四国お遍路・小さな旅

 霊場巡礼と自然・花巡り、小さな旅の気まぐれブログ。

第12回 多冨気王子~熊野那智大社

2020年12月10日 | 熊野古道(中辺路)散歩

 

 

 市野々王子を経て古道はいよいよ熊野那智大社への参道である大門坂へ。

 

 

大門坂と夫婦杉

 

 

 熊野古道の中でも、当時の面影を特に美しく残している「大門坂」

 

 

 この熊野古道には三箇所の関所があったと言う。この振ヶ瀬橋の鳥居前に三番目の新宮藩関所があったそうだ。

 この橋を渡った先からが那智山の聖域と云われる。聖域と俗界を振り分ける橋だから「振ヶ瀬橋」との事。

 

 樹齢八百年といわれる夫婦杉が長い道程の苦労をねぎらってくれる。

 

 

 見事な杉が立ち並ぶ大門坂の途中には、熊野九十九王子最後の王子社である多富気王子跡があり、多富気王子を過ぎれば程なく最終目的地である熊野那智大社に到着する。

 

 

 

多冨気王子跡

 

 最終の王子社である。

 

 

 「手向け」(神仏や死者の霊にささげ物をする事)の意味とも、また、那智山社僧の「潮崎多富気」が設けたから多冨気王子社と命名されたとの説もあるようだ。

 

 

 苔むした石段と樹齢八百年を越す老杉等に囲まれ、聖地「那智山」へと石畳が続く。

 

 

 

 

 

熊野那智大社

 

 

 

 参道入口から4百数十段の急な石段を登って行き、大きな赤い鳥居を潜ぐると熊野那智大社の社殿はもうすぐそこ!

 

 

 熊野本宮大社・熊野速玉大社と共に熊野三山と呼ばれ、古来より多くの人々の信仰を集めた熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、今なお多くの参詣者が訪れている。

 

 

 夫須美神を御主神として神様をお祀りしている。また、夫須美神は伊弉冉尊(イザナギノミコト)ともいい万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、また縁結びの神様として崇められているそうだ。

 

 

 

 熊野三山の一つ熊野那智大社参拝で熊野古道九十九王子巡りのこの旅も目的達成。 これまでの疲れも、熊野三山詣でを果たした心地よい達成感によって拭い去られた感だ。

 

 西国33ヶ所観音霊場である那智山青岸渡寺、そして那智大滝にも立ち寄ってみた。

 

 

 

那智山青岸渡寺

 

 如意輪観世音を祀る青岸渡寺は、千日の滝篭りをされた花山法皇が永延2年(988)に御幸行、西国33ヶ所観音霊場巡り1番札所として定めたとされ、多くの信者や参詣者が訪れている。

 明治の神仏分離までは熊野那智大社と一体で、現在の本堂は当時の如意輪堂だったそうだ。

 

 

 現在の本堂は天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残し、国の重要文化財に指定されているそうだ。

 

 

 本尊真言 おん ばだら はんどめい うん  

 御詠歌  補陀落や 岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬

 

 

那智大滝

 

 那智山の奥山、大雲取山から流れ出る本流にいくつもの流れが重なり合い、ついには原生林を切り裂くように落下しているのがこの那智の滝だ。

 

 

 水柱は落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの名瀑だそうで、落差は日本一。

 

 

 

 

ひとこと

 

 昨年初から始めた「熊野古道(中辺路)散歩」も12回のブログuPで満願成就。そして、熊野古道九十九王子巡りも、紀伊路から中辺路と巡りながら、熊野三山詣でを果たすことが出来た。

 ひとえに、皆さんのご視聴が後押しとなり、無事達成する事が出来ました事、誠に、ご視聴ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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第11回 佐野王子~市野々王子

2020年12月01日 | 熊野古道(中辺路)散歩

 

 

 

佐野王子跡

 

 佐野松原の西端、祓川(王子川)の近くにある熊野九十九王子社の一つで若一王子社とも呼ばれ、神域一帯は「若一王子の森」と呼ばれていたそうだ。

 

 

 少なくとも、熊野詣が盛んであった鎌倉前期にはその存在が知られ、後には熊野那智大社の末社となったようで、明治の神仏分離で佐野宇山田にある神社に合祀され廃絶となったそうだ。

 

 

 熊野詣の折は、佐野の浜で拾った小石を衣の袖に入れ、熊野那智大社に奉納する習慣があったとも伝えられている。

 

 

 佐野王子社跡の石碑の近くには尼将軍供養塔やお地蔵さん、神武天皇聖績狭野顕彰碑などが立っている。

 

 

 

浜の宮王子社跡(熊野三所大神社)

 

 

 浜の宮王子社は、三所権現、あるいは渚宮とも呼ばれ、熊野詣が盛んだった頃には、熊野九十九王子社の一つで、中辺路・大辺路そして伊勢路の分岐点となっていた。

 現在は熊野三所大神社と称されている。

 

 

 熊野那智大社参拝前にはこの浜の宮王子社前の那智の浜で潮垢離を行って、身を清めたといわれている。

 

 

 そして熊野三所大神社の隣には、補陀落山寺があった。本来は、この浜の宮王子社と一体のものだったそうだ

 

 

 

補陀洛山寺

 

 補陀洛山寺は補陀洛渡海の出発点として知られる寺。

 

 

 南の海の果てに補陀落浄土があるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といい、赤い鳥居を取り付けた小さな渡海船に、外から扉を釘で打ち付けられ、閉じこめられたまま海に流されて、生きながらにして南海の彼方にあると信じた補陀落浄土を目指し修行したと云われる。

 

 

市野々王子跡 

 

 

 市野々には八咫烏の子孫が住むという。また、市野々とは那智詣での人出を当込んだ市が立ったことによりそう呼ばれたそうだ。

 

 

 市野々王子社はもとからここにあったという説と、王子神社から100m程先の道路右手の市野々区コミュニティーセンター隣所に旧社地があり、江戸時代に此処に移されたのだという説があるそうだ。

 

鬱蒼とした社殿は趣がある。

 

 旧社地と呼ばれる所には天照大神御影向石があるそうで、どうやらそちらの地が御幸時代の市野々王子社であったようだ。

 

 

 

次回はいよいよ最終回、大門坂・多冨気王子から

 

 

 

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第10回 熊野速玉大社~浜王子

2020年11月18日 | 熊野古道(中辺路)散歩

 

 

熊野速玉大社

 

 古の参詣者たちの多くは熊野本宮大社から熊野川を舟で下り、熊野速玉大社に参拝したという。

 

神門

 

 熊野速玉大社は熊野本宮大社、熊野那智大社と供に熊野三山を構成する大社。

 神倉神社のゴトビキ岩に降臨した熊野権現を勧進するため、景行天皇の時代(西暦128年)に、まだ社殿の無い原始信仰、自然信仰時代の神倉山から、現在の社地に真新しい社殿を建て「新宮社」と号したそうだ。

 

 

 平安時代から伝わる熊野速玉大神像と熊野夫須美大神像をはじめ、七体の御神像が保存されているという。

 

 主祭神は熊野速玉大神と熊野夫須美大神の夫婦神。

 

 樹齢千年の梛の大樹は熊野権現の象徴として信奉篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めて参ることが習わしとされている。熊野牛王の御神符と梛の葉をいただくことが、難行熊野詣を無事果たす大きな支えとなったそうだ。

御神木の梛 左右対称の葉の形から夫婦円満のご利益があるとかも。

 

 千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る

藤原定家 

 

 

神倉神社(ゴトビキ岩)

 

 権現山の中腹に鎮座し、熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社。

 

 

 熊野古道の一部である五百数十段の急峻な石段を登った所、天ノ磐盾という険しい崖の上に御神体のゴトビキ岩はあった。

 

 

 毎年2月に行われる奇祭「御燈祭り」の舞台となっているそうだ。

 

 ゴトビキ岩と急峻な石段を登りきる傍に咲くツルリンドウ。

 

 

 眺める市街地と熊野灘の遥々とした眺めは、新宮市随一のビュー!

 

 

 

 

阿須賀王子跡(阿須賀神社)

 

 熊野川河口付近の南岸、蓬莱山の麓に鎮座する古社。

 

 

 歴史は古く、社伝によれば紀元前423年の孝昭天皇の代に創建されたそうで、秦の始皇帝の命を受け渡来した徐福にもゆかりが深く、徐福一行が上陸したのが阿須賀神社の建立地と伝えられているそうだ。

 

 秦の始皇帝の命により不老不死の霊薬を求めて渡来した徐福。近くの街中には中国風の楼門を設置した徐福公園がある。

 

 

 

浜王子跡

 

 

 当社は古来から海の神を祀る海浜の宮であったと思われるが、熊野信仰の発展とともに、熊野神の御子を祀る王子社として知られるようになったそうだ。

 

 

高野坂(登り口)から望む王子が浜

 

 紀伊本線がすぐ目の前を走り、線路の向こうに白砂の王子ヶ浜が広がる。

 

 古道の名所として知られた高野坂、高野坂からの熊野灘の絶景を眺め三輪崎へ、海沿いに佐野・宇久井を経て、補陀洛浄土への玄関口とされた那智の浜へと向かう。

 

 

 

次回は佐野王子から

 

 

 

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第 9回 伏拝王子~熊野本宮大社

2020年11月10日 | 熊野古道(中辺路)散歩

 

 

伏拝王子跡

 

 京の都より長く厳しい道を歩いてきた熊野参詣者が、熊野三山巡拝の最初の目的地である熊野本宮が、遥か彼方の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りにして、感動のあまり「伏して拝んだ」といわれる。

 また、この王子社には熊野本宮を目前にして、にわかに月の障りとなり、参拝を断念しようとした女流歌人・和泉式部を、熊野権現が快く受け溶れたという伝説もあるそうだ。

 

 

 伏拝王子の石祠

 

 

和泉式部の供養塔 

 

和泉式部の歌

 晴れやらぬ 身の浮き雲の たなびきて 月の障りと なるぞかなしき

 

 王子社跡から熊野本宮を望む。写真の右中の白い点に見える所が本宮の旧社地「大斎原」らしい。

 

 伏拝王子跡から三軒茶屋跡に向け、地道の古道に入る。

 爽やかな緑に囲まれた、緩やかな下り道が続いて行く。

 遠くに見えるは熊野古道小辺路ルートの果無山脈。

 

 

 

三軒茶屋・九鬼が口関所跡

 

 三軒茶屋跡は、熊野古道小辺路との合流点、関所があったと伝えられている。

 

 

 

祓殿王子跡

 

 現在の熊野本宮にほど近い所に、ご神木に守られるように立つのが祓殿王子社だ。

 本宮大社の旧社地「大斎原」までも数里しかなく、他の王子社とは異なり参拝の直前に身を清める潔斎所としての性格を持っていた王子社と見られているようだ。

 

 

後鳥羽院の歌

 はるばると さかしき峯を分け過て 音無川を けふ見つるかな

 

 

 川を渡ることが禊。潔斎や垢離。

いよいよ聖地大斎原へと入る。

 

 

 

 

大斎原

 

 大斎原は、熊野本宮大社の旧社地。

 熊野本宮大社は、かつては熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する大斎原と呼ばれる中洲にあった。およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうだ。

 

 

 ところが、明治22年(1889年) 8月の洪水により、大斎原にあった熊野本宮大社の社殿の多くが流された。

 

 大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられている。

 

 

 

熊野本宮大社

 

 全国の「熊野神社」の総本宮にあたる熊野三山。

 三山の中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気を漂わせるのが、聖地熊野本宮大社だ。

 古の都・京都から、長い道のりを歩く熊野詣。厳しい中辺路を経て、最初にたどり着く聖地。

 現在の熊野本宮大社は、大斎原にあった社殿の流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したのだそうだ

 

 

 

 

熊野本宮大社 社殿

 門をくぐって、向かって左手の社殿が牟須美(むすみ)・速玉(はやたま)の両神。中央は主神の家津美御子神(けつみみこのかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られている。

 

 

 

湯の峰温泉郷 つぼ湯

 

今宵は温泉で疲れを癒そう・・・

 

 

 

次回は熊野速玉大社から

 

 

 

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第 8回 猪鼻王子~水呑王子

2020年10月30日 | 熊野古道(中辺路)散歩

 

 熊野古道、京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路、そして田辺からは険しい山道を分け入り熊野本宮に向かう中辺路。

 古代から中世にかけ、本宮・速玉・那智の熊野三大社の信仰が高まり、上皇、女院や庶民にいたるまで、旅人の切れ目がなく行列ができた様子から「蟻の熊野詣」と例えられるほど多くの人々が熊野に参詣したと伝えられている。

 

 新型コロナウイルス(COVID-19)感染予防の為、今春より行動を慎んでいましたが、感染予防に配意しながらGoToトラベル、熊野古道(中辺路)散歩を再開する事とした。

 

 三越峠から発心門王子に向かう途中、赤木越分岐付近から発心門王子間は豪雨災害で通行止めとなっていた。

発心門王子から林道を下り、災害復旧工事現場から川沿いにそのまま林道を徒歩で進むと猪鼻王子、船玉神社に向かう事が出来た。)

 

 

船玉神社

 

 船玉神社は本宮大社の奥の院にあたるとも伝えられ、音無川河口にあった本宮へ、月に1回、「みよろのほし」という何か魂のようなものが、音無川を上下して通ったといわれている。
 そのため、音無川の流域は常に清浄にしておかなければならず、船玉神社に最も近い発心門という集落では、音無川や船玉神社の方角に向かって小便することは戒められていたそうだ。

 

 

 

猪鼻王子跡

 

 船玉神社前を過ぎ、林道からはずれ谷に向かって下る細い道にはいると猪鼻王子社跡に出会う。

 

 定家に日記に、「深山にして樹木多く、苔ありて、それが枝にかかること藤枝の如し」と表現されているように深山の中の雰囲気が残る道端に王子跡はあった。

 猪鼻王子から発心門王子に向けての古道は、本来ならば、林道右手の登り坂を入り、発心門王子社の鳥居を潜る事になるが通行止となっていた。

 

 

 

 

発心門王子跡

 

 当王子は五体王子社の一つで、藤代、切目、稲葉根、滝尻、発心門王子社と格別に崇敬の厚い社であった。

 仏の道に帰依する心を発する入り口(門)という意味で、南「修行門」、西「菩薩門」、北「涅槃門」、東「発心門」のこの四門は惣門といわれる。

 「発心門」は、此処からが、熊野本宮大社の神域とされて入口を指している。そう言えば振り向くと大鳥居が立っていた。

 

 

 

 

水呑王子跡

 

 以前は三里小学校三越分校の敷地であった傍らに「水呑王子」と刻まれた緑泥片岩の碑が立っていた。
 長い歴史のある王子社で、中世の参詣記には「内水飲」と記されてあり、江戸時代の初め頃から現在の「水呑王子」と表記されるようになったようだ。

 

 此処から美しく緩やかな古道らしい地道をあるいて行くと伏拝の集落に出るそうだ。

 

 

 

次回は伏拝王子から

 

 

 

 

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