つらつら日暮らし

8月4日 今日は箸の日(令和6年度版)

8月4日、語呂合わせで今日は「箸の日」である。まぁ、「橋の日」でもあるようだが、膨らましようがないので、「箸」にしておく。

それで、我々禅宗の食事作法について考えてみると、「箸」を使うのであるが、冷静に考えてみると、インドでは本来、素手で食べていたはずだ。その辺の事情について、道元禅師は以下のように示されている。

遐に西天竺の仏儀を尋ぬるに、如来及び如来の弟子、右手で飯を摶めて而も食す。未だ匙筯を用いず。仏子、須らく知るべし。諸天子及び転輪聖王、諸国王等、亦た手を用いて飯を摶めて而も食す。当に知るべし、是れ尊貴の法なり。西天竺の病比丘、匙を用いるも、其の余、皆な手を用いる。筯、未だ名を聞かず、未だ形を見ざるなり。筯は、偏えに震旦以来の諸国に用いるを見るのみ。今、之を用いるは土風・方俗に順う。既に仏祖の児孫為り、応に仏儀に順ずべきと雖も、手を用いて以て飯す、其の儀、久しく廃れて温故に師無し。所以に暫らく匙筯を用い兼ねて鐼子を用いるなり。
    『赴粥飯法』


要するに、道元禅師はインドでは手で食事をしており、病気になった比丘のために「匙(スプーン)」を使う程度であったとし、それが「仏儀」であり「尊貴の法」であるともしている。そして、「筯(箸)」は使われていなかったとしているのである。道元禅師はその事実を受けつつも、いわゆる原理主義的発想をされずに、中国ではそのような手で食べる方法が久しく廃れてしまい、温故しようにも教えてくれる人がいなかったとした。そして、中国で行われていた「匙筯」を使う方法を採用したというのである。

よって、我々の食事作法について、中国以東で変化があったとしても「仏儀」になる理由は、上記の通りである。我々は形式のみならず、精神性をも受け嗣ぐのである。

それから、仏教と「箸」というと、有名な「天国と地獄の長い箸」の話を思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、拙僧なりに調べてみたが、この話の典拠が分からない。

それで、「レファレンス協同データベース」を見てみたところ、意外と古い書籍には載っていないようなのである。紹介されているのは、青柳田鶴子氏『ほとけの子』(法蔵館・1983年)のようである。

確かに、国立国会図書館デジタルコレクションで探してみても、該当する文献を見つけることが出来なかった。今日の記事として間に合うような状況には無い。よって、とりあえず以上の記事をアップしておきたい。

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