つらつら日暮らし

戒律を得るのは人間界のみという話

とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。

凡そ波羅提木叉戒を得る者は、五道を以て言えば、唯だ人道のみ得戒し、余の四道は得ざる。天道の如きは楽に著する深重なるが故に、得戒すること能わず。
    『大方便仏報恩経』巻6「優波離品第八」


以前、或るお話しで、戒律が人間界のものだという内容を聞いたことがあったのだが、その典拠の一つがここだったようだ。上記のことは何を書いてあるかというと、波羅提木叉(別解脱戒)を得るのは、五道で考えてみると、人道(人間界)のみであり、他の四道は得ないとしているのである。なお、六道と五道の違いは、修羅界があるかどうかであり、「他の四道」という時、まず「三悪道」については、当然戒律などは護持されない。

これは説明が要らないほどである。

一方で、天上界の人々は人間界よりも勝れているとされるので、戒律がありそうな気がするのだが、得戒しないという。理由を見てみると、上記一節では、天道の場合、「楽」に執着しているので、或る意味、自らに「苦」を負わせる可能性がある戒律が定着しないということなのだろう。

これ、似たような論理を聞いたことがある。

一には乗緩戒急なり、長寿を生じ、北洲、法要を聞かず。
    『大方広仏華厳経疏』巻32


北洲(我々が生きている世界は、南洲)では法要を聞かないというのは、北洲は人々の寿命が長く、1000年も及ぶという。つまり、焦って修行することがないからこそ、ブッダも出てこないし、法要を聞くことがないという。同じ人間界ではあるが、その人々の条件が違うという。この、人々の条件が違うという辺りが肝心なのだが、一方で、この世界で何故仏教が必要か?と問われたのである。

つまり、様々な人々の条件が、或る意味、夢想的に説かれた理由は、この世界を客観的に見るためでもあった。この世界にいながら、客観的に見るには、もっと他の条件の世界を出すしか無かったのである。そういう風に見てみると、人間界にのみ戒律があるというのは、仏教に於ける「戒定慧の三学」の思想から、禅定・智慧に展開する前提となるわけである。

よって、戒律をただ厳しいとのみ感じるのではなく、その後の仏道修行に繋がるものとして、肯定的にとって欲しいということになるのだろう。

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