つらつら日暮らし

流布本『普勧坐禅儀』参究3(令和5年度臘八摂心3)

臘八摂心3日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。

 所以に
須らく尋言遂語の解行を休すべし。
須らく回光返照の退歩を学すべし。
身心自然に脱落し、
本来の面目現前せん。
恁麼の事を得んと欲わば、
急ぎ恁麼の事を務べし。


これまで2回の記事に於いて「不染汚(無分別)の修証」について採り上げてきた。それが、『普勧坐禅儀』を読み解いていくための、基本線である。その上で、では、そのような「不染汚」とはどのようにして会得されるべきなのか?それを示したのが、この冒頭の2行であるといえる。前者については、仏道を習うときに、言語を逐って知解でもって把握するようなことを止めるべきだということであり、正しく不染汚を会得するならば、「回光返照の退歩」を学ぶべきだという。まず、前者について見ていくが、このような指摘がある。

凡そ学道の病は、言語を逐って計度を生ずるに在るなり。是れ則ち、諸妄の本、蔓條の引牽なり。数しば知解に襲われ、是非争乱し、根塵交渉して、猶お鏡に垢の生ずるがごとし。痕・垢若し尽くれば、寂照孤明にして、心法ともに亡じ、性独り真なる矣。
    指月慧印禅師『普勧坐禅儀不能語』


学道の病は、言語を逐うこととともに、それによって、自分の修行や悟りに対して、「計度」が生じることが問題であるという。これは、想い計らいであるが、この部分が、我々自身の修行に迷いを生じさせ、余計な価値観などを生む。それがまさに「是非争乱」である。だが、我々はどこまでも「道本円通」である。この「道」そのものであることを、「独り真」とはいうのである。なお、この状態に至るのに、「回光返照の退歩」が必要である。いわゆる、「退歩の学道」である。これを、感覚的に表現すると、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(「現成公案」巻)となるのだが、自らを前に運んで、諸事象を証すようなあり方は、許容されない。そうではなくて、万法が進んでこの私を証すような状況を意味している。ここには、何ら積極的な前進はない。よって、退歩の学道である。然るに、そもそも本書では「不染汚(無分別)の修証」を用い、「修証一等」を前提に話が進んでいた。そうなると、この「回光返照の退歩」についても、注意が必要になってくる。

あさひが東から西を照臨し、ゆふひにはまた東を照すこころなり。もしいはば、ほとけが仏になるといはんも、おなじことなり。
    瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』


東から西を照らすのは、朝日のありようとして当然である。であれば、その時「東」はどうなっているのか?瞎道師の指摘では、夕日には西から東を照らすという。その「東」のありようをこそ、「ほとけが仏になる」である。この東とは、いわば「太陽」のことであり、光源としての仏陀である。だが、その光源もまた、照らされていく。それが「回光返照の退歩」である。先に挙げた、感覚としての「万法すすみて」とは、本よりそうであったと自覚されることである。つまり、「退歩とはたちかへること」(瞎道師前掲同著)という言葉は、そのありようを再確認され続けることである。

つまり、自らの計らいによって身心脱落していくのではない。その計らいの喪失された所こそが、身心脱落である。よって、後半部分の説示に入っていく。我々は、身心脱落を「大悟の境涯」などと解釈してしまうと、自らそれを掴み取るようなものだと誤解する。だが、「脱落」であり、これは「も抜ける」ことであるから、何かを掴んでは、それはただの迷いである。むしろ、全てを放し切ったところで脱落である。この放し切ることが、先に挙げた「退歩の学道」である。自ら掴もうとするのではない、その欲求を内に還して、手を組み足を組む、まさに坐禅三昧こそが、退歩の学道である。よって、心識・心念もまた、放さねばならない。いや、「ねばならない」だと、放すこともまた1つの獲得されるべき境涯に陥る。ただ、放す放す放す・・・

それは、坐禅という行に、身心を任せることをいう。例えば、この箇所は天桂伝尊禅師が『永祖略録蛇足』で「円陀陀地八面玲瓏じや、古鏡巻に曰く、『今の人、瓦を取て磨すべし。決定、鏡と成る可し』と也」とされる通りである。引用されている「古鏡」巻の前提に、「八面玲瓏」だとしている。いわば、我々の全身心に、既に「道本は円通」しているのであるから、「瓦を磨せば鏡になる」とは言える。瓦は鏡だったのだから、「磨」という行に媒介されるだけで良い。同じことは、道本である我々の身心が、坐禅という行に媒介されるだけで良いのと同義である。それを、「本来の面目現前せん」という。「本来の面目」とは、これもまた、我々自身の普段のありようの外に、真実の「本来の面目」があると思ってしまうと大きく誤ってしまう。繰り返しになるが、どこまでも「道本円通」である。よって、「本来の面目」とは、何か獲得されるべき境涯ではなくて、ただ「行」によって、我々の身心が媒介されることである。この媒介を「脱落」とはいう。

つまり、何ら難しいことはない。ただ、身心を行に媒介されるだけで良く、それを脱落とはいい、そのことが、「恁麼の事を得んと欲わば、急ぎ恁麼の事を務べし」と表現されている。「恁麼の事」について、「恁麼」とは「それ、そのような」などを意味する代名詞である。いわば、或る事象を指し示そうとする、というだけであって、その「恁麼」自体が、直接に何かを意味しているわけではない。よって、道元禅師は『正法眼蔵』「恁麼」巻に於いて、この語句を「この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ」とされる。「恁麼の事」とは、無限定・無分別であるから、そのような仏陀の悟りを指し示そうとするのである。そのような、仏陀の悟りを得たいのなら、そのような仏陀の悟りを急ぎ務めよ、ということである。しかるに、これを瞎道師は霊妙なる表現をして、「ゆるみなしに、それそれのしわざを、のがさず・やらず、つとめよ」(前掲同著)としている。

いわば、坐禅を緩ませることなく務め、「それ・それ(これが恁麼・恁麼ということ)」の仕業を、逃したりせず、遣ったりせずに、とにかく務めるべきだという。我々はややもすると、この「恁麼」が分からないなどといい、坐禅を逃し、遣ってしまうことがある。だが、結局はそこにのみ道があったのだ。そして、坐禅を努めるとき、どうしても間違えやすいのが、坐禅時に目的を別設定することと、その心的内容である。ただ「放つ」事で良いのだが、人はそれが出来ない。曹洞宗の「只管打坐」が難しいのはこの辺である。しかも、「放ち方」を間違うと、ただ枯木死灰の禅となる。

その両方を離れて、正伝の仏道を歩むこと、それは明日の記事で示すであろう。

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