さて釈迦の身体が無量の金色大光明を放たと云事、それも随心の羅漢弟子といふにばかり左様に見へて、いまだ釈迦を深く信ぜぬ者は罪がふかいによつて、釈迦を場灰色やせ婆羅門と見たと云事が観仏三昧経と云に見へて有が、こりや合てんのゆかぬ事でござる。然にかやうの隔があるといふは、つらつら考ふるに、信ずる者は迷によりて金色大光明の体とみなす。信ぜぬものは迷はぬによりて有のままに灰色のやせ法師とみへるではないかと思はるるでござる。これはちやうど狐狸が人とがけているを、人間は智と云惑ひぐさのあるゆへか、其眼を掠められて其きつねたぬきを人とみなせども、けつく犬などはきつねたぬきに一向たぶらかされず、飛かかつてかみふせるやうなことがまま有物だが、そんな分ではないかと思はるるでござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』82頁
平田篤胤の言動については、全体的には色々と文句を言いたいところがあるが、これはかなり面白い内容である。つまり、釈尊の身体が金色だというのは、釈尊に従う阿羅漢などが言っていることであり、従っていない者は「灰色やせ婆羅門」と指摘したというのである。よって、篤胤は或る意味、釈尊の身体を金色だと述べているのは、「信仰」によって目が眩んでいるのではないか?と問題提起しているのである。
その意味では、信仰に対しての合理的批判を持っていたことが理解出来よう。ただ、その良いあり方として、「犬」を挙げているということは、「合理的批判」という話とは少し違っているのかもしれない。なぜなら、犬は本能で吠えていると思われるためである。今後、篤胤の作品を読み解いていく時、この辺の「合理性」については、関心を持って見ていきたい。
ところで、上記一節で、篤胤が『観仏三昧経』という文献について指摘している。同経について、おそらくは『観仏三昧海経』のことを指しているのだろうとは思うのだが、『大正蔵』巻15を調べてみても、「灰色やせ婆羅門」に類する用語は見付け切れていない。むしろ、『法苑珠林』巻13「念仏部第二」で『観仏三昧経』からの引用だとしつつ、「我が身端厳なるは、閻浮の金の如し。汝、灰色羸せ婆羅門を見るは、皆、前世の邪見の故に由りて爾り」という一節が見える。
その上で、この一節は『仏祖統紀』巻3下「教主釈迦牟尼仏本紀第一之三下」にも引用されており、これまでのことから、篤胤が引いたのは、どちらかであろう。ただ、『観仏三昧経』として引用されている文献では、「灰色」に見える理由として余り良くない理由を挙げている(前世がどうこうという話)。よって、篤胤のような見解が提示された時、それを知った仏教者は困惑しただろうなぁ、と思う。これは知っている人も多いと思うが、『出定笑語』へは、曹洞宗僧侶から反論する見解も出ているので、機会を得ればそれも学んでみたいところである。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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