つらつら日暮らし

4月18日 発明の日

今日、4月18日は「発明の日」らしい。何か有名な発明でもあったのか?と思ったが、そういう話ではないらしい。

4月18日は「発明の日」です(特許庁)

上のページを見てみると、明治18年(1885)4月18日に、初代の特許庁長官を務めた高橋是清などが、現在の特許法の前身である「専売特許条例」を公布し、日本の特許制度が始まったことを記念した日であるという。

ちょっと、いや、だいぶ思っていたのとは違っていた。

さておき、今日という日付に因んで、「発明」という言葉について考えてみたい。この言葉、禅宗であれば以下のような文脈で用いられる。

十一歳、同郡浄明寺の本宗に得度し、十四歳、晋州慈雲寺の智瓊に得戒す。十八歳、諸方に出游するに、訣れに其の祖曰く、若し大事を発明せざれば、誓って帰らず。
    『勅諡宏智禅師行業記』


これは、中国の宏智正覚禅師の行業記である。このように、諸方に遊行するに及んで、大事を発明することが無ければ、二度と故郷には帰ってこない、と誓っているのである。それでは、この「大事を発明する」とはどのようなことなのだろうか。

 若し已に発明すること有れば、謂つべし、龍の水を得るが如し、虎の山に犇るに似たりと。
 若し未だ発明すること有らざるは、亦た乃ち風に因りて火を吹く、力を用いること多からず。
    『禅苑清規』「坐禅儀」項


少しく意味についてはまだ分明とはいえないが、ただし、「発明」について、龍が水を得るように、虎が山に住むように、既に十分な力量を得た存在が、更に力を得ることを意味している。一方で、発明していないものは、風を得て自分で必死に火を吹くようなもので、他の力にのみ依存することをいう。

このような発明の有無の違いを前提に、以下の一節も見ておきたい。

諸道とは、唯だ金剛眼睛のみ有りて汝の真心の発明を憑助す。汝、若し会得すれば、能く無明黒暗を破す。汝、若し会せざれば真箇、壊れず。
    『景徳伝灯録』巻25


このように、真心を発明すれば、無明の黒暗を破り、一方で、会得することが無くても、真心が壊れることは無いとしている。つまり、既に、実際には具わっている真心についての話となっているが、しかし、大事を発明するという話と同じで、それも既に具わっているものを発明するのである。

よって、誤解の無いように書いておくと、禅宗では自分に具わっていないような、何か他の道理や真心などを発明するのではなく、自分自身の実態を発明するのである。今日という日、禅宗としては、自己自身を発明する日、と考えて良さそうだ。

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