A級戦犯として十三階段を上った七人の遺体は、横浜の久保山火葬場で火葬にされた。昭和二十三年十二月二十三日午前零時のことである。それらの遺骨は米兵たちがシャベルで、コンクリート混合作業のよう混ぜ合わせて、誰の遺骨が分明ならぬ状態にしている。戦後間もない頃だったから、右翼や元軍人がA級戦犯の遺骨を奪うことを恐れたからである。そのうえでGHQ(占領軍)は「A級戦犯の遺骨は太平洋に捨てた」と発表した。多くの日本人は
その説を信じた。
東京裁判の三文字正平、林逸郎両弁護人らが密かに遺骨を運び出す計画を立て、その相当量は日本人の手によって運びだされている。火葬場に隣接する興善寺の住職が両弁護人の意を受けて、火葬後の暗夜、米兵たちの油断をねらって遺骨を持ち去り、それから十年間、興善寺に秘匿されていたともいわれている。米兵に見つかれば、射殺されるのを覚悟の住職の働きであったし、占領下では、どこに通報者がいるか分からない。真相は隠された。
日本山岳会の会員の菊池今朝和(あさと)さんは親しい友人だが、「私は、三ヶ根山に登ったことはないのですが、登ったことのある女房の話では、山頂の奥まった場所に”殉国七士廟”が、更に今次の大戦の慰霊碑が競うように(県ごととか、部隊別とか)建てられ、異様な雰囲気を感じる山だった」と連絡してきて頂いた。
三ヶ根山は愛知県蒲郡、渥美半島の付け根に近いところにある山。粉骨となっていた七人の遺骨は興善寺から三ヶ根山の墓地に合祀され、殉国七士廟が建てられた。六〇年安保の年、岸内閣の時であった。
殉国七士廟には碑文が記されている。それが遺骨奪還の真相を伝えている。
?七氏は昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米中ソの三国代表が立ち会い、陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。この時の処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、後の黒人運動家の牧師であった。昭和35年に三ヶ根山山頂に廟と墓碑が建立された。七氏を顕彰するためではなく、殉国者を悼むためのものである。
?ドイツでは処刑された戦犯の骨は粉砕されて飛行機上から撒かれた。マッカーサー司令部が七氏の遺体も遺骨も家族に渡すつもりがないことが判明し、なんとか遺骨だけは手に入れたいと考えた人達がいた。七氏の火葬は横浜市久保山の火葬場で米軍によって12月23日に行われた。火葬場は武装した米兵に囲まれ、場内には飛田場長ら4人の日本人係員が入れたのみだった。彼らは米兵の目を盗んで七氏の遺骨を七つの骨壷に納めることに成功した。しかし隠した場所に香をたいたため米兵に見つかり没収されてしまった。米兵は遺骨を鉄棒で粉砕、小箱に納めて持ち去り、残りは骨捨て場に遺棄した。
?12月25日夜半、弁護士の三文字正平氏と久保山興禅寺の住職市川伊雄師は飛田場長と共に遺骨の遺棄された場所に忍び込んだ。骨捨て場というのはコンクリート製で、骨の投入口は狭く、火掻き棒の先に空き缶をつけ、苦心のすえ拾い上げた。
?遺骨はその後、万一を考え戦死された三文字氏の甥の名前で熱海の興亜観音に安置されていた。戦争の責任を極刑で一身にうけ、刑場の露となった殉国者に、日本の世情は冷たかった。長らく遺骨の埋葬さえ許されず、回向すら人目を避けて行わなければならなかった。
?遺骨は処刑後、関係弁護士や僧侶の必死の活躍により横浜市久保山の火葬場から密かに取得し熱海市伊豆山中に人知れず祭られていた。その後遺族、関係者の同意を得て幡豆町の好意により三河湾国定公園の三ヶ根山頂に埋葬された。
日本青年社は七人の処刑と遺骨奪還について次のように主張している。
昭和20年8月15日、わが国の敗戦によって終結した大東亜戦争の戦争責任を、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国は極東国際軍事裁判を設置して追求することを決定しました。いわゆる東京裁判です。
裁判は事後法により審判され票決によって絞首刑を含む判決がなされ、昭和23年12月23日末明、絞首刑の判決を受けたA級戦犯とされた七士の絞首刑が執行されたのです。
また当時としては命がけともいえる火葬場から七士の遺骨を盗み出そうという話が決まったのは、絞首刑の判決がいい渡された昭和23年11月12日の午後のことでした。
では、なせこのような計画か決定されたのか。
実は絞首刑の判決を受けた七士の各担当弁護士は、遺体を家族に引き渡したいとの思いからマッカーサー司令部を訪問、請願したが了解を得ることかできなかったからなのです。
このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に渡されないことは明白。そこで数名の有志たちは「せめて遺骨の一部だけでも遺族にお渡ししたい」との一念により、無法とも思える計画を立案しました。無論、その実行計画は極秘裡に、しかも綿密に策定されることが絶対条件だったのです。
それには、まず刑の執行日を速やかに探知しなければなリません。そこで有志の一人か極東国際軍事裁判に関与した某アメリカ検事に近づき、ようやく七士の刑の執行日はクリスマスの前日の12月23日、また火葬場も推察することができました。そこで有志たちは火葬場である横浜市久保山火葬場の買収工作を行ない成功したのです。
しかし、当日はアメリカの監視が厳重であったために目的を果たせませんでしたが、翌24日はクリスマスイブなのでアメリカ人は浮かれて見張りが手薄になることがわかりました。
当日、木枯らしが吹き荒(すさ)ぶ夜半、黒装束に身を固めた三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職は、飛田火葬場長の案内で目的地に近づきました。穴は暗くても灯火と物音は絶対禁物なのです。見張りを気にしつつ手さぐりで灰をかき集める作業は想像以上に難事でした。
こうして取得した遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中に安置されていましたが、幾星霜(いくせいそう)を経て、その後遺族をはじめ政財界その他各方面の有志の賛同と幡豆町の好意を得て、日本の中心地・三河湾国定公園三ケ根山頂に埋葬して墓石を建立し、昭和35年8月16日、静かに関係者と遺族が列席して初の慰霊祭が行なわれました。
以来、毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭を執り行なう中で、殉国七士廟の存在は多くの人々に知られるところとなり、今日では七士廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。
author : 古沢 襄
杜父魚文庫ブログ | 20060811
http://blog.kajika.net/?day=20060811
その説を信じた。
東京裁判の三文字正平、林逸郎両弁護人らが密かに遺骨を運び出す計画を立て、その相当量は日本人の手によって運びだされている。火葬場に隣接する興善寺の住職が両弁護人の意を受けて、火葬後の暗夜、米兵たちの油断をねらって遺骨を持ち去り、それから十年間、興善寺に秘匿されていたともいわれている。米兵に見つかれば、射殺されるのを覚悟の住職の働きであったし、占領下では、どこに通報者がいるか分からない。真相は隠された。
日本山岳会の会員の菊池今朝和(あさと)さんは親しい友人だが、「私は、三ヶ根山に登ったことはないのですが、登ったことのある女房の話では、山頂の奥まった場所に”殉国七士廟”が、更に今次の大戦の慰霊碑が競うように(県ごととか、部隊別とか)建てられ、異様な雰囲気を感じる山だった」と連絡してきて頂いた。
三ヶ根山は愛知県蒲郡、渥美半島の付け根に近いところにある山。粉骨となっていた七人の遺骨は興善寺から三ヶ根山の墓地に合祀され、殉国七士廟が建てられた。六〇年安保の年、岸内閣の時であった。
殉国七士廟には碑文が記されている。それが遺骨奪還の真相を伝えている。
?七氏は昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米中ソの三国代表が立ち会い、陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。この時の処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、後の黒人運動家の牧師であった。昭和35年に三ヶ根山山頂に廟と墓碑が建立された。七氏を顕彰するためではなく、殉国者を悼むためのものである。
?ドイツでは処刑された戦犯の骨は粉砕されて飛行機上から撒かれた。マッカーサー司令部が七氏の遺体も遺骨も家族に渡すつもりがないことが判明し、なんとか遺骨だけは手に入れたいと考えた人達がいた。七氏の火葬は横浜市久保山の火葬場で米軍によって12月23日に行われた。火葬場は武装した米兵に囲まれ、場内には飛田場長ら4人の日本人係員が入れたのみだった。彼らは米兵の目を盗んで七氏の遺骨を七つの骨壷に納めることに成功した。しかし隠した場所に香をたいたため米兵に見つかり没収されてしまった。米兵は遺骨を鉄棒で粉砕、小箱に納めて持ち去り、残りは骨捨て場に遺棄した。
?12月25日夜半、弁護士の三文字正平氏と久保山興禅寺の住職市川伊雄師は飛田場長と共に遺骨の遺棄された場所に忍び込んだ。骨捨て場というのはコンクリート製で、骨の投入口は狭く、火掻き棒の先に空き缶をつけ、苦心のすえ拾い上げた。
?遺骨はその後、万一を考え戦死された三文字氏の甥の名前で熱海の興亜観音に安置されていた。戦争の責任を極刑で一身にうけ、刑場の露となった殉国者に、日本の世情は冷たかった。長らく遺骨の埋葬さえ許されず、回向すら人目を避けて行わなければならなかった。
?遺骨は処刑後、関係弁護士や僧侶の必死の活躍により横浜市久保山の火葬場から密かに取得し熱海市伊豆山中に人知れず祭られていた。その後遺族、関係者の同意を得て幡豆町の好意により三河湾国定公園の三ヶ根山頂に埋葬された。
日本青年社は七人の処刑と遺骨奪還について次のように主張している。
昭和20年8月15日、わが国の敗戦によって終結した大東亜戦争の戦争責任を、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国は極東国際軍事裁判を設置して追求することを決定しました。いわゆる東京裁判です。
裁判は事後法により審判され票決によって絞首刑を含む判決がなされ、昭和23年12月23日末明、絞首刑の判決を受けたA級戦犯とされた七士の絞首刑が執行されたのです。
また当時としては命がけともいえる火葬場から七士の遺骨を盗み出そうという話が決まったのは、絞首刑の判決がいい渡された昭和23年11月12日の午後のことでした。
では、なせこのような計画か決定されたのか。
実は絞首刑の判決を受けた七士の各担当弁護士は、遺体を家族に引き渡したいとの思いからマッカーサー司令部を訪問、請願したが了解を得ることかできなかったからなのです。
このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に渡されないことは明白。そこで数名の有志たちは「せめて遺骨の一部だけでも遺族にお渡ししたい」との一念により、無法とも思える計画を立案しました。無論、その実行計画は極秘裡に、しかも綿密に策定されることが絶対条件だったのです。
それには、まず刑の執行日を速やかに探知しなければなリません。そこで有志の一人か極東国際軍事裁判に関与した某アメリカ検事に近づき、ようやく七士の刑の執行日はクリスマスの前日の12月23日、また火葬場も推察することができました。そこで有志たちは火葬場である横浜市久保山火葬場の買収工作を行ない成功したのです。
しかし、当日はアメリカの監視が厳重であったために目的を果たせませんでしたが、翌24日はクリスマスイブなのでアメリカ人は浮かれて見張りが手薄になることがわかりました。
当日、木枯らしが吹き荒(すさ)ぶ夜半、黒装束に身を固めた三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職は、飛田火葬場長の案内で目的地に近づきました。穴は暗くても灯火と物音は絶対禁物なのです。見張りを気にしつつ手さぐりで灰をかき集める作業は想像以上に難事でした。
こうして取得した遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中に安置されていましたが、幾星霜(いくせいそう)を経て、その後遺族をはじめ政財界その他各方面の有志の賛同と幡豆町の好意を得て、日本の中心地・三河湾国定公園三ケ根山頂に埋葬して墓石を建立し、昭和35年8月16日、静かに関係者と遺族が列席して初の慰霊祭が行なわれました。
以来、毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭を執り行なう中で、殉国七士廟の存在は多くの人々に知られるところとなり、今日では七士廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。
author : 古沢 襄
杜父魚文庫ブログ | 20060811
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