つらつら日暮らし

今日は立春(令和6年版)

そもそも、旧暦で春は、新年と共にやってきた。1月から春だったのである。

ところで、拙寺では先師が存命だった頃から、前年の年末に「立春大吉札」を貼るようにしているのだが、その後、よくよく考えて見れば「立春大吉札」は立春に合わせて貼るべきで、新年に貼るのはおかしいと気付いてしまった。とはいえ、かつての春を思えば、立春が新年と一緒という見方(厳密な暦というより、慣習として)も可能なので、上記の通りで良いのだろう。

ところで、道元禅師には新年と立春が別だった日に詠まれたと思われる偈頌が残されているため、今日はその偈頌を学んでみようと思う。

  一年有両立春
厳冬未だ極らざるに早春臻れり、何ぞ便宜に処して双脚を伸べん、
自の頂門を跳して相い透出す、一枚年の内両枚の春。
    『永平広録』巻10-偈頌97


このように、一年に二回立春があることを「年内立春」というようで、実際問題、そんなに珍しいことではない。ただ、暦と季節感とがずれていることがあるようで、道元禅師ご自身も、厳しい冬が来たわけではないのに、もう早春が来てしまったことを述べておられる。

なお、この偈頌を見ていると、道元禅師は冬が終わらないのに春が来た様子を、自ら自身の限界を脱落して、自由に振る舞う禅の境涯に準えておられる。確かに「暦」とは、或る程度日付でもって規則的に決まっているが、それに把われていては、人間が小さくまとまってしまう。それを超えて、自由に生きる時、それもまた、禅僧のありようとして肯定されるべきである。

その意味で、我々自身も、こういった風習を重んじつつも、それに把われずに、生きてみても良いかもしれない。なお、風習をしないことによって、把われなさを表現できると思う人がいるかもしれないが、それは違う。逆に、めんどくさいことはしなくて良いという身勝手さに把われている。そうではなく、風習=規則に従いながら、その中で自由に生きるべきである。

今日は立春、とはいえ、明日はまだまだ雪が降る予報も出ている。季節は、我々自身との相即ではある。「春」が来る様子について、道元禅師の教えが残されている。

老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。
    『正法眼蔵』「梅華」巻


こちらは、如浄禅師の偈頌を元に説かれた教えであり、華開いてこの世界が起きる時こそが、春到である。いわば、仏法への悟りがそのまま春到である。よって、立春もまた、仏法の開けである。

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