先日、古文書、郷土史と趣味が共通のH氏と埼玉県深谷市及び隣接する熊谷市にある深谷上杉氏ゆかりの史跡を訪ねました。
いつもお世話になることが多いので、今回は私がアッシーです。H氏を乗せて先ず向かう先は庁鼻和城跡の国済寺(深谷市国済寺)です。
9時50分頃到着。ここには埼玉県指定旧跡の深谷上杉氏初代・憲英(のりふさ)のお墓、深谷市指定文化財の黒門と三門、その外二代憲光、六代憲清の墓、この地が城の中心であった庁鼻和(こばなわ)城の土塁、築山が遺されています。室町時代の初め、関東管領の上杉憲顕が北関東の治安維持のために、六男・憲英(のりふさ)にこの地を治めさせ、庁鼻和城を築かせました。
写真は上から、黒門、三門、憲英の墓、二代憲光(左)と六代憲清(右)の墓、築山、土塁です。
次は瑠璃光寺(深谷市稲荷町北)です。10時30分頃到着。開創は平安時代、深谷城の鬼門除けとして庇護されたほか、寅薬師と信仰された薬師堂があります。薬師堂の中には昭和初期深谷に在住した日本画家「菅井雲焦」の描いた虎の絵が掲げられています。
写真は上から、山門、薬師堂、虎の絵です。
瑠璃光寺を後に、深谷城(深谷市本住町)に向かいます。11時10分頃到着。
康正二年(1456)深谷上杉氏五代・房憲(ふさのり)が、古河公方に対抗するため、庁鼻和城から新たに深谷城を築城しました。その後、天正十八年(1590)小田原合戦で開城し、徳川氏の支配を経て、寛永十一年(1634)廃城となりました。現在、深谷城の跡は深谷小学校、文化会館、城址公園となっています。城の遺構は唯一お堀(市指定文化財)だけですが、発掘調査に基づくお城の推定図をもとに、当時の高さのままであったと思われる所(管領稲荷、小学校正門前の墓地等)も見ることが出来ます。尚、深谷城跡も埼玉県指定旧跡です。
写真は上から、お堀、石碑、管領稲荷です。
深谷市役所の北側に隣接する高台院(深谷市田谷)です。高台院は鎌倉時代初期開創されましたが、永禄三年(1560)、深谷上杉氏七代・憲賢(のりかた)が没すると、その室高泰姫は夫の菩提を弔うため中興開基し、高泰院の泰を台に改めて、高台院と改称しました。境内には憲賢夫妻のお墓(市指定文化財)、隣に深谷城の鎮守として祀った永明稲荷神社と城の土塁が遺されています。
写真は上から、山門、七代憲賢(右)と夫人(中央)の墓、永明稲荷、土塁です。
次は深谷市役所西側の通りを隔てた西運寺(深谷市深谷町)です。北条方であった深谷上杉氏、天正十八年(1590)、小田原合戦で開城の際、前田利家、浅野長政の許へ軍使として赴き町を戦禍から救った杉田因幡のお墓があります。
写真は上から、本堂、杉田因幡の墓です。
昼食をとったその後は、昌福寺(深谷市人見)です。13時頃到着。深谷城築城とともに、五代・房憲(ふさのり)によって開創され、房憲と八代・憲盛のお墓があり、ともに深谷市指定文化財です。また、本堂裏には室町時代作の禅宗庭園が、今尚、当時を偲ばせています。
写真は上から、山門、五代房憲(右から二番目)と八代憲盛(左から二番目)の墓、本堂裏の庭園、憲盛の家臣・井草左衛門尉の墓です。
次は熊谷市千代(せんだい)の上杉家の墓地です。13時50分頃到着。ここには九代・氏憲(うじのり)のお墓があります。氏憲は深谷城開城後、越後の上杉景勝を頼り、景勝から信州更科郡笹井荘を与えられましたが、後に三男の憲成の住む武州男衾郡千代村に移り、ここで波乱に満ちた生涯を閉じました。
五輪塔の右側、緑泥片岩の板碑のようなものが九代氏憲のお墓です。
次は、熊谷市成沢の静簡院(じょうかんいん)です。14時20分頃到着。曹洞宗の寺で、本尊は釈迦如来、敬神の念深い八代・憲盛によって開基され、本堂後方には憲盛の墓碑があります。当時この辺一帯は深谷上杉氏の支配下にありました。
写真は上から、本堂、八代憲盛の宝篋印塔です。
これで本日の史跡巡りは御開です。スタート時は雨が心配されましたが、晴れ間もあり、上々の日和でした。
庁鼻和城跡の国済寺周辺は3月に巡る予定でした。