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昼下がりの小事

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鉢形城三の曲輪を歩く

2023-11-23 14:52:16 | 旅行

 昨日、鉢形城(埼玉県寄居町)の三の曲輪を散策しました。

    

    

    

 二の曲輪から続く馬出の木橋を渡って進と、左手に井戸が見えます。三の曲輪は城内で一番高い曲輪ですが、水は豊富にあったとのことです。

    

 前方は大きく開け、庭園が現れます。池と復元した建物があります。建物の奥にはもう一つ井戸があります。このエリアからは茶道具等が見つかり、宴会や歌会が行われた「ハレ(公・おおやけ)」の場であったことが分かります。ここは「秩父曲輪」とも呼ばれ伝えられています。

    

    

 三の曲輪からの眺望の中に、遠方で小さいのですが、正龍寺と北条氏邦夫妻とお舅さんの藤田康邦夫妻の墓の建屋が見えます。写真は正龍寺、墓を囲った建物、藤田康邦夫妻の墓、北条氏邦夫妻の墓です。

    

    

    

    

 北西方向には八高線の鉄橋が見えます。八高線は陸軍が八王子・高崎間の物資の輸送を目的に大正11年に建設を計画しました。鉢形地区は鉢形城を突っ切るルートでした。地元の人々は反対でしたが、相手が陸軍では適いません。ただ、頭の良い人がいて、具体的には良く分かりませんが、天皇の御墨付きを頂いたそうです。陸軍も天皇には適いません。そうして、大きく迂回して、昭和9年に全線が開通しました。

    

    

 三の曲輪の南側に全長100m、高さ4mの石積土塁が復元されています。ただ、これはレプリカで、本物は盛土保存されています。三箇所階段があり、有事の際に城兵が守備につくためのもののようです。これ程の規模の石積土塁は他に例がないとのことです。石積土塁の立ち上がり部には排水溝があります。

    

    

 ハレの場の東側のエリアは発掘調査で、囲炉裏に使う自在カギや鍋、釜の類が多数出土したことから、日常的な生活空間であったと推定されます。

    

 その南東端に復元された四脚門があります。天正十年頃の上級武士の館を想定し、板葺きの屋根にしています。門の左手は土塀で10mほど復元し、その他はドウダンツツジで表現しています。

    

    

 門を出ますと石積土塁の南端近くに虎口があり、その左手には高台の櫓跡があります。門を出て直ぐ右手にドウダンツツジで表現した蔀(しとみ)と呼ばれる目隠しがあります。蔀と石積土塁の間の狭い空間は「武者溜り」と呼ばれる一時待機場所です。反対側の広い空間は「武者揃い」と呼ばれる集合場所です。写真は上から蔀、虎口、櫓跡、武者溜り、武者揃い、四脚門の遠景です。

    

    

    

    

    

    

 小田原北条氏二代目の氏綱は鎌倉北条氏の姓と家紋を貰っていますが、鎌倉北条氏の鱗紋(三つ鱗)に関して『太平記』に次のような記載があります。「北条時政は家運隆盛を祈念して、江ノ島弁財天に参籠した。そして、満願の夜の明け方に、緋の袴をはいた気高い女房が現われて、『汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。よくよく身を慎まねばならぬぞ』と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。そのあとに残った三枚の鱗を時政は持ち帰って家の紋にした。その後、時政は源頼朝の創業を補佐し、子孫は鎌倉幕府の実力者となった。」この伝説によれば北条氏の鱗紋は大蛇の鱗を象ったものということになります。

    

 「武者揃い」から北上して戻ります。以上で三の曲輪の散策は御開です。

 尚、まだ幾つかの曲輪がありますが、再度調べ直してから投稿したいと思います。これにて一先ず鉢形城の史跡巡りはお休みに致します。このシリーズをお読み下さり、有難う御座いました。



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