
『スティル・ライフ』
池澤夏樹(日:1945-)
1988年・中央公論社
1991年・中公文庫
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少女たちは大声をあげて木のまわりを走り、川に足を浸し、持参したお菓子の類をたくさん食べた。
四人は厳密にぼくと等距離を保った。
ぼくに電話をしてきた子でさえ、他のみんなと同じ語数しかぼくに話しかけなかった。
ぼくは彼女らを無視し、川岸に寝ころがって桜を見ながら、佐々井の仕事のことを考えた。
「近くに川魚料理の店があるの」と、しばらくした時、女の子の一人が言った。
今日の話はその子から出たらしい。
その店までは車で十五分ほどだった。
開いていた。
ぼくたちはそれぞれに鱒の塩焼の定食や煮込みうどんや笹だんごを食べた。
春の日曜日の昼下がりというのに、他に客は一人もいなかった。
午後遅く、ぼくたちは出発した。
東京に着いて、地下鉄の駅の前で彼女たちはみんな一緒に降りた。
車の中が空っぽになり、ぼくは窓を一杯にあけて空気を入れ換えた。
車がふーっと溜息をついているのがわかるようだった。
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【ネタバレ注意】
10年か15年前に本書を読んだとき、なんとなく
「ポツンと置いていかれた」
というような感想を抱き、そんな曖昧な後味がずっと残っていた。
おそらく主人公の友人である佐々井との顛末についてそう感じたのだろうが、時を経ておっさんになって読むと、まったく感想は異なる。
ストーリーは最初からこの結末の一点を目指してひた走っていくのだし、何より、佐々井を去る・去らないで論じるのは間違っている。
前歴の件に関わらず、佐々井はもともと毎日会うような、まして一緒に住み続けるような対象ではないんだから。
佐々井がある期間、ある場所に留まったとき、自分がたまたま隣に居たというべきだろう。
そうだね、まあ、渓流の、現れては流れにスッと姿を消す「鮎」を思い出してみて欲しい。(←とか超適当なこと言っちゃって。鮎は縄張りもってるんだから、実際は定住系じゃん)
抜粋した、主人公が知り合いの女の子たちとの桜を見に行くシーンは、佐々井と主人公の二人ぼっちの静かで実務的な生活が、いかに浮世離れしているかを逆説的に際立たせるエピソードだ。
主人公の若者は、とくに親しくもない女の子からの電話を受け
「車で桜を見に行こう」
と誘われるが、行ってみると単に旅行の『足』として使われただけだった事が判る。
主人公は憤慨するが、それ自体はどうでも良くって、要するに、この女の子たちの、そして彼女たちが体言する現実の暮らしの騒々しさと鬱陶しさ、いやもっとはっきり言っちゃうと、この醜悪さときたら、アンタ、どうなんだ。
車さえ溜め息ついちゃってます。
ともあれ、主人公は、今後どう生きていくにせよ、佐々井と出会う前の自分には戻れない。
また、主人公ほどではないにしろ、読んでる我々も実は戻れない。
それがこの話のもっている力だと思う。
収録されているもう一篇、『ヤー・チャイカ』。
ヤー・チャイカはロシア語で「こちらはカモメ」。
1963年にボストーク6号で宇宙へ行った女性宇宙飛行士テレシコワが、宇宙から発した言葉。(カモメはテレシコワのコールサイン)
俺はこの話がとっても怖い。
でも、世間ではだーれもこれが怖い話だなんて言ってないから、どうせまた俺が一人でトンチンカンな解釈をしてるんでしょうね。
どうせそうでしょうよ。
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