ただ、その整合性をどうやって付ければ良いか、それが決着していなかった。ただ、最近、必要があって読んでいた『正法眼蔵』の一節を見て、やっぱり拙僧の考えで良かったのだと思うようになった。まずは、その一節を確認し、そして考えてみたい。
石頭大師は、草庵を大石にむすびて、石上に坐禅す。昼夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕せずといへども、十二時の坐禅、かならずつとめきたれり。いま青原の一派の、天下に流通すること、人天を利潤せしむることは、石頭大力の行持堅固のしかあらしむるなり。いまの雲門・法眼のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。
『正法眼蔵』「行持(下)」巻
多分当時の宋朝禅でも、臨済宗(南嶽下)の方が優勢であっただろうが、しかし、道元禅師は青原下こそが天下に流通しているとまで主張されている。並々ならぬ思いを感じる一文ではある。実際、道元禅師の著作としては最初期に書かれた『弁道話』では、草案本系統とされる正法寺本こそ、「其の二派の流通するに、好く五門開けたり。所謂、法眼宗・潙仰宗・雲門宗・臨済宗・曹洞宗也。見在大宋には、臨済宗・曹洞宗のみ天下普し」とされているが、いわゆる流布本系統では「その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。いはゆる、法眼宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗なり。見在大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」であるとされる。
よって、宗派名の否定だとか色々と指摘されるが、拙僧的には、宗派意識はあったに違いないと思っている。ただ「五家ことなれども、ただ一仏心印なり」と、宗派の違いを超えた仏教の普遍性を直観するように説く。
さて、そのようなことはさておき、道元禅師が仰っているのは、石頭希遷禅師が昼夜に眠ることなく、坐禅をしていないときがなかったとされている。しかし、そう考えると、我々はすぐに神秘的に捉え、まさに24時間常に坐禅をしていたとばかり考えてしまう。そして、道元禅師は、そのような発想を否定する。それが、「衆務を虧闕せず」である。これは、食事であるとか睡眠であるとか、坐禅以外の日常的な振る舞いを、欠くことがなかったという意味になる。
そのように考えると、1日24時間の坐禅とは考え難い。ただ、道元禅師は、それでも「十二時の坐禅、かならずつとめきたれり」という。当時の「十二時」とは、「1時=現在の2時間」に当たるので、これは24時間の坐禅を必ず勤められたという意味になる。よって、達磨大師の面壁九年についても、「衆務を虧闕せず」と理解して良い。そして、ここから、「只管打坐」についても、余計に神秘的な発想をすることはない。あくまでも、修行の中心が坐禅であり、また、坐禅の時には坐禅のみ行うということで、理解しておいて良いのだ。
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