つらつら日暮らし

流布本『普勧坐禅儀』参究1(令和5年度臘八摂心1)

この坐より摂心。

今日から8日まで曹洞宗寺院では臘八摂心を修行する。この行持については、【摂心―つらつら日暮らしWiki】を参照いただくと良いだろう。

さて、毎年の臘八摂心では、何かの典籍を一週間(プラス数日)かけて読み込むことにしているのだが、今年はいよいよ道元禅師著、宗門坐禅の根本聖典『普勧坐禅儀』(流布本系統)にしてみたい。また、予め申し上げておけば、今回は敢えて祖山本『永平広録』の訓読に従って読み込み、それによって宗旨を把握してみたい。また、江戸時代以前の註釈書に依りつつ、道元禅師の他の著作を読みながら全体を把握することにしたい。よって、これにより従来いわれてきたことと異なる内容になるかもしれないことも合わせてお断りする次第である。

なお、従来の区分の方法では、流布本系統が持つ四六駢儷体の構造から、全16段に分ける場合もあった(秦慧玉禅師御垂示『普勧坐禅儀講話』など)。拙僧も、その方法を拝している。ただし、今回は敢えて、全体の理解を進めるために、一応全9回の短期連載とし(よって、摂心終わってからも2回ほど記事にする)、各回に於いて、必要に応じて文章を区切り、その上で拙僧なりの参究成果に基づく解説を付すこととしたい。

そこで、参究に当たっては、基本的に江戸時代の学僧である瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』に見える『普勧坐禅儀』註釈を中心に見て、合わせて、面山瑞方禅師『普勧坐禅儀聞解』、指月慧印禅師『普勧坐禅儀不能語』、そして、各種『永平略録』註釈を調べながら、学んでいきたい。これらは、江戸時代の学僧達による、同書参究の結果であり、道元禅師の語録に入る『普勧坐禅儀』註釈もまた参照すれば、これまで坐禅関係の註釈が知られていなかった人であっても、それを知ることが可能であるので、合わせて見てみるのである。

ところで、本文に入る前に、『普勧坐禅儀』の本質を一言でいえば、「道本円通」なのである。つまりは、我々自身の身心に、既に仏陀の「道(さとり、教え、経)」は本より円通している。だが、そうであるならば、何故に修証していく必要があるのか?或いは、その時の修証とはどうあるべきなのか?それらの問い掛けこそが、『普勧坐禅儀』の参究を、或いは我々自身の坐禅そのものを押し進める、最大の源泉となる。それは常に念頭に置いておかねばならない「公案」である。

 普勧坐禅儀   観音導利興聖宝林寺 沙門道元 撰

まずは、このタイトル自体が問題を含む。いわゆる「普勧坐禅儀」とは如何なる意味であるのかを参究しなくてはならない。瞎道師は、普勧にはその人個人の状況や才能、そういう相違があっても、この「勧」からは免れることが出来ないことを力説されている。そして、問題はただ「坐禅の儀式」を伝えるだけを意味していると理解してはならないということだ。それは、瞎道師が「参同の坐禅に兀兀地なるべきの宗なり。もし勧化・教化のこころ、儀式のみにてはあらず。即不無の修証を染汚不得なる仏光明の親曾なり」と述べられるところに究尽されている。つまり、坐禅の儀礼・技術のみに陥れば、そこに「普」はなく、どこまでも、その「普」とは仏の道理として会得されねばならない。だからこそ、「染汚不得なる仏光明」なのである。道元禅師が「仏」を用いる場合、そこには必ず「無分別」の意が込められている。その「無分別」を分別するのが凡夫なので、その我見を破する必要は、誰に於いても必ずある。だが、それはそれとして、仏光明に摂取される坐禅を正しく伝えなくてはならない。それが「普勧」なのである。なお、「坐禅儀」については、以下に読んでいく本文、或いは、瞎道師が指摘されるように『弁道法』『弁道話』なども合わせて見ていくと良いだろう。もちろん、「坐禅儀」「坐禅箴」巻も参考になることは言うまでも無い。

さて、続けて、「観音導利興聖宝林寺 沙門道元 撰」という記述からは、この流布本『普勧坐禅儀』が、道元禅師が興聖寺におられた頃に成立したことが分かる。それを前提に、他の諸著作との前後関係を探ってみたい。

1236年10月15日 興聖寺で集衆説法
1242年 3月18日 「坐禅箴」巻を興聖寺で書く
1243年 7月16日 越前へ向かう
同 年11月 中  「坐禅儀」巻を吉峰寺で示衆
1244年 2月15日 「三昧王三昧」巻を吉峰寺で示衆


このような流れになっている。そうなると、問題とすべきは、「坐禅儀」巻は明らかに『普勧坐禅儀』よりも後で書かれている。また、「坐禅箴」巻と流布本『普勧坐禅儀』との関係は微妙ではある。だが、拙僧は道元禅師は著作の中で、「試作的思索」を用いると思っていて、「流布本」へと練り上げる過程に、「坐禅箴」巻があり、その前提としての「古鏡」巻、展開としての「行持」「光明」巻があったと考えているので、おそらく「流布本」の方が、「坐禅箴」巻よりも成立は遅いと思う。「坐禅箴」巻の成果を受けて、改めて文体を調えて示したのが、「流布本」なのではなかろうか。また、この寺号についての参究は、面山師『聞解』の記述が優れていると思うので、それを参照願いたい。

 原れば夫、
道本円通す、争んぞ修証を仮らん。
宗乗自在なり、何ぞ功夫を費やさん。
況んや、
全体迥かに、塵埃を出たり、孰か払拭の手段を信べん。
大都、当処を離れず、豈、修行の脚頭を用いん者や。
 然而ども、
亳釐も差有れば、天地懸隔なり、
違順纔かに起れば紛然として失心す。


最初の2行だけで、論文が書かれた例も知っているので、軽々に扱って良い内容ではない。ただし、これらは「道本円通」から、「失心す」までを一つとして考えねば、必ず誤ってしまうので、敢えてそれらをまとめて考えてみたい。まず、冒頭2行で示されているのは、まさしく道元禅師の坐禅観・修証観が「本覚門」の立場にあることを明示する内容である。この我々の世界は、仏道も、宗乗も、それとして円かに存在しており、それを証すための修行などは最早不要なのではある。また、その全てがあらゆる汚れを脱落しており、それを改めて拭き取ることも無いし、仏道の肝心要の場所から離れることが無いので、修行してそれを証していく必要も無いのである。

問題は、このような事実が先にあって、それが我々の現実面にどう影響していくか?なのである。その部分が、ほんの少しでも思い違いがあれば、仏祖の道理とは天地ほども違ってしまうし、道理の流れとわずかにも思い違いをすれば、混乱して仏心を失ってしまうのである。

であるならば、その思い違いが無いという状況、どう考えれば良いのだろうか?瞎道師の指摘では、この「争んぞ修証を仮らん」「何ぞ功夫を費やさん」についてはそれぞれ「修証一等」のことだとしている。修証一等を、仏の道理・悟りの側から記述すれば、「どうして修証する必要があろうか?」「何故弁道工夫する必要があろうか?」となるとはいう。だが、そこに、修行がないわけではない。つまり、道本・宗乗の自在円通なる状況が強調されるからこそ、そこに忌まれることなき修行もまた道本・宗乗の自在円通となっていく「修証一等」なのである。

いわば、「修証一等」が正しく把握されること無き状況で、『普勧坐禅儀』を読んでも、修行或いは証悟、そのどちらかに堕してしまう危険性を、瞎道師は指摘されるが、それはまさしく道元禅師の仰ることと同じであって、現代の我々もそれを正しく受け取っていかねばならないのである。そして、用語としては出ないけれども、瞎道師の指摘は「本証妙修」にまで進んでいる。それはつまり、如何に悟りなどの円通が強調されても、その上での修行が必ず行われなくてはならないことを意味している。然るに、その「修行」の実践については、やはり良き師匠に就いて、その生き方を真似ねばならないという。悪しき師匠に就いては、日頃の行いはただの悪作・悪行であって、仏行では無い。

我々は「本証妙修」や「道本円通」などと聞くと、すぐに、「どんな生き方でも道本か」といってみたり、「道本ならば修行不要か」というような発想に至る。だが、その発想そのものが既に、現実を離れた抽象化された議論であって、まさしく空想妄想・脇稼ぎの最たるものだ。ここには、修行が正しく行われている、という「前提」があって初めて言われることであり、その「修行」と「証悟」とがどういう関係にあるのかを示すための教え、それが『普勧坐禅儀』である。いくら修行しても、証悟に至らない、そのような無駄な行いを避けるため、両者の関係性を、「不染汚の修証」に則って示すこと、それが本書の意義である。

この前提をせずに、無闇に混乱することは無い。日頃の修行、それがあることを前提に考えて良いのである。なるほど、本書は確かに「初心者」向けでもある。だが、本当の意味で初心者向けに改められたであろう「坐禅儀」巻では、この冒頭の修証観に関する説示は割愛されている。その御慈慮もまた、児孫は正しく受け取っていくべきである。『普勧坐禅儀』とは、あらゆる衆生のために示された文献ではあるからこそ、初心者から臘高年長の者に至るまで全てを含むのである。初心者にはまず、仏の道理とは得やすいものだが注意が必要だと示し、臘高年長の者には「本証妙修」の本質である「しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖、しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ」(『弁道話』)を冒頭で示しているのである。なお、今引いた一節を正しく理解できないと、「本証妙修」も誤る。修行を緩くして良いとは、どこにも書いていないのである。修行を厳しく行うこと(これは、肉体的・精神的な追い込みを前提にしていない。動機を正しく得て、日常を規則正しく生きることをいう)が肝心なのである。

ここが正しく得られれば、明日以降の説示も容易に会得できるであろう。

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