
『バースデイ・ストーリーズ』
村上春樹 編訳
2002年・中央公論新社
『誕生日』という横串(テーマ)で、村上春樹が編んだ短編集。
翻訳も全て本人で、最後に自身の書下ろしも一編、という構成。
15年ぶりに読みとおしたけど、何はなくとも、まー、ラッセル・バンクスの『ムーア人』が良い。
良すぎる。
若いうちは皆、若い人間のことしか考えない。
仮に年上の女性と関係を持ったとして、30年後に80歳になった相手と偶然再会する時のことを誰がわざわざ想像するだろうか。
人生の切なさと温かみを、わずか17ページで存分に味合わせてくれる一編。
そして、ウィリアム・トレヴァーの『ティモシーの誕生日』。
一言でいえば、街に出た息子が田舎の両親を捨てる話。
そもそも、編者が誕生日をテーマにした短編集を編もうと思ったのも、ラッセル・バンクスの『ムーア人』と、この『ティモシーの誕生日』を読んだからとのこと。
ハズレの少ない短編集だと思うけど、出版の動機になっただけあって、この2本の出来はやっぱり図抜けてる。
そして、最後に登場する村上春樹の『バースデイ・ガール』。
個人的に、数年前に英語の勉強のテキストにこの短編を使ったことがあって、英訳を読み込んだ(30回くらい読んだ)ので。
何でも5秒で忘れてしまう最近の俺でも、さすがにこの短編だけはストーリーが頭に残っていた。
核心を描かないことで逆にそこを浮かび上がらせるという、いつもの手管が炸裂した短編で・・・。
ホントに思わせぶりな作家だよね、村上春樹って。
『ムーア人』ラッセル・バンクス
”The Moor” by Russell Banks
++++
家まで車を運転するあいだ、泣き出すのをこらえるのが精いっぱいだった。
時間はやってきて、時間は去り、それを取り戻すことはできない。
私は自分にそう言う。
私が手にしているのは、今この目の前にあるものだけなのだ、と私は思いを定める。
でも降りしきる雪の中に車を進めていると、私が手にしているものなんてほとんど何もないみたいに思えてくる。
私が老女とのあいだに今しがた交わした優しさのほかには何も。
だから私はそのことに心を集中する。
++++
中年になった主人公の男性(ウォーレン)が、三人連れで一杯やりにきた行きつけのレストランで、老夫人を目にする。(やっぱ男友達は3人組に限るよね)
彼女は80歳の誕生日のお祝いで、家族と一緒にいる。
主人公は連れの二人に
「俺はどうもあそこのおばあちゃんに見覚えがあるんだが、誰だったか思い出せないんだ」
と聞くが、友人たちは老女への関心がなく、取り合わない。
やがて、思い切って婦人に声をかけた主人公は、その老女が自分が30年前に関係を持った人妻だったことに気付く。
その時、彼はまだ21歳になったばかりで、彼女はもう50歳に近く、夫が居た。
この抜群に良いお話の、何がどう良いのか上手く説明ができない。
最後のシーン、80歳になったかつての情婦と別れた主人公。
雪の中、自宅へ向かって車を走らせるその胸中には、温かさと心寒さが同時に去来している。
人間はみんな消えていくし、思い出も何も消えていく。
我々はみんなゼロになって死んでいくということ。
持っているモノがあるとしたら、それは今持っているモノだけだということ。
『ティモシーの誕生日』ウィリアム・トレヴァー
"Timothy's Birthday" by William Trevor
++++
二人は、誕生日の訪問客が感じたようには、当惑を感じていなかった。
彼らはものごとをすんなり理解した。
彼ら自身の人生のまわりは、まさに残骸の山というところだったけれど、人生の盛りはもう過ぎてしまっていたし、今更気にしてどうなるものでもない。
昔はそんな風には考えられなかったものだが、とオドは思った。
でもシャーロットはもうずっと前から、そのことはわかっていた。
二人の愛は、人生の数々の浮沈や苦闘を乗り越えてきた。
今日というすさんだ一日でさえ、その愛を損なうことはできない。
庭を歩いてまわるあいだ、息子の話は持ち出されなかった。
庭は既に二人の手には負えなくなっていたし、あちこちで打ち捨てられていた。
彼らのお互いの愛情に対する嫉妬心が息子の中で育まれ、それが心の歪みへと、残忍さへと繁茂していったのだということも口には出されなかった。
++++
故郷や親を捨てるということは、大なり小なり、誰しも通る経験だと思う。
先日、2011年に高橋源一郎が書いた、「祝島」の老人たちによる、中国電力・上関原発への反対運動の話を読んだ。
人口470人。
老人ばかりになってしまった祝島で、そのデモは30年続いていると言う。
毎週月曜日、午後6時半からの反原発に参加するのは70~80人。
ざっと25分、狭く入り組んだ、家と家の間の、街灯もない真っ暗な細い道を、老人ばかりのデモ隊が行く。
老人たちは世間話をしながら行進を続け、時折、思い出したように
「故郷の海を汚させないぞ!」
とシュプレヒコールを上げる。
家の掃除をしていたおばあちゃんが、エプロン姿にハチマキで軒先から出てきて、デモに加わる。
「ご飯炊かなきゃ」
と言って、家に戻るおばあちゃんもいる。
そんな祝島のデモ行進に現地で触れながら、高橋さんが綴るのは、原発の話ではなく、故郷を捨てた自分の話だ。
++++
ぼくは、ひどく不思議な気がした。
ぼくの母親の故郷は同じ瀬戸内海の尾道、その近隣の農家が、ぼくのルーツになる。
90歳を超えて、なお農作業していた曾祖母(そうそぼ)は
「ばあちゃん、なんで働くン?」
と訊ねられ、
「曾孫(ひまご)に食べさせたいから」
と答えた。
ぼくはその曾孫のひとりだったのだ。
父親の故郷は宮城県仙台、彼の両親は、田舎を捨て都会に出た。
ぼくの両親もまた、農業や農家や田舎を嫌った人たちだった。
その封建的な息苦しさに我慢できなかったからだ。
彼らは「自由」を求めて都会へ出た若者たちだった。
だから、ぼくは、そんな彼らの末裔になる。
祝島に来て、そこで静かに働き続ける老人たちを見て、ぼくは、ぼくが見ないようにしてきた、そこに戻ろうとは思わなかった、忘れようとしていた、曾祖母たちを思い出していた。
着ている服、ひび割れた手のひら、陽にやけた顔つき、人懐こさ。
どれも、ぼくが知っているものだった。
「帰っておいでよ」
曾祖母たちは、よくそんなことをいっていた。
でも、ぼくは戻らなかった。
いろんなものをよく贈ってくれた。
みんな、ダサかった。
だから、両親に
「こんなものいらないよ」
といって怒られた。
その人たちが死んだ時も戻らなかった。
ぼくは、田舎を捨てたのである。
++++
アイルランド人作家、ウィリアム・トレヴァーの『ティモシーの誕生日』では、同じく故郷の田舎を捨て、街に逃げた若者が登場する。
毎年、誕生日の一日だけ生家に帰っていた若者は、ある年、経済的な自立を手にした途端に老いた両親との縁を切る。
両親は、最初、事態がよく飲み込めないが、やがてそれを息子の復讐と解釈する。
二人寄り添って、悲しみを乗り越えようとする両親の姿が静かに描かれる。
だが、両親を裏切る若者・ティモシーの行いはどれくらいの「悪」なのだろうか?
先ほどの祝島の文章で、高橋さんはこう続ける。
++++
だが、「田舎」を捨てたのは、ぼくだけではないだろう。
都市が田舎を、中央が地方を捨ててきたのだ。
晩年、母親は
「最後は田舎に戻りたい」
といっていた。
「お金は心配しないで」
とぼくはいった。
母親は淋しそうだった。
そんなことは問題ではなかった。
戻るべき田舎は消え去っていたから。
祝島は、幸福感に満ちあふれた場所だ。
けれども、ぼくは、同時に、耐えられないほどの、深い後悔の気持ちに襲われ続けた。
ぼくは、ただ恥ずかしかったのだ。
ぼくが捨てた人たちのことを思い出さざるをえなかったから。
++++
高橋さんも、小説の主人公ティモシーも、田舎を捨てている時には、その善悪にさえ気を留めなかったのではないだろうか。
田舎でも両親でも、人は自分が戻れる最後の場所を自ら捨て続けて生きていく。
なぜ、帰ることができる唯一の場所をわざわざ捨てるのか。
その問いは、晩年になって、そこに帰りたくなった時にしか省りみられる事はないのだと思う。
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