東の馬留王子跡
河瀬王子跡から南へ行くと鹿瀬山麓に王子跡がある。左側の山沿いにコンクリート壁があり、その一部に碑がある。
藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載がなく、それよりも新しい王子社と思われる。また、江戸時代に書かれた熊野道中記には、津の瀬王子の次に沓掛王子次に鹿ヶ瀬山と記されているが、紀伊続風土記は、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、以降、馬留王子社と言われているそうだ。
鹿ヶ瀬峠越え金魚茶屋駐車場へ出る。
金魚茶屋
湯浅と日高町を結ぶ熊野古道でも指折りの峻険な鹿ヶ瀬峠越えると金魚茶屋があった。その昔、熊野参詣者に金魚を見せて、旅人を茶屋に誘った。茶屋のそばの清流で金魚を飼っていたという言い伝えがあり、江戸時代の宿場の面影を残している。
沓掛王子跡
鹿ヶ瀬峠越えで、沓も相当に傷んでしまう。そこで、一休みして沓を掛け直したのでこの名がついたそうだ。この峠越えには、牛馬にも沓を履かせていたと言われ、人も牛馬も厳しい難関を越え、一息ついた事でしょう。
爪かき地蔵
弘法大師がこの地に巡錫した時、土地の人の無事息災を祈願して岩に爪で地蔵尊を刻んだと伝えられている。現在地蔵尊のお姿は見られないが、水をかけると浮かび出てくるから水掛け地蔵とも言い、信仰心のない人はいくら水を掛けても地蔵尊のお姿を拝むことが出来ないといわれる。また、東隣宅地内には弘法井戸があるそうだ。
西の馬留王子跡
西の馬留王子は、沓掛王子社から20分ほど歩いた西山浄土宗光明寺を下った県道沿いに石碑があった。その王子社跡はの石碑の上の蜜柑畑の中にあって、沓掛王子社と次の内ノ畑王子社の間にあるので間(ハザマ)王子とも呼ばれているそうだ。
内ノ畑王子跡
原谷の馬留王子跡から西川に沿って南へ進み、なめら橋を渡り畔道を南へ行くと道端に内ノ畑王子跡が見える。内ノ畑王子は槌王子とも呼ばれ、後鳥羽上皇の熊野御幸記に「此所に於いて上下、木の枝を伐り、分に随って槌を造り、榊の枝に付けて、内ノ畑王子槌金剛童子と云々に持参して、各これを結び付くと云々」とあり、槌を木の枝に結びつけると徳があると伝えられていたようだ。
次回は高家王子跡から
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