歴史再検証日韓併合ー韓民族を救った「日帝36年」の真実

2007年07月27日 | Books
一章 なぜ、歴史の真実に目を向けないのか

激動の二十世紀と日韓併合の再評価

十九世紀末から二十世紀にかけて、世界史上、もっとも驚異的な現象がアジアの極東において、新しい光として輝きだした。

それは極東の小さな島国と考えられた日本が、旭日昇天の発展を示したことである。中国(朝鮮も)が斜陽に傾く中、明治維新後の日本は、当時の世界の強国・眠れる獅子「清」と戦って勝ち、その一〇年後には、三国干渉以来の仇敵でもあった「帝政ロシア」と日露戦争を戦い、これを勝利に導いた。
六〇〇余年前、自主独立の国であった高麗は、明に戦争で勝つ成算と、民族の故地である東北部(旧満州)を取り戻す見込みがあったにもかかわらず、李成桂の裏切りによって敵国であった明に臣従し、その属国になり下がった。

そうして建国された李氏朝鮮は、スタートから血で血を洗う骨肉の争いと、つまらない権力維持のために、百姓の生殺与奪をほしいままにし、明の腐敗した儒教・朱子学を国教とし、住民を四階級に区分した。既存の産業を潰し、インフラ整備を完全に遮断させたまま、百姓を生屍(いきかばね)(民草)に取り扱ったために、開化と近代化を志向した志士たちは容赦なく処断された。

 悪辣きあまりない李朝の統治下で五〇〇年を経過した朝鮮に隣接し、この生屍に等しい百姓を再生させたのが、日本であり、日韓併合であったことは歴史が証明している。

 だが終戦とともに、北朝鮮では金日成集団が中心となって、再び以前の李朝のコピーとなり下がり、数千万の百姓を餓死か、それ寸前の境遇に落として、苛めつくし、自由と財産を強奪する圧政を続けている。北朝鮮の暴力集団を、同胞だとか、まともな国家と見なすとは、非常識もはなはだしい。国連による制裁もない今日、北朝鮮住民の明日への希望はまったく見えない。

 国家には、領土・人民・主権の三要素と、国民の生命・財産を守る任務があるとされるが、李朝五一八年間と二十世紀の北朝鮮では、まったく顧られていない。
 スターリンによって送りこまれた金日成が北朝鮮でまず着手したのが、日韓合邦時代の北朝鮮住民の生命と財産の掠奪であった。そして繰り返し、「革命」を合唱した。「革命」とは、実力のある有為の人たちを殺すことであった。そうして一〇〇〇万の離散家族を発生させ、数百万人を虐殺し、餓死させた。


応募者が殺到した手稲鉱山の徴用

 北朝鮮の現暴力集団は、はなから嘘と騙しで成立した集団である。この暴力集団は、昨今、日本に対して戦時中に朝鮮人青年七五〇万人を強制連行したとして、慰安婦問題とともに一三〇億ドルの賠償を要求した。

 こんな嘘とでたらめの数字を出すのは、勝手にもほどがある。
 そもそも北朝鮮系の人士、または朝鮮総連では、「徴用」を「強制連行」と言い換えているが、まったくおかしな話である。

 一九三九年度から施行された「国民徴用令」によって、朝鮮からの徴用も開始され、多くの朝鮮人が日本本土に渡ったが、その内容は次のようなものだった。

 たとえば、忠清南道で実施された徴用の例でいうと、公州・扶余・論山・青陽・野川などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約一〇〇〇名の鉱夫募集があった。ところが応募者数ほ約七〇〇〇名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。


 第一次一九三九年九月五日
 第二次一九四〇年三月五日

 場所  扶余邑事務所、及び各郡所在地の面(村)事務所

 試験官 第一回佐藤典正 (三菱手稲鉱業所責任者)

     第二回金丸一郎、金相培(扶余邑長)

 ほか補助役三名


 こうして厳選された約一〇〇〇名は、二組に分けられ、その中の一組は同年九月十一日、論山出発、翌十二日元山港着、輸送船(五〇〇〇トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。採用者(徴用老) たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。

多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩を求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。
 このような徴用の光景は、一九四五年まで毎年見られた。


北朝鮮からの徴用は、ほとんどゼロ

 「強制連行」 の実態そのものが、以上のようであったのに加えて、朝鮮半島での適用地域は、現在の韓国が大部分であって、北朝鮮から徴用で日本に渡った形跡は、ほとんどない(舞鶴で発見された寄留簿を参考)。

左ページの図が示すように、この資料が示すかぎりでは、人数的にも北朝鮮出身者は1%にも満たない。
 また、一九三九(昭和十四)年から一九四五(昭和二十)年の敗戦までの間、日本政府の徴用令で、日本に渡航した朝鮮出身者がどれぐらいの数にのぼるかについては、もっとも多く見積もる資料でも約一五二万名(43ページ資料?)と、北朝鮮政府のいう「七五〇万」という数字とは、大きな隔たりがある。しかも資料?は、朝鮮総連系の発表による数字である。

一方、大蔵省管理局の調査によれば、その数ほ七二万四七二七人である(43ページ資料?)。

 北朝鮮出身者の日本本土への徴用が少なかったのは当然で、というのも当時、植民地を含めた日本全体でもっとも工業化されていたのが北朝鮮で、約六〇〇万の現地従業員の移動離職を防止するために、ほとんどが現地採用の徴用であったからだ。

試しに今、北朝鮮で日本行きの徴用の募集があると仮定したら、おそらく、金正日を除いた約二〇〇〇万人の住民全員が、徴用での出国を希望するであろう。これが真実というものだ。

 北朝鮮系(総連)では、徴用に志願した人数を含め、強制連行と主張するが、強制連行か、志願か、または徴用に対する応募であったかは、主観的判断による。国民徴用令に基づく徴用、または挺身隊の志願者が多かったのは明白な事実であって、それらすべてを強制的に連行したと言うのはおかしい。

歴史再検証日韓併合ー韓民族を救った「日帝36年」の真実 (祥伝社黄金文庫 ち 2-2): 本: 崔 基鎬
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http://tech.heteml.jp/2007/07/post_1023.html

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