つらつら日暮らし

今日は釈尊成道会(令和5年度版)

さて、臘八摂心も円成し、今日は釈尊の成道をお祝いする日となった。なお、日本に成道会を伝えたのは、道元禅師だとされる。

日本国先代、曾て仏生会・仏涅槃会を伝う。然而ども、未だ曾て仏成道会を伝え行わず。永平、始めて伝えて既に二十年。自今以後、尽未来際、伝えて行うべし。
        『永平広録』巻5-406上堂


以上の通りだが、この上堂は建長2年(1250)頃だと推定されるため、そこから20年前となると、道元禅師が中国留学から帰国された1227年以降、少し落ち着かれてからになるだろうか。その折、道元禅師による釈尊成道への思いは、弟子たちを前に行われた正式な説法であった上堂で知ることが出来る。

不明       巻1-37上堂
仁治2年(1241) 巻1-88上堂
寛元3年(1245) 巻2-136上堂
寛元4年(1246) 巻3-213上堂
不明       巻3-240上堂(今回)
宝治2年(1248) 巻4-297上堂
建長元年(1249) 巻5-360上堂
建長2年(1250) 巻5-406上堂
建長3年(1251) 巻7-475上堂
建長4年(1252) 巻7-506上堂


以上の通り、ほぼ毎年行われている様子が理解出来よう。そこで、今日という日に、以上の内容から学んでみようと思う。

 上堂。釈迦牟尼仏大和尚、菩提樹下に在って金剛座に坐し、見明星、悟道して云く「明星出現の時、我と大地有情と同時に成道なり」と。
 且く大衆に問う、大地の有情、恁麼に道い、釈迦老子も恁麼に道う。大衆道不得なるも、永平、却、道得。
 卓、拄杖一下して云く、這箇は是、長連牀上学得底。向上、還、道う有りや。
 又、卓、拄杖一下す。這の両途に渉らず、又、作麼生か道ん。
 良久して云く、僧堂前、你諸人と相見了なり。
    『永平広録』巻3-240上堂


こちらは、実施年次は不明ではある(『永平広録』の順番からは、1247年の場所に入っているのだが、この時道元禅師は鎌倉に行化されていたので、永平寺では実施されていない)が、意味は以下の通りである。

道元禅師は上堂されて、以下のように示された。

釈迦牟尼仏大和尚が菩提樹の下にて金剛座にて坐禅しながら明星を見て仏道を悟って言われた「明星が出現した時、我と大地の生きとし生ける存在が同時に仏道を成就したのである」と。そこで修行者諸君に問うのだが、(成道について)大地の生きとし生ける存在がこのように言い、釈迦老師がこのように言われたぞ。修行者諸君は言い得なくても、永平(=私)はまた言い得るぞ。

机を杖でドンと1回突かれると言われた、これは長連単上での坐禅の様子であるが、さらに向上の言葉がある、として、机を杖でドンと1回突かれた。この両方に渉らないようにして、またどのように言えるだろうか、と。

そして、道元禅師はしばし無言の間を置かれてから、僧堂の前で、お前と諸々の人とは相見し終わっているのだ、と。

さて、ここで道元禅師が引用された釈尊成道の言葉は、中国で作られたものだが、釈尊が悟りを開いた瞬間に、一切の事象が悟りになったことを意味する。この思想的な背景となったのは、『華厳経』の「初発心時、便ち正覚を成ず。一切法の真実の性を知りて、慧身を具足して他悟に由らず」という一文や、他にも、『沙石集』で無住が『華厳経』の言葉として引く「我成仏してみるに、衆生は皆仏なり」(出典は未詳なので、良く分からないところだが)なども考えられるだろう。

ただし、いわゆる成道によって一切の存在もまた成道するという大悟者の自覚は、悟りの世界から見た場合の事実として理解されねばならない。つまり、「悟り一元の世界」をどのように表現しうるかの問題である。もし、固有の事象を言い得てしまえば、他の一切が排除され、また何も言わなければ、それはただ単に何もないということになる。つまり、何かはある、しかし何とも言えないという状況であり、道元禅師はそれを二度、机を杖でドンと突くことで表現されつつ、更に両方に渉らない一句を言え、と修行僧達に迫っておられるのである。

今日の成道会、まさに仏陀の成道があって、それに悟らされている自己に気付く良い機会とすべく、まだまだ坐りたいところである。

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