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Dir en grey 歌詞と解釈(改訂)

Dir en greyについて歌詞とともに紐解く

THE FINAL(更新5)

2007-08-17 19:34:46 | Weblog
解けてしまう意図を見つめ…文字に出来ない左手です
血を流す度に生きてる理由…見出す言葉が鮮やかで

手の中には愛すべき人さえも華々しく散って
手の中には生きた意味刻んでも虚しき華と知る

The Final

一つ二つと増え続ける…何故に笑えない餌となる?

深き獄の心決して戻れはしない
明日を触れない自虐的敗北者
Suicide is the proof of life

手の中には愛すべき人さえも華々しく散って
手の中には生きた意味刻んでも虚しき華と散る

So I can't live
そう無くしたモノはもう産まれない
生きてる証さえ求められない歌
Let’s put an end…The Final

未遂の蕾咲かせよう‥‥‥



これは「Withering to death」の11曲目にあたる。
「解けていってしまう生きる意図だった事柄を見つめながら、左手首を切るが死を決定付けることができない私がいる。血を流す度に生きている理由を、見出していく時の言葉が鮮やかだ。
私から愛すべき人さえも離れていってしまった、私の「生きる意味」であったものも虚しき、儚きものであると知る
一つ二つと笑えない理由が増えていく、なぜにそのような笑えないものの餌食となってしまうのか。
深い地獄にいるような心境からは決して戻れはしない。明日を触れられない自虐的敗北者。
(自殺は、生きている証である)
私から愛すべき人さえも離れていってしまった、私の「生きる意味」であったものも虚しく、儚く散っていく。
だから私は生きることができない。
なくしたものは、散ったものは、もううまれない。そして、この歌は生きている証さえも求められない歌なのである。
(終止符を打ちましょう…自殺することに)
自殺未遂で終わらせよう‥‥‥」

要約すると、
「私から愛すべき人さえも離れていって、私にとって生きる意味だった事柄も虚しき、儚きものと知る。
深い地獄にいるような苦しい心境から決して抜け出せない。明日を触れることができない自虐的敗北者。
自殺は生きている証である。
私から愛すべき人さえも離れていって、私にとって生きる意味だった事柄も虚しく、儚く散る。
だから私は生きることができない。
なくしたものはもううまれない、そしてこの歌にも生きている証を求めることができない。
自殺をすることはやめにしよう。未遂で終わろう。」

もっと要約する、
「私から愛する人も、生きる意味である事柄も、儚く散っていく。
そのようなとても苦しい心境からは決して抜け出せない。自殺しようとしている人は明日を触れることができない。
自殺は生きている証である。
だから私は生きることができない。
なくしたものはもううまれないし、そして生きている証さえもこの歌にも求めることができないから。
そのような状況でも自殺をすることはやめにしよう。」

「自己を確認するものは散り、自殺が生きている証であり、なくしたものはもううまれないし、この歌にも生きている証を求められないのだ、そのような辛い状況からは抜け出せないけど、それでも自殺するのはやめにしよう」なのだ。
とてつもない歌である。このように意図してこの音楽を創作したかは分からないが、こうなってしまうのだ。
社会の悲観的な面を取り上げ、悲観的な音楽を作り、悲観的な感情を歌おうとするから、論理的にこのような形になってしまうのではないだろうか。

これまであった人と人との繋がり方、社会的な基盤、つまり枠組み、形のみが残ることになり、本質が失われていった、というような社会状況の下で、私はこの歌はそういった誰でも経験し得るような喪失した状況に光を当て、音楽にしたのだと思ったのだった。
私は本当に、この歌によって彼らを英雄だと思ったのだった。その当時は喪失した境地に光を当て音楽にすることによって希望を与えることをしていたのだと、考えていたのだった。「TOUR04 THE CODE OF VULGAR [ism]」のライブにおいて、ヴォーカルである京が「無くしたものは産まれない」の部分は教え諭すように歌うのである。(再度見てみるとはっきりとそのようなことはしてはいなかった。どうして私はそのような誤認をしていたのだろうか。若干それらしいものはあるが。)しかし、「TOUR05 It Withers and Withers」においてはこの歌を歌う前に「希望を捨てろ」と言うのだ。希望を与えるものではなかったのだ。使っている言葉もそもそもおかしい。「そう無くしたモノはもう産まれない」をどうして「そう失くしたものはもう生まれない」にしないのだろうか。大体、「産まれない」は一般的にお産に使う言葉だ。そして「I can't live」ではなく、「I can live」にしないのは、彼らの音楽のスタイルによってのものだろう。社会の悲観的な面を取り上げ、音楽を作り、悲観的な感情を歌っていく、ということである。そういうスタイルの音楽を作ろうとするがために、言葉の選択もこのようなものになってしまうのではないだろうか。とは言っても「TOUR04 THE CODE OF VULGAR [ism]」でのこの曲での彼らは、少なくとも彼ら自身にも英雄的な自覚があったのだ(はっきりとそうだと言える材料がなくなってしまったがそうであると、思う。)。しかし「TOUR05」でのライブではもう本質的に何かが違ってきているのだ。いや、そうではない。実は、「TOUR05」でのライブではじめてこの歌が本質的に歌われているのだ。「希望を捨てろ、そして破壊に転じろ」ということなのだろう。
この歌は、彼らが彼ら自身の境地を歌ったものだという見方もできるのではないだろうか。
いや、単に彼ら自身の境地を歌ったものだとしたら、聴く者に共感し得るものにはならないだろう。この音楽はそれだけでは納まらないものだろう。そんなことを言ってしまったら、彼らに本当に申し訳が立たないだろう。俺はなんて馬鹿なことを言っているのだろうか。ここまでの境地を音楽にし得たのは日本でもおそらく彼らだけなのではないだろうか。ひょっとしたら、海外でも見ないのではないだろうか。この境地は現代の日本社会で生きる者ならまず経験するものだろうと思う。断っておくが、手首を切ることを言っているのではなく、人、生きがいの一時的な喪失感を言っているのである(一時的だ、何したってずっとそのままなわけないだろ)。思わず目を背けたくなるような、いち早くそこから抜け出したくなるような境地を彼らは音楽にし得たのだ。確かに、詞はよろしくない。しかし、詞がよろしくなくなっているのは悲観的に歌っているからではないだろうか。また、この音楽は彼らが彼ら自身のもしくは、彼(ヴォーカルである京)自身の深部を音楽にし、それが日本社会で生きる者が共感し得るものとなった、ということなのだろうか。しかし、忠実である。この境地を見事に音楽にし得ているのである。私が彼らを英雄だと思った理由がお分かり頂けるのではないだろうか。今でも、この音楽を聴くとそう思ってしまうのではないだろうか。大体、カッコ良過ぎるのである。彼らが国境を越えたのは本当に喜ばしかった。ネットで検索してみると同じような心持の人が結構いた。当時の自分にとって本物が評価された、ということを意味していたからだ。
コンピレーションアルバム「Taste Of Chaos」でこの曲が取り上げられたのが印象深い。いや、それとも彼らからこの曲を申請したのだろうか。はっきり分かりませんが。いずれにしても、海外から彼らを見る者にとって、あるいは、彼らにとって意義深い曲であるということだろう。

本当にもったいないと思う。これでは、このような曲があることを大々的に社会に提示することできないからである。
彼らはそういう意味では幻の英雄達なのである。そういうことになってしまう。






私はこの曲のことを知り、CDを購入し、初めて聴いたとき、「Dir en greyは完結したな」と思った。そして同時に思ったのだった。まだやるのか、そこまでの境地まで辿りついたのにどうして終わりにしないのだろうか、すごいじゃないか、偉業じゃないか、後は一体何を表現するつもりなのだろう、それ以上の境地など存在するのか?、と‥‥
その後、彼らは破壊に転じていくのである。破壊へ展開していくこととなるのである。私にはそう見える、ということである。

まだよろしくない詞であると、考えられていない時期にそう思っていたのだった。境地に関して考えるなら、すごいものだと思う。
ただ、例えば歌わない方がいい曲であると思う。内容的に、縁起でもないものだからである。危険なのだ。タブーに近いものである。


1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2008-12-02 18:13:04
すばらしい解釈ですw

感動しましたww
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