昼下がりの小事

余生をボケない程度にのんびりと

中山道・本庄宿を歩く

2015-01-10 13:41:39 | 旅行

先日(1月6日)、前回深谷宿の続きで、本庄宿を歩きました。

最初に訪れたのは本庄城です。JR高崎線の本庄駅を降り、駅前通りを北に進み、中山道を横切って約300m右手に本庄市役所があります。その裏手が城址です。本庄城は、弘治2年(1556)、児玉党の後裔本庄実忠により築城されたと伝えられる。本庄氏は山内上杉氏に属していたが、永禄10年(1567)に北条氏に攻められて落城し、その後北条氏に従いますが、実忠の子隼人正の代、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により、戦うこともなく開城します。徳川家康の関東入封に伴い、小笠原信嶺が1万石で新城主となりますが、その子信之の代、慶長17年(1612)古河城に移封され、廃城となりました。城址は個人宅の空地に土塁が一部残っていますが、大半は市役所、城山稲荷神社、城址公園となっています。

        

        

              

写真は上が城山稲荷神社の鳥居と石碑、真ん中が神社裏の河岸、下が本庄城築城のとき献木されたと伝えられるケヤキです。

次は、市役所の南西約300mにある開善寺です。開善寺は天正19年(1591)城主小笠原信嶺が開基し、球山宗温和尚の開山で本尊は聖観世音菩薩です。和尚は城主信嶺の夫人久旺院尼(くおういんに)の兄にあたり、武田信玄の弟武田逍遥軒(しょうようけん)の子です。

        

        

写真は上が山門、下が小笠原信嶺夫妻の墓です。(左が信嶺、右が夫人)

更に200m西に歴史民俗資料館があります。

        

写真は資料館のすぐ南にある田村本陣の門です。田村本陣はもともと本町の埼玉りそな銀行付近にありましたが、遺構はここに移されたこの門のみです。

        

この写真は今、歴史民俗資料館ですが、建物は旧本庄警察署です。明治16年に建てられたモダンな洋風建造物で、明治初期の建築物では県内に残る遺構の白眉だそうです。

次は安養院、ここから北西100mのところです。安養院は曹洞宗の寺、本尊は無量寿如来で、創立は文明7年(1475)武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が帰依して、この地に開基したと伝えられている。慶安2年(1649)徳川幕府から25石の朱印地を受けている。

        

写真は山門と本堂です。

ここから中山道に入ると、すぐ東に赤煉瓦作りの建物があります。

        

これは明治27年12月、資本金30万円で創立された本庄商業銀行の建物です。のち大正9年12月に武州銀行(現在の埼玉りそな銀行)と合併、同行の本庄支店となったとのことです。その後は分かりませんが、最近まで洋菓子屋さんでしたが、今は使われていません。

中山道を西に約500m進むと右手にあるのが金鑚神社です。創立は欽明天皇の2年(541)といわれ、武蔵七党の一党児玉党の氏神として、本庄城主歴代の厚い崇信があったとのことです。

        

              

上の写真は権現造りの本殿と拝殿、下は御神木となっている楠木の巨木、天然記念物で幹回り5.1m、高さ20m、樹齢約300年以上と推定されています。

本日最後の史跡は金鑚神社から北北西約500mの長松寺です。創建は江戸時代初期らしいのですが、本堂の西側及び北側に土塁、空堀が残っています。これは館跡の遺構で、武蔵武士の一つ丹党の一族小島氏の居館址と伝えられています。

        

        

写真は上が本堂、下が本堂西側の土塁です。

以上で今日の史跡めぐりはお終いです。天気は予報どおり曇りで、いまいちでした。雨になると煩わしいので、急ぎの旅になりました。