抗し続けてきたが、結局何も生み出されずただ空虚なだけであった時。この曲は、そのような独特な空虚感を持ち合わせているのではないだろうか。
ただ、やはりあくまで、この曲は、彼ら自身がこれまで生きてきた中で綴った彼ら自身の叙情なのである。
‥‥私も、どうしてうまく言えないのだろうか。書いている最中にもどこか右往左往してしまっている。言ってみれば半分アドリブで書いているからである。
彼らは一般社会で生きる者とはまた違った生き方をしてきたのであり、そういった生き方をしてきた者から綴られた叙情なのである。したがって、一般的に生きている者には理解し難いものとなっているのであり、それはアートとしても評価し難いものとなってしまっている。アートとして評価するということは、言い方を換えてみれば社会的に、本格的に取り扱うということではないだろうか。では、なぜ社会的に、本格的に取り扱うことができないかと言えば、単に彼らの音楽が時代を象徴する心情とすることができないからではないだろうか。どうだろうか。彼らの音楽を時代を象徴する音楽として聴くものだろうか。確かに今の時代の色彩みたいなものはあるが。
いや、違う。今の日本社会での抱きかねない感情であるため、これで片付けてはならない。
やっぱ俺、まだまだですね。
しかし、これは芸術作品です、と紹介し、聴かせるものではないとは思う。自分個人の情念として歌っているからであろうか。
‥‥。
下手に書いたら駄目な気がする。っていうか複雑なのであると思う。
・ナルシシズムがあるからである。
・意図的に芸術的に歌っているからである。
・自身の境地を、そうであるかないかは問わず意図的に崇高なものとして歌っているからである。
結論
つまり、「意図的に」なされたものであるからである。
しかし、誤解しないでいただきたい。決して本格的に取り扱う部分が彼らにないのだと言っているわけではない。彼らの本格的に取り扱われるべきことというのは、何よりも彼らの生き方なのである。彼らの生き方がアートなのである。社会がないがしろにしている抱きかねない感情を音として表現し歌い続け、かつ精神的にも受ける痛みというものを身体を張り表現し、証明し続けるが、最後には朽ちていく一連はまさにアートではないだろうか。
今度こそ、これで、いかがだろうか。
「手の届かない透き通る闇、指の隙間から覗き込んだ この世界に 千切れてゆく赤」
私自身は、この部分を読んでみてヴォーカルである京が一人、暗い部屋の中でベッドか何かに横になり天井を見上げているところをイメージしてしまう。あくまで私のイメージである。手をかざし、その指の隙間から透き通るような闇を眺めている。その闇はどこまでも深くて、その深さには手が届かず、触れることができない。そして、そこでイメージする。この世界に、千切れていく赤を。(私は別にこれを深く追求しようとは思わない。ここでの目的はDir en greyを紐解くことであり、この部分を追求したからといって、おそらく重要な何かが語られるようなことはないだろうと考えるからである。)
何か、この詞はアート作品として仕上げているのではないだろうか。答えがまるで何通りもあるような、書き方がなされているのだと思う。特に「この世界に 千切れていく赤」は文章的にも不可解である。
この部分は、個々でイメージしていけば良いのではないでしょうか。
「細い腕が綺麗な君の嘘 雨に濡れ、たたずんだ希望も嘘?」
というのは、まるで誰かに導かれてきたかのように、「君」のいざないに招かれるかのように、ここまで来たが、それは幻だったのか、そして、あの時(親々から、また学校で)提示されてきた崩壊しつつあるあの希望も偽りなのか、ということではないだろうか。
「朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ暮れる」
は、朽ち果てている偽りの希望の中で廻っていく、ハルカカナタ思い描いている未来は滲んでいき、朽ちていく、ということなのではないだろうか。先行きは暗いものだと言いたいのではないだろうか。「悲劇は‥‥」の詞において、「救えるはずもない 命を感じ 今だけでもいい 生きてください」というように日本社会で生きる者に対して絶望的であるという捉え方をしているからである。
「薄れてゆく存在さえ遅れてゆくまま 無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま ただ怖い」
これは、偽りの希望の中で生きる日本社会の者に対してのものなのだろうか。それともこれは、自分自身に関することだろうか。おそらく、自分自身に関することなのではないかと思う。後々を見ていくと、そうなのではないかと思う。そのことに関しては後に触れるとして、だとすると「薄れてゆく存在」というのは一体何なのか。また「遅れてゆくまま」というのは一体どういうことなのだろうか。
ここで「悲劇は‥‥」の「凍てつく心に誰も触れない」という箇所と関連付けようと思う。
「薄れてゆく存在」というのは私の心は誰にも触れられず、存在が軽んじられていくようなさまを表現したのではないだろうか。そして、「遅れてゆくまま」というのはまるで置き去りにされていくまま、という意味合いではないだろうか。
そして、自分達の持っているこの感情、また、それ歌ってきたことが、まるで空虚なものとして片付けられていこうとしているがために、そのことに関して、「無駄に泣いた 事に今も 気付けないまま」という表現をしているのではないだろうか。
そして、「ただ怖い」。これは一体、どういうことなのだろうか。無駄に泣いたことに気付けないことが怖いということなのだろうか。
ここでよく考えてみると、そもそも彼らのやっていることはとてつもなく恐ろしいものである。「Hydra」や「CLEVER SLEAZOID」といった境地に突っ込もうとする彼らを、想像してみると、とても無茶苦茶な方達だと私は思ったのである。そんな恐ろしいことをよくできるなぁ、と思ったのである。それほどまでの感情をさらけ出して、それほどまでの境地にまで行ってしまって、今後社会の枠組みの中でやっていけるのだろうか、と思ったのである。そして、それと同時にカッコいいと思ったのであるが。「ただ怖い」というのは、なんとなく彼らのいる境地と関連しているのではないかと私は思うのである。
‥‥。
もしかして、これは日本社会に生きる者に対して訴えてるものなのだろうか。
絶望的な先行きだと考えている者達に対して、「彼らは生き長らえている」と言いたいのだろうか。
まず、それはどうであるのかは置いておくこととする。
例えば、敵意を抱き、表明し、攻撃したとする。そうするとその方から、何か復讐でもされるのではないか、という危惧を抱いてしまうだろうと思う。そして、例えばその相手が機関銃を手に入れたとして、それを知っただけで逃げたくならないだろうか。彼らはそのようなことを社会に向けてやったと言っても過言ではないのだと思う。どうだろうか。秩序を破壊し得るほどのような曲だからである。そうした後に、日本社会に対して多少、恐怖感が生まれてしまうのではないだろうか。そしてこのことと関連付けて考えてみると、「ただ怖い」というのはこのようなニュアンスのものではないだろうか。
そして、この「ただ怖い」が自分自身のことであると考えれば、どうだろうか。文章の繋がりとして、「無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま」も自分自身のものであるということにならないだろうか。
「風鈴、闇を裂き」
「風鈴」とは何だろうか。それは後にまわそうと思う。ここでの「闇」は、「手の届かない透き通る闇」のものだろう。
「生暖かい風と息を殺し」
「生暖かい風」というのは、日本社会に未だにある生ぬるいような安定のことではないだろうか。「息を殺し」はそのまま「息を殺し」でいいだろう。
‥‥。
と、書きましたがこれは日本特有の気候からのものではないだろうか。
「朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ…」
は前述の通りである。「朽ち果てている偽りの希望の中で廻っていく、ハルカカナタ思い描いている未来はただただ…」
「昨日までの夜を振り返ればもう…もう二度と…光は消え…叶わない…もう二度と…
もう誰も…全て消えろ 叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ」
一気にやっていこうと思う。
「昨日」というのは彼らが活動してきた日々のことでいいだろう。これまでの活動を振り返ってみれば、もう二度と光は消え、叶わないだろう(私達のやってきたことは実を結ばないだろう)、もう二度と‥‥、ということではないだろうか。
そしてそこから、「もう誰も…全て消えろ」である。印象的である。
叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ
「鈴」と前に出てきた「風鈴」は同じものを指すのではないだろうか。では、それはどういう意味なのか。私なりに解釈をしてみようと思う。っていうかこれまでやってきたのも私なりの解釈なのですが。
「風鈴」「鈴」は彼なりの表現なのではないだろうか。「鈴の元」というのは言ってみれば故郷のような、彼が「もともと居た場所」を意味しているのではないだろうか。「風鈴、闇を裂き」のところも一緒に解釈してみる。
遠い昔に聞いていた風鈴の音。風鈴の音が闇を裂き、聞こえてくる
‥‥
そして、あの風鈴が鳴っている、あの場所へ
どうだろうか。違うのかもしれない。しかし、今の私としてはこんなところである。
私の発想は単調なのだと思う。彼は感覚で表現しているのだ。
彼のインタビューを聞いてみると、自分の心に謙虚に向かい合い、浮かんだものを偽らずに書いているのだ、と思う。
「千切れてゆく赤」にしてもそうなのかもしれないが、それがイメージとして見えたのだと思う。「風鈴」にしてもそうなのであると思う。
したがって、こうだからこのような言葉となったなどと、論じない方がいいのだ。
ここで先人の知恵をお借りし、この記事を締めようと思う。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)