「○○じゃないあなたには私の気持ちはわからない」
そう言わせた経験が3度あります。
傷つけたんだな、と理解し私自身も傷つき、心に残ったなぞだらけの意味過多言葉。
何度も思い浮かんではつかみきれず、温め続けてきました。
発言の発端は、私が正論をかざしていたのです、無自覚に。
三者ともそれに耐えかねて拒絶と攻撃がまじったのです、おそらく。
つかめなかったのは何か。
そのコトバを発するイト、、
なぞなぞくらい不思議さに満ちています。
私はどんなときに、その言葉を言うだろう?
言い換えるなら、なんだろう?
考えても、ねかせても、謎のまま。
その解釈だ!というものが、最近読んだ海外の小説『目で見る言葉で話をさせて』の中のやり取りにありました。
「はずかしい思いをしたわ。私の気持ちなんて気にしないのね」
これこれ。
こう理解できると相手のイトとつながれるような。
思いを、さみしいや悲しいに変えてもいい。
ただ、この言い方はアメリカ文化ゆえにできるのかもしれません。
日本育ちの私たちは、自分の事実と相手への訴えを分けて伝えることをしていないのかな。
私は、言い方はこの土地のもので、解釈するとなるとその奥ゆかしさがよみとれず
立ち止まることがしばしばしば。
なぞとけて、
なぞあらわる。