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ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧仙南村飯詰を往く-1(その7、終)

2019年04月23日 | 旧仙南村を往く

<「飯詰駅」・「佐野」付近のS23年の姿>

 

●歩いた日:2019年3月9日(土)

●歩いた所

 ・上深井:矢矧殿、谷地中、松葉野、耳取、老形

 ・境 田:下八百刈

 ・佐 野:下佐野、中村、倉合

 ・南 町:北広田、千刈田

●歩いたログ(足跡)(道のり5.3km)

(以上の地図:国土地理院)

 最後にまた古い航空写真をご覧いただく。まずは、S51年の「飯詰駅」付近の写真。

 道は現在とほとんど同じであるが、今回歩いた道でまだ開通していない部分を橙色の線で書き入れてみた。  「飯詰駅」前広場の北隣は現在多目的広場になっており、何台も車が駐車されていたので私もそこに車を止めたが、この写真ではそこに黒っぽい屋根の大きな建物が建っている。何の建物だろうか。駅のすぐ南に5棟の米倉庫と思われる建物が連なる。これらは現在もそのまま残っているようだ。

 その倉庫群の辺りから駅のかなり北の方まで、鉄道の西側に木立が並んでいるのが見える。私が汽車通学していたS40年代の初めにもあったと思われるが、記憶には全くない。西側は一面の田んぼで冬に強い風が吹きつけるので、それを防ぐために植えられたのだろう。

 薄い水色で書き入れた線は、田んぼの中に残る昔の水路跡をたどったものである。この後ご覧いただくS23年の写真と比較していただきたい。

 次に同じくS51年の写真で、「飯詰駅」の東側、「佐野」付近である。

 見事な散居形態で、田んぼの中に家々が点在している。その中にあって「北広田」と、前掲写真の「老形」は家が集まっている集居を形成しているのがわかる。橙色、水色の線は前掲写真と同じ意味合いである。

 「佐野中村」の大きな屋敷が鬱蒼と茂る木立とともにくっきり写っている。道を挟んでそのすぐ南側にも、木立に囲まれた大きな家が写る。この場所は現在、「佐野吉川記念公園」で「佐野会館」が建つ場所である。ここにも家が建っていたとは考えなかったので、本文では北側の大きな屋敷が「吉川家」なのであろうか、と書いたが、それは間違いで、この家こそ「吉川家」である。そういえば、看板にも「当地の吉川家・・・」とあった、ではないか。

 「日吉神社」の参道がくっきり写っている。現在、そのすぐ東側を参道と並行して走る車道は(橙色の線)は当時は未開通である。

 ところで、写真南側(「佐野」)と北側(「南町」)では田んぼの区画の大きさが異なっている。この原因はS23年の写真を見るとわかる。南側はS23年当時すでに区画整理(たぶん1反(10a)区画)が済んでおり、S51年当時もそのままの区画であるが、北側はS23年当時は未整備で、その後、稲作の機械化の進展に合わせて大きな区画に整備されたことによるものである。なお、現在は南側も再整理されて大きな区画になっている。

 最後にS23年の写真。

 ご覧のように、「中村」の大きな屋敷周辺、「佐野」の田んぼはきれいに整備され、道はまっすぐに延びている。一方、「北広田」の北側はうねうねした細い水路が錯綜して未整備の状態である。そうした未整備の田んぼの中を、「六郷」と「角間川」を結ぶ道はまっすぐになっている。重要な道路だけに、田んぼの整備とは別に早くに整備されたのだろう。

 「飯詰駅」前広場の隣には、この写真でも建物が確認できる。米倉庫は3棟である。鉄道の西側には当時も木立が並んでいたことがわかる。

  S51年の写真で田んぼ中に痕跡を残していたのが、水色でなぞった水路である。橙色の線は現在の道筋で、当時はもっと南側を通っていたことがわかる。

 (終わり)

●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:384.4km)

  次回からは、「旧千畑町千屋」の「本堂城」跡(以前にブログに掲載した)の東側に、築城当時に城下町としてつくられた「本堂城回」の「本堂町」を歩いてきましたので、その記事を掲載する予定です。


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