松ちゃんの『やりっ放し やられっ放し』

あなたが気になりだしてから 世界が息づいてる(松任谷由実『緑の町に舞い降りて』より)

らいらいていにて

2006-04-03 23:47:59 | Weblog
私は長男である。

長男とはとても、悩める人種なのではないだろうか?
なぜなら、私が長男であることで悩んだ経験があるからだ。

私は、田舎で育った長男である。
だから、都会の人と比べて封鎖的、保守的である。
少なくとも、微かにその片鱗は窺える。

「長男だから、家を継がなければならない」というのが、いくつになっても纏わりつく。
纏わりつく、という表現から分かるように
今ではそれは煙たい存在であり、懐疑的に考えているのだが
どこかで、それは当たり前であり、自分もそうするべきなのであろう…と肯定的にもみている。

好き勝手にどこかに行ってしまって
自分の代で家の歴史が途絶えるというのは
果たして、自分がそんなことをしてまでやる大仕事をしているのか疑問だし
家系にピリオドを打つ資格をもつような人間であるのか疑わしい。
要するに、怖いのである。

ずっと前、それこそまだ田舎に居て、中学生だったか高校生だったか…
友達と将来の事を考えていた時があった。私は、そこで
「自分にはやってみたいことはあるのだが、最終的には家を継がなければならないから…」
と半分人生を諦めかけていたような発言をしたのだが、同じ長男で同じ町に育った相手は
「えっ、継ぐって何!?」と、長男は家を継がなければいけないという考えに既に疑問を抱き
既に、其れを、生きる上でとても保守的な考えとして捉え、僕はその疑問に答えれず、口を噤んだ…。

今はどうだろうか。
都会の大学に来て、色々な人や価値観に出会い、僕が感じたのは
この都会では、自分がやりたい仕事をやって成功していればそれでいい
というような、どこか合理的?というか実利的?に見える。
つまり、先のパラグラフまで述べた事がしたい事と達成する上で本当に保守的に思えてきた。

帰省して、例えば両親と話していても「考えが狭いな。保守的だな。」などと思えて
自分にはしたいことがちゃんとあって、家を継ぐなんて古い古いとなんて文句をなんだかんだと言って
アタマでは解ってるんだけど
所詮アタマで解っているに過ぎない。胸の奥深いところで「長男だから」というのが引っかかっている。

それは、「情」というものなのだろう。
好き勝手する事も、結局は家族の力も頂いて出来ていることなのだから
結局は、コドモなのである。まだ。

この問題も、両親をどう思っているかという問題に帰結する。
都会の解放的な価値観に浸ってるつもりでアタマで理解してるつもりだが

この後天的な問題が九九みたく遺伝子の様に私の体の中枢部分に埋め込まれてしまっている。