飯後坐禅板鳴て、知客、衆寮本尊前に就て、亀鏡文を読む、
其の式は、止静の魚声を聞て、衆寮前の版、打すること三通、時に禅堂外堂、同列に衆寮に赴く、大衆普同三拝して、具上に坐す、知客、本尊前に進て、炷香、文を香に薫じて、具上にして之を読む、大衆諦聴す、読了て普同三拝、
結制の中は、必行茶あり、副寮等之を弁ず、行茶了て大衆帰堂、各おの被位に倚て坐禅す、
清規に云く、一日に亀鏡文を読む、十一日は寮中清規を読む、廿一日に参大己を読む、毎月之の如し云云、
しからば、此三日必ず欠かさずべからず、知客、故障有れば、維那之に代わる。
『椙樹林清規』巻上「読亀鏡文」項、カナをかなにするなど見易く改める
以上の通り、「読亀鏡文」の項目を採り上げてみた。理由として、こちらは毎月1日に行うものであり、この行法と同じようにして、11日の『衆寮箴規』、21日の『対大己法』が行われるためである(11日・21日の項目には、1日の「読亀鏡文」に基づき行うように指示)。また、途中にある「清規に云く」は、『瑩山清規』「月中行事」項からの引用である。そして、「結制の中は」とある通り、安居結制中には、行茶を行うなどして、丁寧に読まれている様子が分かる。
そして、これが更に、講義として熱心に実施されたことも分かるのが、以下の一節である。
(四月)十一日
衆寮恒規として、衆寮箴規を誦す、朔日の亀鏡の文、廿一日の参大己、夏中最も不可懈、知客悉知すべし、朔日以後、十一日以前、侍者以間暇之日、告維那等、請堂上和尚、永平安居巻、衆寮箴規、参大己、亀鏡文を可令講、毎結制、和尚講之、以垂誡海衆、又五則前後に参同契・宝鏡三昧をも講演あるなり、時節は侍者心得あるべし、
又、結制の中、弁道話、重雲堂式等も講ずべし、是は坐禅の位にて、恒規垂誡の時の如なるべし、
前の安居巻の時は、方丈の木板三会し、次維那率一衆、上方丈、請待の拝三拝す、収具帰大殿、各胡坐、次和尚進仏前、炷香三拝、拠礼盤坐す、次維那鳴磬、大衆同三拝し、具上に趺坐す、講畢又大衆三拝、和尚仏前に上香三拝、大衆も同三拝、和尚帰方丈、維那如前率衆上方丈、礼謝三拝して散堂、
方丈諸法益のある時、大概此の式なり、
『椙樹林清規』巻下「年中行事」
上記の通り、大乘寺山内では『正法眼蔵』の講義が行われていたことを知る。日程としては、4月1~11日の間で、『正法眼蔵』「安居」巻を堂長老師から、講義していただいていたようである。更に、4月15日以降7月15日までの間には、『弁道話』『重雲堂式』なども講義されていたようである。元々、『弁道話』『重雲堂式』は、『正法眼蔵』には含まれていないのだが、『弁道話』は月舟禅師が大乘寺山内に安置し、そこから書写した学人がいた。更に、『重雲堂式』は卍山禅師などの頃から、『正法眼蔵』編集に入るようになった。
更には、「安居」巻は、江戸時代に単巻として開版されているのだが、そちらも卍山禅師が関わっていることが知られている。いわば、古規復古運動とは、ただ清規類の再刊、編集のみならず、それを実際に僧堂で行じ、更に上記の通り講義が行われることで、全国から来た学人が学び、そして各地に持ち帰ることで、初めて実現したものだといえる。
以前、拙僧が実世界の論文で研究したことがある三河龍源寺・万光道輝禅師も、大乘寺に安居した後で、龍源寺に戻り、山内で清規実践を行ったことが知られる。この時も、ただ思い付いただけではなくて、上記のような学びがあったからこそと拝察申し上げる(万光禅師は、大乘寺で智灯照玄禅師に参じている)。
以上のことからは、『正法眼蔵』全巻への学びはどうだったのか?という問題は残るかもしれないが、ほぼ同時代的に、天桂伝尊禅師による『正法眼蔵弁註』講義が行われつつあったことに鑑み、テキストの宗派内流通とともに、徐々に学ばれる事例が増えていったと理解している。
確かに、中世曹洞宗では『正法眼蔵』を学んだ事例については寡聞にして聞かないが、近世江戸時代になると、『正法眼蔵』もただの寺宝では無く、学ばれるテキストになったのである。
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