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Dir en grey 歌詞と解釈(改訂)

Dir en greyについて歌詞とともに紐解く

あとがき

2007-11-13 02:24:46 | Weblog
とりあえず本blogはこれで終了となる。
あとは、読み返してみて読みにくい部分、適切でない表現があったら手直ししていくような形をとっていこうと思っている。

いかがだったでしょうか。私なりに解釈し、書いてきたわけですが、Dir en greyに関して新しい見解が得られたのならば、私としては幸いです。中立なスタンスで書いてきたつもりであり、彼らを正当に捉えていくことを最優先事項としてきました。単調な捉え方しかできていない部分もあるのかもしれません。

そもそもどういった目的でやってきたかと言えば、Dir en greyを自分の中で整理し、対処したかったのである。どういう経緯であれ、彼らの音楽が深く関与してしまったからである。言ってみれば自分のためにも書いてきたわけであり、私にとってとても有意義なものであった。これが読む者にとっても有意義なものであるのなら、言うことはないのではないだろうか。
書いている中でも、いろいろ気付かされることが多かったというか、それが大き過ぎたために一度改訂という形で内容を改めているわけであり、いろいろ紆余曲折があったのだった。「歌詞と解釈」とは、大きな表題を与えてしまっただろうか。そして形的には今の私が出来うる解釈ということで、締めたわけである。したがって、これはまだ途上なのである。いや、これは途上というより、何と言うか、あと私のどこか未熟な部分がどうにかなれば、いいのだと思う。あと少し、ではないだろうか。これを途上と言ってしまったら、どこに行く気だろうか。しかし、また、新たな見解を得られる時があるのかもしれない。それに彼らはまだ、終わってはいないのである。


それにしてもまだ私はDir en greyに関して考えてきたことを全て語ったわけではない。言ってみれば、歌詞によってからDir en greyを語ったに過ぎないのである。今後どうしていくかは検討中である。

ここで、ちょっと自分の事を明かしていこうと思う。
妙に偉そうに書いてきてしまったかもしれないので、なーんだ、というふうにしたい。
青森県在住 男 24歳 高卒

私からはこのくらいである。あともし聞きたいことがあれば、質問してみてください。できる範囲内でお答えします。

では、とりあえずこの辺で。

(追記)
「自分達のやってきたことが虚しきものとして片付けられようとしている」と記述してきたが、なんとなくこのままでは失礼な書き方になってしまうのではないだろうか。オリコンでも上位にランクされているからである。どう考えればいいだろうか。
彼らは紛れもなく、社会を制圧していたのだと思う。大体、社会を制圧しようとする何かを、社会は受け入れるだろうか。彼らの音楽によって、社会的な何かが起こり、制圧しようとする現象に繋がるようなことはあり得ないのなら、社会は彼らのやってきていることを片付けるしかないのではないだろうか。売れる売れない、国境を越える越えないは別として。

艶かしき安息、躊躇いに微笑み(更新)

2007-09-15 21:23:57 | Weblog
手の届かない透き通る闇、指の隙間から覗き込んだ この世界に 千切れてゆく
赤 細い腕が綺麗な君の嘘 雨に濡れ、たたずんだ希望も嘘? 朽ち果ての夢で
廻るハルカカナタ滲む空はただただ暮れる 薄れてゆく存在さえ遅れてゆくまま
 無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま ただ怖い 風鈴、闇を裂き 生
暖かい風と息を殺し 朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ… 昨
日までの夜を振り返ればもう…もう二度と…光は消え…叶わない…もう二度と…
 もう誰も…全て消えろ 叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ



この詞は敢えて形式立てておらず、一行36文字と定めひたすらに綴っている。歌詞カードの横幅の許容が36文字だったのだろうか。もし、そのような定めがないとすればこれは行をも改めずにひたすらに書き連ねているものなのだろう。しかしその内容を見てみると、起承転結といった流れがあることが窺えるのである。形式立ててまとめた方が、妥当なものである、と言えるのではないだろうか。しかし、敢えてこのような形をとっている。しかし、そのことはかえって重要なことをこの詞に託しているのではないかということを示唆してしまう。そして、また、この詞の様はなかなか解読に労を要する暗号化された文章のようではないだろうか。彼の何かが秘められている、または、彼が何かを秘めらせたものではないだろうか。
‥‥。
ちょっと本格的に書き過ぎただろうか。
これもまた彼、または彼らの今立っている地平から生み出されたものである、と思う。今の彼、または彼らが、今ある地平に立ち、何を感じているか、を窺うことができるものではないだろうか。綺麗な曲調である。何か強い念が込められていて、ネットで調べて見ると「なんか、涙が流れ出てきた」という方もいる。この曲は彼、彼ら自身のものであるため、詞への共感はなかなか難しいのかもしれないが、しかし、そういった者をも引き込んでしまうほどの強い何かが秘められたものであることは確かではないだろうか。

‥‥涙が出てくるのは、この詞に、彼が、何か念というか、言ってしまえば魂を強く秘めらせたことが伝わるからなのか。そういう曲であることが伝わるからなのか。

共感できるからか。しかし、これはどう考えたって、彼、または彼ら自身の曲である。
やはり、そのような曲であるということが伝わるから、なのだろう。

‥‥。
真面目にというか、本格的に論じようとしている私は異様なのだろうか。なんとなく、そう思い始めてきた。
Dir en greyの音楽はアート視できないのである。どの曲にもまず決定的にナルシシズムがあるためである。孤高であるかもしれないが、崇高ではない‥‥いや、そうではないだろう。この曲も含めて、崇高さも秘めているものも結構あるだろう。ただナルシシズムがあるため、アートとして評価もしづらいのだ。言ってみれば、崇高なナルシシズムである。
そして、この曲はその中でも、彼らにとって何か重要なテーマを含んでいるものなのではないかと、私は考えている。

「悲劇は目蓋を下ろした優しき鬱」にしてもそうなのだが、この曲は彼らの叙情なのである。彼らの地平にある、彼らの抱いている叙情を歌っているのである。いや、専ら彼ら自身のものというふうに片付けてしまうと、あまりよくないかもしれない。私達も似たような思いを抱いたことがあるのではないだろうか。大きな何かに批判し、抵抗し、また反抗し続けてきたが、結局何も生み出されずただ空虚なだけであった時。この曲は、そのような独特な空虚感を持ち合わせているのではないだろうか。
ただ、やはりあくまで、この曲は、彼ら自身がこれまで生きてきた中で綴った彼ら自身の叙情なのである。
‥‥私も、どうしてうまく言えないのだろうか。書いている最中にもどこか右往左往してしまっている。言ってみれば半分アドリブで書いているからである。
彼らは一般社会で生きる者とはまた違った生き方をしてきたのであり、そういった生き方をしてきた者から綴られた叙情なのである。したがって、一般的に生きている者には理解し難いものとなっているのであり、それはアートとしても評価し難いものとなってしまっている。アートとして評価するということは、言い方を換えてみれば社会的に、本格的に取り扱うということではないだろうか。では、なぜ社会的に、本格的に取り扱うことができないかと言えば、単に彼らの音楽が時代を象徴する心情とすることができないからではないだろうか。どうだろうか。彼らの音楽を時代を象徴する音楽として聴くものだろうか。確かに今の時代の色彩みたいなものはあるが。
いや、違う。今の日本社会での抱きかねない感情であるため、これで片付けてはならない。
やっぱ俺、まだまだですね。
しかし、これは芸術作品です、と紹介し、聴かせるものではないとは思う。自分個人の情念として歌っているからであろうか。
‥‥。
下手に書いたら駄目な気がする。っていうか複雑なのであると思う。
・ナルシシズムがあるからである。
・意図的に芸術的に歌っているからである。
・自身の境地を、そうであるかないかは問わず意図的に崇高なものとして歌っているからである。
結論
つまり、「意図的に」なされたものであるからである。

しかし、誤解しないでいただきたい。決して本格的に取り扱う部分が彼らにないのだと言っているわけではない。彼らの本格的に取り扱われるべきことというのは、何よりも彼らの生き方なのである。彼らの生き方がアートなのである。社会がないがしろにしている抱きかねない感情を音として表現し歌い続け、かつ精神的にも受ける痛みというものを身体を張り表現し、証明し続けるが、最後には朽ちていく一連はまさにアートではないだろうか。
今度こそ、これで、いかがだろうか。

「手の届かない透き通る闇、指の隙間から覗き込んだ この世界に 千切れてゆく赤」
私自身は、この部分を読んでみてヴォーカルである京が一人、暗い部屋の中でベッドか何かに横になり天井を見上げているところをイメージしてしまう。あくまで私のイメージである。手をかざし、その指の隙間から透き通るような闇を眺めている。その闇はどこまでも深くて、その深さには手が届かず、触れることができない。そして、そこでイメージする。この世界に、千切れていく赤を。(私は別にこれを深く追求しようとは思わない。ここでの目的はDir en greyを紐解くことであり、この部分を追求したからといって、おそらく重要な何かが語られるようなことはないだろうと考えるからである。)
何か、この詞はアート作品として仕上げているのではないだろうか。答えがまるで何通りもあるような、書き方がなされているのだと思う。特に「この世界に 千切れていく赤」は文章的にも不可解である。
この部分は、個々でイメージしていけば良いのではないでしょうか。
「細い腕が綺麗な君の嘘 雨に濡れ、たたずんだ希望も嘘?」
というのは、まるで誰かに導かれてきたかのように、「君」のいざないに招かれるかのように、ここまで来たが、それは幻だったのか、そして、あの時(親々から、また学校で)提示されてきた崩壊しつつあるあの希望も偽りなのか、ということではないだろうか。
「朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ暮れる」
は、朽ち果てている偽りの希望の中で廻っていく、ハルカカナタ思い描いている未来は滲んでいき、朽ちていく、ということなのではないだろうか。先行きは暗いものだと言いたいのではないだろうか。「悲劇は‥‥」の詞において、「救えるはずもない 命を感じ 今だけでもいい 生きてください」というように日本社会で生きる者に対して絶望的であるという捉え方をしているからである。
「薄れてゆく存在さえ遅れてゆくまま 無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま ただ怖い」
これは、偽りの希望の中で生きる日本社会の者に対してのものなのだろうか。それともこれは、自分自身に関することだろうか。おそらく、自分自身に関することなのではないかと思う。後々を見ていくと、そうなのではないかと思う。そのことに関しては後に触れるとして、だとすると「薄れてゆく存在」というのは一体何なのか。また「遅れてゆくまま」というのは一体どういうことなのだろうか。
ここで「悲劇は‥‥」の「凍てつく心に誰も触れない」という箇所と関連付けようと思う。
「薄れてゆく存在」というのは私の心は誰にも触れられず、存在が軽んじられていくようなさまを表現したのではないだろうか。そして、「遅れてゆくまま」というのはまるで置き去りにされていくまま、という意味合いではないだろうか。
そして、自分達の持っているこの感情、また、それ歌ってきたことが、まるで空虚なものとして片付けられていこうとしているがために、そのことに関して、「無駄に泣いた 事に今も 気付けないまま」という表現をしているのではないだろうか。
そして、「ただ怖い」。これは一体、どういうことなのだろうか。無駄に泣いたことに気付けないことが怖いということなのだろうか。
ここでよく考えてみると、そもそも彼らのやっていることはとてつもなく恐ろしいものである。「Hydra」や「CLEVER SLEAZOID」といった境地に突っ込もうとする彼らを、想像してみると、とても無茶苦茶な方達だと私は思ったのである。そんな恐ろしいことをよくできるなぁ、と思ったのである。それほどまでの感情をさらけ出して、それほどまでの境地にまで行ってしまって、今後社会の枠組みの中でやっていけるのだろうか、と思ったのである。そして、それと同時にカッコいいと思ったのであるが。「ただ怖い」というのは、なんとなく彼らのいる境地と関連しているのではないかと私は思うのである。
‥‥。
もしかして、これは日本社会に生きる者に対して訴えてるものなのだろうか。
絶望的な先行きだと考えている者達に対して、「彼らは生き長らえている」と言いたいのだろうか。
まず、それはどうであるのかは置いておくこととする。
例えば、敵意を抱き、表明し、攻撃したとする。そうするとその方から、何か復讐でもされるのではないか、という危惧を抱いてしまうだろうと思う。そして、例えばその相手が機関銃を手に入れたとして、それを知っただけで逃げたくならないだろうか。彼らはそのようなことを社会に向けてやったと言っても過言ではないのだと思う。どうだろうか。秩序を破壊し得るほどのような曲だからである。そうした後に、日本社会に対して多少、恐怖感が生まれてしまうのではないだろうか。そしてこのことと関連付けて考えてみると、「ただ怖い」というのはこのようなニュアンスのものではないだろうか。
そして、この「ただ怖い」が自分自身のことであると考えれば、どうだろうか。文章の繋がりとして、「無駄に泣いた 事に今も 気が付けないまま」も自分自身のものであるということにならないだろうか。
「風鈴、闇を裂き」
「風鈴」とは何だろうか。それは後にまわそうと思う。ここでの「闇」は、「手の届かない透き通る闇」のものだろう。
「生暖かい風と息を殺し」
「生暖かい風」というのは、日本社会に未だにある生ぬるいような安定のことではないだろうか。「息を殺し」はそのまま「息を殺し」でいいだろう。
‥‥。
と、書きましたがこれは日本特有の気候からのものではないだろうか。
「朽ち果ての夢で廻るハルカカナタ滲む空はただただ…」
は前述の通りである。「朽ち果てている偽りの希望の中で廻っていく、ハルカカナタ思い描いている未来はただただ…」
「昨日までの夜を振り返ればもう…もう二度と…光は消え…叶わない…もう二度と…
 もう誰も…全て消えろ 叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ」
一気にやっていこうと思う。
「昨日」というのは彼らが活動してきた日々のことでいいだろう。これまでの活動を振り返ってみれば、もう二度と光は消え、叶わないだろう(私達のやってきたことは実を結ばないだろう)、もう二度と‥‥、ということではないだろうか。
そしてそこから、「もう誰も…全て消えろ」である。印象的である。
叫び生きて耐え抜いた痛みと 闇の向こう鈴の元へ
「鈴」と前に出てきた「風鈴」は同じものを指すのではないだろうか。では、それはどういう意味なのか。私なりに解釈をしてみようと思う。っていうかこれまでやってきたのも私なりの解釈なのですが。
「風鈴」「鈴」は彼なりの表現なのではないだろうか。「鈴の元」というのは言ってみれば故郷のような、彼が「もともと居た場所」を意味しているのではないだろうか。「風鈴、闇を裂き」のところも一緒に解釈してみる。

遠い昔に聞いていた風鈴の音。風鈴の音が闇を裂き、聞こえてくる
‥‥
そして、あの風鈴が鳴っている、あの場所へ


どうだろうか。違うのかもしれない。しかし、今の私としてはこんなところである。
私の発想は単調なのだと思う。彼は感覚で表現しているのだ。
彼のインタビューを聞いてみると、自分の心に謙虚に向かい合い、浮かんだものを偽らずに書いているのだ、と思う。
「千切れてゆく赤」にしてもそうなのかもしれないが、それがイメージとして見えたのだと思う。「風鈴」にしてもそうなのであると思う。
したがって、こうだからこのような言葉となったなどと、論じない方がいいのだ。

ここで先人の知恵をお借りし、この記事を締めようと思う。

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

鼓動(更新2)

2007-08-18 18:23:32 | Weblog
どことなくその悲しそうな顔もきっと明日には忘れ消える
いつからだろうこんなに瞳が死んだのは

無意味に 生き続け唄う俺はいったい明日に何がある
部屋で独り鼓動を奏で叫ぶ
Don't kid yourself and don't fool yourself
(思い違いをしないでください、そしてあなた自身を馬鹿にしないでください)

I am addicted to the perceived fate
(私は、認められた運命に没頭します)
しがみついた運命に俺は独り
Don't kid yourself and don't wound yourself
(思い違いをしないでください、そしてあなた自身を傷つけないでください)

止まない雨 止まない音 止まない傷
止まない愛 止まない唄を…
もう止められないから
もう耐えられないから

声殺して 目を塞いで 闇に溺れて彷徨って
もう縋れない
声殺して 目を塞いで 闇に溺れて彷徨って
鋭利な君の声を胸に…
全てを闇に

晴れ晴れしい朝よ皮肉に
-おはよう-



これは「Withering to death」の最後を飾る曲である。
どうして彼らはこのように感じているのだろうか。まずはそこを考えていこうと思う。
これも同様、一般的に考えて、まず理解するには難しいところがあるのではないだろうか。

自分達のやってきていることが人々に触れられず、ただ虚しきものとして片付けられていく危惧を抱き、自身が目を向けている事柄、そこから生まれるこの感情は空虚なものなのではないかと感じながら過ごす日々の中で書いた詞ではないだろうか。「片付けられていく危惧」である。
雑誌を読んでみて思ったんですが、彼らは「Withering to death」という一つの一連の流れをアートとしているのである。彼らの精神が現実でなく、アルバムの中で息づているように見えてしまうのはそこに原因があるのではないだろうか。しかし、何かを期待していたのは確かだと思う。それは社会に対する変化、制圧といった社会現象か、このアルバムがアートとして高く評価されることか、あるいはそのいずれもか、というのははっきりとは分からないが、期待していたのは確かであり、それがCLEVER SLEAZOIDの「声も出ないくらいに…そんな今に一人と気付く」という一節に表れているのである。「自らのこの心、この感情を音楽として投じ切り、何らかの影響を期待していたが、声も出ないようになってしまっている孤独な自分がそこにいる」ということである。
しかし、ただ単に自らの心情を日本語という形で一筆添えただけなのだったら、また話は別である。っていうか「自らのこの心、この感情を音楽として投じ切り、何らかの影響を期待していたが、声も出ないようになってしまっている孤独な自分がそこにいる」というのは大げさに深く考え過ぎなのかもしれないし、的外れであるならある意味で名誉棄損である。ただ単に「声も出ないようになってしまっている、一人である自分に気付く」という当時の自分の状況を言っただけなのかもしれない。
とにかく、私としても汚してしまうようなことはしたくないのである。
しかしDVD「TOUR05 It Withers and Withers」(初回限定版)のDisc3のTaste Of Chaosの収録映像を見ていただければ分かると思うのですが、投げやりに、また、あがいているのが分かるだろうと思う。自分達がやってきたことが、観客に対して影響させることができない、また、虚しきものとして片付けられようとしているがために、このようなアクションとなっているのではないだろうか。どこかで期待しており、不測の結末だったという心持であったということではないだろうか。また、この映像がこのDVDに収められているのも、虚しきものとして片付けられようとしているということを伝えるためのものだったのではないだろうか。

ないがしろにされている事柄に目を向け、そこから生まれる感情を歌い続けてきたが、日はいつものように昇り、社会ではまるで何事もなかったかのようにそこに生きる人々、そしてその営みが眼前に広がっている。

そういうことである。
何度も言うようですが、あくまで私なりの見解である。

悲劇は目蓋を下ろした優しき鬱(更新3)

2007-08-18 18:11:33 | Weblog
-紺碧の海に 浮かんだ君に-
生きてる事から 目蓋を閉じる
ゆっくりと吐いた 命は白い
凍てつく心に 誰も触れない

-紺碧の海に 願った君に-
弱いままの君 君は君でいい
響くかな?君へ 錆びてる声が
言葉に出来ない 今を触れていたい

明日が
もう見えない深海よりもより深くそう深く深く深く眠る明日

deep blue
忘れられない事が きっと辛すぎたから
deep blue
どんな声でどんな言葉で俺に何を伝えるだろう

-紺碧の海に 涙は混ざる-
誰も気付かない 泣いた意味さえ
救えるはずもない 命を感じ
今だけでもいい 生きてください

もう見えない深海よりもより深くそう深く深く深く眠る君

deep blue
いつの間にか傷付くことに慣れすぎた日々
deep blue
冬が眠るあの季節には花束を添えにゆくから



これは「Withering to death」の13曲目
この曲は専ら彼ら自身の境地からのものだと思う。
一般的に考えて、この詞を読んでもまず理解することは難しいのではないだろうか。

「生きてる事から 目蓋を閉じる ゆっくりと吐いた 命は白い 凍てつく心に 誰も触れない」
「弱いままの君 君は君でいい 響くかな?君へ 錆びてる声が 言葉に出来ない 今を触れていたい」
「誰も気付かない 泣いた意味さえ 救えるはずもない 命を感じ 今だけでもいい 生きてください」

「-紺碧の海に…-」から始まるこれらの節を取り上げようと思う。これらの部分が彼が抱いている思い、考え方の表れだろうと考えるからである。

「『生きている』ということから目をつぶろうと思う。
息をゆっくりと吐くと、まるで命まで抜け出てたように感覚する(気が抜けてしまったということではないだろうか。「気」と表現してしまうと一般的な事柄を想起させてしまうため、「命」という表現をしているのではないだろうか。まるで命が抜け出るようなほどまでの空虚感であるということではないだろうか。)。癒えずに凍てついていく心に、誰も触れようとしない。」(この記述は実は最近のものだが〔10 29 18:29〕以前記述していたものが、硬い文章であり、好ましくないと判断したため、残さないこととした)
「世間的、社会的しがらみから自由になれない弱いままの君は、君のままでいい。私のこの凍てつく心からのこの錆びた声は君まで響いているだろうか。言葉にできないような空虚、そんな今を触れていたい」
「『人間の弱さ、あさはかさ、エゴが引き起こす現象』よって泣いた意味さえも誰も気付かない。救えるはずもない命を感じる。今だけでもいい、生きていてください。」

「もう見えない深海よりもより深くに眠っている明日。…もう見えない深海よりもより深くに君は眠っている。」

過ぎ去った後の音楽である。感傷的である。彼ら自身がやってきたことが、虚しきものとして片付けられてしまう。いや、片付けてしまっているのだ。そもそも過ぎ去ってからこの曲を作ったわけではない。当時、アルバム「Withering to death」は人の心を深く捉えたのだ。このような曲を用意しなくても少なくとも可能性を感じていてもいいのではなかっただろうか。彼らの精神は現実ではなく、アルバムの中のストーリーの中で生きているように思えてしまう。それはもちろん彼ら自身が作ったストーリーである。そして「TOUR05 It Withers and Withers」ではそこに「CLEVER SLEAZOID」という章が加わるが、やはりこの曲が歌われることにより、何らかの幕が閉じられていくのである。
‥‥。
いや、自分達で片付けたのではなく、予見していたのだろうか。これまでも、変革的というか制圧するような音楽を創作してきたが、社会現象には至らなかったからだ。
また、彼らが望んでいたのはそこなのだ、と思う。
「死せるすべての世代の伝統が、夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。また、それだから人間が一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものを作りだそうとしているかに見えるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ」SEX PISTOLS(おそらく)という「過去の亡霊どもから名前とスローガンと衣装をかり、この由緒ある扮装と借物のセリフで、世界史の新しい場面を演じようとするのである。」(「」内はマルクス『ブリュメール十八日』)
しかし、個人的にDirでは、その時の衣装が(2005年の前半だと思いますが)5人とも一番好きである。英雄を思わせる衣装であった。SEX PISTOLSだけでは説明がつかないのではないかと思う。そこから、さらに個性的にしたものではないだろうか。いや、というよりも、制度に対する自分達として、SEX PISTOLSのアナーキズム的スタンスを重ね合わせたというか、関連付けたということなのではないだろうか。
SEX PISTOLSだという見解は、浅はかに思えてしまうだろうか。
私がそう考える理由はまずは「Hydra」という曲の歌詞にシド・ヴィシャスのことが出てくること。そしてこれをご覧いただきたい。





‥‥。
実は豹柄を取り入れているということのみをここで説明しようと画像の掲載を試みたのですが、両者の右腕を見てみると偶然にもシドのリストバンドと京のブレスレットの配色が同じなのが今ここで判明したのだった。これではっきりしたのではないだろうか。

ああ深き碧、傷付られたことを、そこから生まれた感情を、忘れられないのがきっと辛すぎたから
ああ深き碧、紺碧の海はどんな声でどんな言葉で俺に何を伝えるだろう
ああ深き碧、いつの間にか傷付くことに慣れすぎてしまったのか、その傷が、そしてそこから生まれた感情が曖昧になっていく日々
ああ深き碧、冬が眠るあの季節には花束を添えにゆくから

そしてここでも繰り返すが、あくまで私なりの解釈である。

制圧しようとした先にあったものは一体何だったのか。そこでは、このような哀愁が流れていたということだろうか。


‥‥。
ネットで検索していたらこの曲は、自殺したファンに対する曲であるということだった。「ああ深き碧」などと浮かれている場合ではなくなってきた。いや、そんなに浮かれてたわけじゃなかったけど。真面目に書いていたから間抜けなのである。そういった意味を含むものであったとは知らなかった。

-紺碧の海に 浮かんだ君に-
-紺碧の海に 願った君に-

これはどういうことだろうか。この「君」というのは自殺をされたファンの方のことなのだろうが、このフレーズから始まる節はその方に訴えてるものなのだろうか。だとすると、解釈の仕方としては前述した通りでもズレてはいないだろう。
もう一度解釈をし直してみる。

「私はもう、『生きている』ということから目をつぶろうと思うよ。ゆっくりと息を吐くと、まるで命まで抜け出てたように感覚してしまう。癒えずに凍てついていく心に、誰も、触れようとはしない。」
「弱いままだった君、君は君でいい。私はどうにかしよう(影響を与えよう)とすることは、もう止めにしようと思うよ。君のところまで響くだろうか。まるで無力であるような、私の錆びた声が。言葉にできないような、そんな今を触れていたい。」

-紺碧の海に 涙は混ざる-

これから始まる節もも訴えているものであると考えられるだろう。
「誰も、気付かないんだ。これまで、泣いてきた意味を。もう君のように他のみんなも救えないんだよ。そんなみんなの命を感じている。今だけでもいい、生きて欲しいと、思う。」

なんか、すごい内容になってしまった。本当に合っているだろうか。なんか読む者に悪影響を与えそうである。

一応、今回のところはこれまでとする。


と、いうところで終わりましたが、再度解釈を試みたい。

誰も気付かない 泣いた意味さえ
救えるはずもない 命を感じ
今だけでもいい 生きてください

のところですね。
「誰も気付かないんだ、泣いた意味さえも。救えるはずもなかった、君の命を感じていた。今だけでもいい、生きてくださいと、祈った。」
ちょっと、これは無理があるだろう。この部分は自殺されたファンの方とは関係のないものなのだろうか。
もう一度試みる。
「誰も気付かない、泣いた意味さえも。君のように息絶えてしまうかもしれない者達の命を感じ。今だけでもいい、生きてくださいと、祈った。」

今の私としては、こんなところではないだろうか。

CLEAVER SLEAZOID(改訂2)

2007-08-17 19:57:14 | Weblog
Wake up you're dead(Sleazoid)
(死に目覚めろ[下僕ども])

Doing meaningless shit over and over
(たびたび無意味な糞をする)
I'm just a third-rated star covered in blood
(僕はただ血にまみれた3分の1評価される星です)
See the prince on the rocking horse,his polished face looks cool
(揺り木馬の上の王子を見てみろ、あいつの磨きあげっ面はクールに見える)
I'm just gonna spill my guts on you
(俺はあいつにただ何もかもぶちまかすだろう)

Under the name of Justice
(正義の名の下に)
You can't break my soul
(お前は俺の精神を粉砕することができない)
Under the name of Justice
(正義の名の下に)
Kill yourself
(自滅しろ)
Think,you moran
(お前のモラルで考えろ)
Fall out of line you cockroach
(列を崩せ、ゴキブリどもが)

Right,left,front,and back,it overflows with despair and pain
(左、右、前、後ろから絶望と痛みであふれ返る)
They say this anger,this emothion,and this passion is all a lie
(やつらはこの怒り、この感情、この情熱はすべて偽りだと言う)
Wither...
(腐敗しろ)
I'm not even trying to justify myself
(俺はただ言い訳もしようとしない)

The dark dark Sunday,the blood stains
(暗く、憂鬱な、日曜日 血は染みを付ける)
You can't save yourself
(あなたはあなた自身を抑えられない)
The dark dark Sunday,the blood stains
(暗く、憂鬱な、日曜日 血は染みを付ける)
One day I will fuck your parents
(いつか、俺がお前の両親を殺ってやる)

This is the last time
(終焉の時)
Welcome to the garden of destruction
(ようこそ、破壊の庭へ)

声も出ないくらいに…そんな今に一人と気付く

The night is cold and long
(夜は 冷たくて長い)
The night sky is deep and wide
(夜の空は 深くて広い)



偽善者と呼ぶ者たち、制度の上にいる人たち、またその下にいる人たちに対して、そしてまた、子供をダメにしようとしている無理解な親達に向けた、一線を越えた感情を露わにした曲である。
「やつらは制度の中でただ言いなりになっているだけで、ただ無意味にクソをするだけだ。
僕はただ血にまみれた3分の1評価される星です。
制度の上にいるあいつを見てみろ、あいつの磨きあげっ面はクールに見える。
俺はあいつに何もかも、この持っている感情をぶちまけるだろう。
お前は俺の精神を粉砕することができない。
正義の名の下に自滅しろ。お前のモラルで考えろ。列を崩せ、ゴキブリどもが。
周りから絶望と痛みであふれ返る。やつらはこの怒り、この感情、この情熱を偽りだと言う。
もう俺はやつらに何も言おうとはしない。
日曜日は暗く、憂鬱で、血が染み付く。
あなたは自分自身を抑えることができない。
いつか、お前の両親を殺ってやる。
終焉の時、破壊されていく光景へ。
声も出ないくらいに…そんな今に一人と気付く
夜は、冷たくて長い 夜の空は、深くて広い」

彼らはこれを正義感を持って歌っている。激烈である。
しかし、その裏側に見え隠れしている私的な感情がある。「声も出ないくらいに…そんな今に一人と気付く」である。この曲を歌うことにおいて彼ら、もしくはヴォーカルである京を突き動かしているものの表れであり、この部分は好感を持ってしまう。
素直なのだ。ポロッと一行、私的で素直な思いのその部分だけ日本語で書かれているのである。
‥‥いや、突き動かしているものということではなくて、ただ単にそこに私的なものをポロッと一行添えただけなのだろうか。
「この曲にはDirの全てが込められたもののように思う」というニュアンスのレビューを読んだことがある。私もそう思う。集大成的なものなのだと思う。
なんというか、誰しも持ってしまい兼ねないような、感情ではないだろうか。なかなか他人事とは済まされないものではないだろうか。そして、この曲はとても危険を孕んでいると言えるのではないだろうか。実は、私も一時期この曲にとり憑かれていたのである(いろんな要因が重なって)。「One day I will fuck your parents」と、まるで中毒者のように何度も呟いていたのである。
もしかすると一番対処したい曲なのかもしれない。

この曲を聴く者はまず思ったかもしれないが、洋楽のへヴィメタのスタイルを取り入れているところがあるのではないだろうか。それも、最もヘヴィで、ハードなジャンルのものである。海外進出に伴って、視野が広まったのではないだろうか。洋楽はすごいと思う。日本人には容易には真似できない、ダイナミックさがあるからである。そういうスタンスで日本でやるのはとてもエネルギーがいるのではないだろうか、と思った時があった。大雑把に言ってしまえば、日本は「集団」であり、西洋は「個人」なのであり、洋楽のような境地に辿りつくのは、周囲からの影響力が無い分、日本に比べて、やりやすい面があるのではないだろうか。「そういった感情を持つ者もいるし、そういったものを音楽にする人もいる」で済むからである。日本でそこまでのスタンスに辿りつくのはまず困難なことだったのではないだろうか。他は日本社会という枠組みの中で、いろいろ見合ったようにするわけだし、しかし彼らはそんな中で枠組み自体と対立しているからである。「集団」というジェル状のような場所から、体中を引き攣らせるような思いで、「対立」の場所まで辿り着いたのではないだろうか。歌詞の言葉の選択から何から注意を払って、足を踏み締めて、である。外部からではないだろう。「集団」という内部から、「対立」まで辿り着いたものだろうと思う。そのため、日本社会の「暗い部分」によるものの激烈な情念を歌い切ることに成功しているのである。現代の日本社会の「暗い部分」による怒り、憎悪、破壊衝動を形作ることに見事に成功している。この曲を聴くだけで、日本人がどのような暗い情念を持ってしまうのかが一発で分かるのである。また、Dir en greyの集大成というのはそういうことなのだ、というふうにも言えるのではないだろうか。
ヴォーカルである京は、この曲を犯罪意識的なものを持って世に出したのではないだろうか。且つ正義感を抱き、である。そのように感じてしまう。彼は、ないがしろにされていく中で、抱きかねないここまでの感情を掴み取り、音楽として表現し、見事に証明してみせたのである。‥‥続く

THE FINAL(更新5)

2007-08-17 19:34:46 | Weblog
解けてしまう意図を見つめ…文字に出来ない左手です
血を流す度に生きてる理由…見出す言葉が鮮やかで

手の中には愛すべき人さえも華々しく散って
手の中には生きた意味刻んでも虚しき華と知る

The Final

一つ二つと増え続ける…何故に笑えない餌となる?

深き獄の心決して戻れはしない
明日を触れない自虐的敗北者
Suicide is the proof of life

手の中には愛すべき人さえも華々しく散って
手の中には生きた意味刻んでも虚しき華と散る

So I can't live
そう無くしたモノはもう産まれない
生きてる証さえ求められない歌
Let’s put an end…The Final

未遂の蕾咲かせよう‥‥‥



これは「Withering to death」の11曲目にあたる。
「解けていってしまう生きる意図だった事柄を見つめながら、左手首を切るが死を決定付けることができない私がいる。血を流す度に生きている理由を、見出していく時の言葉が鮮やかだ。
私から愛すべき人さえも離れていってしまった、私の「生きる意味」であったものも虚しき、儚きものであると知る
一つ二つと笑えない理由が増えていく、なぜにそのような笑えないものの餌食となってしまうのか。
深い地獄にいるような心境からは決して戻れはしない。明日を触れられない自虐的敗北者。
(自殺は、生きている証である)
私から愛すべき人さえも離れていってしまった、私の「生きる意味」であったものも虚しく、儚く散っていく。
だから私は生きることができない。
なくしたものは、散ったものは、もううまれない。そして、この歌は生きている証さえも求められない歌なのである。
(終止符を打ちましょう…自殺することに)
自殺未遂で終わらせよう‥‥‥」

要約すると、
「私から愛すべき人さえも離れていって、私にとって生きる意味だった事柄も虚しき、儚きものと知る。
深い地獄にいるような苦しい心境から決して抜け出せない。明日を触れることができない自虐的敗北者。
自殺は生きている証である。
私から愛すべき人さえも離れていって、私にとって生きる意味だった事柄も虚しく、儚く散る。
だから私は生きることができない。
なくしたものはもううまれない、そしてこの歌にも生きている証を求めることができない。
自殺をすることはやめにしよう。未遂で終わろう。」

もっと要約する、
「私から愛する人も、生きる意味である事柄も、儚く散っていく。
そのようなとても苦しい心境からは決して抜け出せない。自殺しようとしている人は明日を触れることができない。
自殺は生きている証である。
だから私は生きることができない。
なくしたものはもううまれないし、そして生きている証さえもこの歌にも求めることができないから。
そのような状況でも自殺をすることはやめにしよう。」

「自己を確認するものは散り、自殺が生きている証であり、なくしたものはもううまれないし、この歌にも生きている証を求められないのだ、そのような辛い状況からは抜け出せないけど、それでも自殺するのはやめにしよう」なのだ。
とてつもない歌である。このように意図してこの音楽を創作したかは分からないが、こうなってしまうのだ。
社会の悲観的な面を取り上げ、悲観的な音楽を作り、悲観的な感情を歌おうとするから、論理的にこのような形になってしまうのではないだろうか。

これまであった人と人との繋がり方、社会的な基盤、つまり枠組み、形のみが残ることになり、本質が失われていった、というような社会状況の下で、私はこの歌はそういった誰でも経験し得るような喪失した状況に光を当て、音楽にしたのだと思ったのだった。
私は本当に、この歌によって彼らを英雄だと思ったのだった。その当時は喪失した境地に光を当て音楽にすることによって希望を与えることをしていたのだと、考えていたのだった。「TOUR04 THE CODE OF VULGAR [ism]」のライブにおいて、ヴォーカルである京が「無くしたものは産まれない」の部分は教え諭すように歌うのである。(再度見てみるとはっきりとそのようなことはしてはいなかった。どうして私はそのような誤認をしていたのだろうか。若干それらしいものはあるが。)しかし、「TOUR05 It Withers and Withers」においてはこの歌を歌う前に「希望を捨てろ」と言うのだ。希望を与えるものではなかったのだ。使っている言葉もそもそもおかしい。「そう無くしたモノはもう産まれない」をどうして「そう失くしたものはもう生まれない」にしないのだろうか。大体、「産まれない」は一般的にお産に使う言葉だ。そして「I can't live」ではなく、「I can live」にしないのは、彼らの音楽のスタイルによってのものだろう。社会の悲観的な面を取り上げ、音楽を作り、悲観的な感情を歌っていく、ということである。そういうスタイルの音楽を作ろうとするがために、言葉の選択もこのようなものになってしまうのではないだろうか。とは言っても「TOUR04 THE CODE OF VULGAR [ism]」でのこの曲での彼らは、少なくとも彼ら自身にも英雄的な自覚があったのだ(はっきりとそうだと言える材料がなくなってしまったがそうであると、思う。)。しかし「TOUR05」でのライブではもう本質的に何かが違ってきているのだ。いや、そうではない。実は、「TOUR05」でのライブではじめてこの歌が本質的に歌われているのだ。「希望を捨てろ、そして破壊に転じろ」ということなのだろう。
この歌は、彼らが彼ら自身の境地を歌ったものだという見方もできるのではないだろうか。
いや、単に彼ら自身の境地を歌ったものだとしたら、聴く者に共感し得るものにはならないだろう。この音楽はそれだけでは納まらないものだろう。そんなことを言ってしまったら、彼らに本当に申し訳が立たないだろう。俺はなんて馬鹿なことを言っているのだろうか。ここまでの境地を音楽にし得たのは日本でもおそらく彼らだけなのではないだろうか。ひょっとしたら、海外でも見ないのではないだろうか。この境地は現代の日本社会で生きる者ならまず経験するものだろうと思う。断っておくが、手首を切ることを言っているのではなく、人、生きがいの一時的な喪失感を言っているのである(一時的だ、何したってずっとそのままなわけないだろ)。思わず目を背けたくなるような、いち早くそこから抜け出したくなるような境地を彼らは音楽にし得たのだ。確かに、詞はよろしくない。しかし、詞がよろしくなくなっているのは悲観的に歌っているからではないだろうか。また、この音楽は彼らが彼ら自身のもしくは、彼(ヴォーカルである京)自身の深部を音楽にし、それが日本社会で生きる者が共感し得るものとなった、ということなのだろうか。しかし、忠実である。この境地を見事に音楽にし得ているのである。私が彼らを英雄だと思った理由がお分かり頂けるのではないだろうか。今でも、この音楽を聴くとそう思ってしまうのではないだろうか。大体、カッコ良過ぎるのである。彼らが国境を越えたのは本当に喜ばしかった。ネットで検索してみると同じような心持の人が結構いた。当時の自分にとって本物が評価された、ということを意味していたからだ。
コンピレーションアルバム「Taste Of Chaos」でこの曲が取り上げられたのが印象深い。いや、それとも彼らからこの曲を申請したのだろうか。はっきり分かりませんが。いずれにしても、海外から彼らを見る者にとって、あるいは、彼らにとって意義深い曲であるということだろう。

本当にもったいないと思う。これでは、このような曲があることを大々的に社会に提示することできないからである。
彼らはそういう意味では幻の英雄達なのである。そういうことになってしまう。






私はこの曲のことを知り、CDを購入し、初めて聴いたとき、「Dir en greyは完結したな」と思った。そして同時に思ったのだった。まだやるのか、そこまでの境地まで辿りついたのにどうして終わりにしないのだろうか、すごいじゃないか、偉業じゃないか、後は一体何を表現するつもりなのだろう、それ以上の境地など存在するのか?、と‥‥
その後、彼らは破壊に転じていくのである。破壊へ展開していくこととなるのである。私にはそう見える、ということである。

まだよろしくない詞であると、考えられていない時期にそう思っていたのだった。境地に関して考えるなら、すごいものだと思う。
ただ、例えば歌わない方がいい曲であると思う。内容的に、縁起でもないものだからである。危険なのだ。タブーに近いものである。

Beautiful Dirt(改訂)

2007-08-17 19:23:35 | Weblog
彼奴は俺を見下している
死ぬまで愛してやるから
お顔が一番の自慢だろ
たいした事ねえクズ野郎
消えろ

彼奴は俺を騙してる
おまえがだまされてんだよ
絶望のドン底に消えな
甘えん坊のお坊っちゃんが

彼奴は俺を認めている
そこに気付きたくないだけさ
自分の弱さに酔ってんじゃねぇ
ピンクのあの子にでも甘えてな

活きり起つアレをブチ込んで
活きり起つコレもブチ込んで

最高のバラードを送ろう
偽善に溺れたお前に
最高のバラードを送ろう
愛して止まねぇnumber-4

そそり起つソレをブチ込んで
そそり起つドレもブチ込んで

blow

生きている だけで公害だ
生きている だけで重罪だ
生きてる だけど死んでくれ
俺は平気で自分を棚に…フフ



「Withering to death」の11曲目にあたる。
偽善者と呼ぶ者たち、また制度の上にいる人たち、またその下にいる人たちに対して向けた曲だろう。
堪忍袋の緒が切れた的である。ある時からひた隠しにしていた事柄を持ち出し、白黒をはっきりさせるようなことを書いている。
「彼奴は俺を騙してる。でも(ただ言いなりになってる)おまえがだまされてんだよ」
「彼奴は俺を認めている。そこに気付きたくないだけさ」
窓際族やリストラ、またそれによる自殺という事態が起こってしまってんだろ、彼奴は俺を認めてるだろう。でもそこに気付きたくないだけだろ?
ということ言っているのではないだろうか。

GARBAGE(更新2)

2007-08-17 19:08:21 | Weblog
As dark as dark sky and earth ,dizzily mind
(暗い空と地球と同じくらい暗い、目が眩んだ心)
As sore as sore the back of the gullet,dizziness
(食道の後ろの痛い所と同じくらい痛い、眩暈)

You can't catch me,can't catch me
(あなたは私を捕えることができない、捕えることができない)
Can blind birds fly? They can't
(目が見えない鳥は飛ぶことができますか?飛ぶことはできません)

I go up the blind stairs intently
(私は、夢中で見えない階段を登ります)

Ladies and gentlemen,time is over
(それでは皆さま、時間切れです)
Ladies and gentlemen,please die
(それでは皆さま、死んでください)

排水溝に流れてゆく俺の子供は無能の欠片
俺の手じゃ何も掴めない

Like a garbage I go back to doing
(ゴミのように、私はすることに戻ります)
Whatever I may wish ,it's weed life
(私はするかもしれないことは何でも望むだろう、へなちょこな生涯でも)

Night and day at the end of the day,all day and so every day
(日夜、日の終わりに、日中と本当にいつの日も)
夢さえも叫ぶさ I want to become happy
(私は幸せになりたいです、と)

薔薇色真っ赤口笑う俺の子供は無能の欠片
自虐…虐待…死ね…忘れたい…大嫌い…
花びらゲームの数え唄



これは「Withering to death」の7曲目にあたる。
「希望の光が見えないほど、地球で起こっている問題ほどに悲観してしまう、無思慮な人々の目が眩んだ心。内臓のどこかを蝕むような痛みの、眩暈。
あなたは私を捕えることはできない、捕えることはできないだろう。目が見えない鳥が飛ぶことができないように、あなた方の目が眩んでいる心では私を捕らえることができないだろう。
俺は何かを目指して夢中で暗く先の見えない中、未開である中を突き進む。
それでは皆さま、時間切れです。それでは皆さま、死んでください。
排水溝に流れてゆくように社会にないがしろにされてしまう、俺の持ってる心、俺のこの感情は無能の欠片 ないがしろにされていってしまって俺の手じゃ何も掴めなくなる
ないがしろにされるもののように、私は社会では歓迎されない行為に戻ります。私はするかもしれないことは何でも望むだろう、へなちょことされる生涯であろうとも。
日夜、日の終わりに、日中と本当にいつの日も夢さえも叫ぶさ『私は幸せになりたいです』と
制度の上にいる奴らは薔薇色のような真っ赤な口で笑う、俺の持ってる心、俺のこの感情は無能の欠片 社会では自虐…虐待…死ね…忘れたい…大嫌い… の言葉が、花びらゲームの数え唄のように目まぐるしく聞こえてくる」

これはあくまで私なりの訳文である。
注意して欲しいのが「Ladies and gentlemen,time is over Ladies and gentlemen,please
die(それでは皆さま、時間切れです。それでは皆さま、死んでください)」の部分である。彼らはただ本音を音楽にしているのかもしれないが、しかし、この歌詞はどうだろう。「Merciless Cult」、「C」に見られるような、日本社会に生きる人々を突き動かし、社会に対して変化を求めるような傾向ではないということである。ただ本音を音楽にしているのかもしれないが、これだと変化の可能性を捨てていることになる。それともこれは制度の上の立場にいる人間に対して向けたものなのだろうか。だとすると、制度の上にいる者達への変化を期待できなくなってしまったのだろうか。


アルバム「Withering to death」より以前から、社会を変化させようというような傾向はあった。秒「」深、「Child Prey」や、あと変化ではないかもしれないが劇的であるものに、呪うように破壊的である「残-ZAN-」や、カルト的傾向があり社会的意味付けをかき消してしまうように破壊的な「Hydra」などがある。(このように真面目に書いてしまうとオタクに思われてしまうかもしれないが、私は別にオタクではない。都合上やむを得ないだけである。)それに限らず社会の悲観的な面を取り上げた音楽、絶望を歌った音楽があり、例えば「TOUR04 THE CODE OF VULGAR [ism]」のライブではそれらの音楽を聴く者に共感させ、そして破壊的な音楽へと導かせていく形をとっている。そういう形式ができているのである。(いや、今考えてみればこれは、DVDの曲順である。勘違いしていました。2007 10 26 18:23)そして、この時点で、自分達が持っているこの心、この感情で人を突き動かし社会を変化させることができないのだと、思ったのだろうか。
自分達で終わらせているのである。そのことは何よりも「悲劇は目蓋を下ろした優しき鬱」の詞にはっきり表れている。日本各地でライブはやったのかもしれないし、海外においてもライブはしたのかもしれないが、要するにファンと自分達だけでの空間ではやったのかもしれないが、日本社会に対して自分達の感情をぶつけようなどということはしていないのだ。なぜわざわざ自分達で終わらせるような形をとり、日本社会に対しての行動に出ないのだろうか。アルバム「Withering to death」は劇的なことを起こす一連の音楽があり、自分達でたたみかけるように感傷的な音楽で終わるのだ。

もしかしたら彼らは社会の変化させようとしたわけではなく、破壊しようとしていたのだろうか。

いや、おそらく破壊ではなく、制圧、なのだろう。破壊衝動であるのは確かだろう。
変化の可能性とか、そういった変化させようなどという計らいは持ってなんかいないのだ。おそらく、このような音楽を創作し具体的に社会をどうしようなどという考えすら持っていないのかもしれない。変革というより制圧であり、おそらくそのような感覚でこの類の音楽は創作してきたのだ。私は、考え違いをしていたのかもしれない。
でも、彼らに失望したわけじゃないけれど。「TOUR05 It Withers and Withers」で、音楽表現による彼らが目を向けてきた、誰でも抱きかねないような諸感情が、虚しきものとして片付けられるあの空虚感は、私には耐えがたかった。こう書くことによって破壊を賛美しているということではなくて、彼らが目を向けてきた、誰でも抱きかねないような諸感情が、また、彼らの生き様が社会から空虚に片付けられてしまうのが、耐えがたかったのである。
彼らは、それらの諸感情が真実のものであることを証明するために、自らの身を捧げたのである。
そう考えれば、やっぱり彼らは、英雄なのである。


しかし、このアルバムをもって殺意に転じているのである。殺意は、人を人として見ることを諦めるということであり、諦めの要素があるのだ。殺したら、もうそこで終わるのだ。彼らがこのアルバム以前にやってきたことは殺意であっただろうか。諦めだっただろうか。社会がないがしろにしている、誤魔化している事柄、諸感情を引っ張り込んできては音楽として表現してきたのではないだろうか。少なくとも正義感を抱きつつ。他にも彼らを突き動かしているものはあるのかもしれないが。
おそらく殺意ではなかっただろう。諦めてもいなかっただろう。
彼らが感じていたのは制圧の可能性である、と思う。変革であるのなら、社会をかようにしていくという計らいを持っているはずですが、彼らはおそらくそういったものを持ってはいないからである。そしてこのアルバムをもって、制圧するという社会的に影響を与えること自体を諦めたいうことなのだろう。いや、こういう言い方は適切ではないだろうと思う。見切りがついたのだ、と思う。自分達のやっていることに見切りがついたのだ。もうこれ以上やっても無理なのだ、と。
どうして俺達がここまでやっても、ダメなんだ?お前らがダメだからだ、ということではないだろうか。心情の流れとして、そうではないだろうか。

Ladies and gentlemen,time is over
Ladies and gentlemen,please die
みなさま、もう時間切れです、みなさま、どうぞ死んでください。

そういうことではないだろうか。
では、具体的に誰に向けてなのだろうか。ファンにも向けているものなのだろうか。そうではないと思う。制度に携わる、自分の都合でしか物事を判断しないようなエゴイスト、無頓着な者に対するものではないだろうか。だとすると、そのように無頓着であるから、このような痛みを受ける者がいるのだということなのだろう。

‥‥。
違うだろうか。これも制圧の一環だということなのだろうか。でも、殺したら終わりなのだ。しかし、そのように言いたくなるような気持ちは分かるのだ。そういうときはあるのかもしれない、と思う。ただそれを、歌ったに過ぎないのだろうか。それだけなのだろうか。
Ladies and gentlemen,time is over
Ladies and gentlemen,please die
これを本格的に捉えている私が愚かなのだろうか。ただ、誰でも持ってしまうのかもしれない心情を歌ったに過ぎないのだろうか。

C

2007-08-17 18:20:20 | Weblog
そうさ肉の割れ目通う豚に問いかけてみな
満たされた数だけ金をバラ撒き心を失う
剥がれ堕ちた顔に娘は笑いかける
そう晴れ着の下の愛情
そうさ晴れ着の下のご愛想笑い

極めて難しくないCの回答解らないより
現実を見つめる両目の方が何よりも大事
剥がれ堕ちた空に俺は笑いかける
そう晴れ着の下の愛情
そうさ晴れ日の下の…

俺を見つめている貴方様はおっしゃるばかり
決して抱き寄せてはくれない大きな貴方の手
俺の誕生日には愛を買い与える
今日は曇りのち雨

実際 愛したい 目の前の世界を
実際 でももう

dead freedom

叫ぶ事を忘れたのならば ここで叫びここに生きろ
何度死んでも叫び向かうさ 声を壊し 声を殺せばいい
叫ぶ事を忘れたのならば ここで叫びここに生きろ
何度死んでも叫び向かうさ 声を壊し心で叫べばいい

We can dive



この曲はアルバム「Withering to death」の2曲目にあたる。
1節目は援助交際について書かれたものだろうと思う。2節目のCは学校での教育についてのことだろうか。だとすると、勉強できるよりも学校の授業で教師の質問に答えられるよりも現実を見つめる両目の方が何よりも大事なのだということなのではないだろうか。3節目は現代での家庭において子供が親に対して抱いてしまう心情について書かれたものだろうと思う。要するに社会での悲観的な面を描いているのである。そして4節目へと繋がっていく。「実際に私は目の前にあるこの社会を信じたいんだ。でも、このような社会だと、もう」。
「叫ぶ事を‥」から始まるこの節に書かれているこの姿勢は、彼らの社会に対して向かう姿勢そのものなのだろう。我々とともに心で叫び心で生き何度朽ちても死んだつもりで叫び向かおう、「生きる意志をさらけ出そう」ということなのだろう。
そして「We can dive」。これは「私達はその境地へと飛び込むことができるんだ」ということだと思う。

この曲において、彼らが抱いている“英雄”である思いというものを強く感じる。
彼らの正義感を持っている側面が最も強く表れた曲なのではないだろうか。

Merciless Cult

2007-08-17 18:07:27 | Weblog
悲観的な君と無慈悲な君と
我 可愛い君は其処で何を視ている

比較と比例の中叫び狂い果てる
お前が望んだ結末だろう
さぞかしロマンティストなんだろうぜ

不意に思い返す 此処に愛は無い
繰り返し貫く 何処か壊れてゆく

愛してください この血もその意味も
愛してください この日にこの価値を

Gasp for breath



この曲はアルバム「Withering to death」の冒頭を飾る曲である。

いわゆるマニュアル通りの人生を歩んだ者が、悲惨な結末を迎えるような事件が起こり、ある社会現象にまで至ったのだった。彼らはそういった方たちに向けたのではないだろうか。
そして社会に対して強く主張する。
「この血とその意味を分かって欲しい。そして今このような社会状況になっているこの日にこの価値を、その重みを分かって欲しい。」

いや、もしかしたらそうではなくここでも、悲惨な結末を迎えた境遇の人に対して向けた主張なのだろうか。わざわざ、そういう人たちに主張しているのだろうか。
なぜ、そういう考えが出てくるかと言えば曲の流れがそうだからである。
「愛してください この血もその意味も 愛してください この日にこの価値を」
の節に入る前に必ず
「比較と比例の中叫び狂い果てる お前が望んだ結末だろう さぞかしロマンティストなんだろうぜ」
の節を歌う流れだからである。
そうなるとまたニュアンスが違ってくる。
「この血をその意味を愛してください。あなた方がそういう境遇になったこの日にこの価値を、その重みを理解し、懺悔してください。」
ということになる。
それにタイトルの意味が「情け容赦ないカルト」なのである。

また、そうではなく、いずれのニュアンスをも持ち合わせていると、考えればいいだろうか。
ちなみにCDを買った当時の私は「この血とその意味を分かって欲しい。そして今このような社会状況になっているこの日にこの価値を、その重みを分かって欲しい。」というニュアンスで聴いていた。

私が彼らに対して抱いていた思いは“英雄”だった。彼ら自身もそういう思いを抱いたのではないだろうか。