日本人の可能性とは?

世のブログの中から、日本人の可能性を感じさせてくれる記事を紹介していきます。

外国人からみた、戦前の日本人(9)

2011-10-30 21:00:00 | 日記

ぼやきくっくりさんのブログからの記事紹介の9回目です。

くっくりさんのブログには戦後も含めた事例が満載ですが、ここでは戦前の事例に絞っています。
やはり、米国の影響下に置かれた戦後よりも、戦前の日本人の姿がより本質に近いと考えるからです。


ディアス・コバルビアス=メキシコ人。天文学者。1874年(明治7年)、金星観測の国際共同事業のために来日。

「日本旅行記」より

 日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである。天皇と女御の間に最初の女の子が誕生した時に取り行われた祝祭行事や、大久保大使が台湾問題で、日本が中国に要求した賠償金を手にして帰還したさいに開催された祝祭、その他にも多くの機会を通して、横浜、神奈川といった人口六万から七万の都市で、国民が、喧嘩も酔っぱらいも何の混乱もなく、照明と花火と、動物に変装した人々の怪奇な無言劇などを楽しむのを目撃する機会にめぐまれた。どの祭り場でも、通りで酔っぱらいに会ったことがなかった。


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外国人からみた、戦前の日本人(8)

2011-10-27 22:00:00 | 日記

久しぶりの更新です。もう少し、ぼやきくっくりさんのブログから、
戦前に来日した外国人の目で見た日本人の優れた資質を伝える記事を紹介します。

ロバート・フォーチュン=イギリス人(スコットランド出身)。植物学者。北東アジアの植物に興味を持ち、中国で植物を集めるために派遣される。その後、1860年(万延元年)に来日。

「江戸と北京」より
 江戸西南郊へ遠乗りに出かけた時の記述


 この時われわれが通ったような魅惑的な道に、私は他の国々を遊歩した際に出会ったことはなかった。それは時折、英国の田園地帯のいくつかで出会った道を思い出させたが、最初は先入見があったにもかかわらず、英国にはこれと較べられるようなものはないと認めないわけにはいかなかった。広い並木道や、松やとくに杉の木立としばしば出会ったが、その木立は道を縁どってすばらしい日蔭をつくり出していた。時折みごとな生垣も目についた。それはときにはさまざまな種類の常緑樫、ときには杉などの常緑樹でできていた。丁寧に刈りこまれ、あるときは、わが英国貴族の庭園でよくお目にかかるヒイラギやイチイの丈高い生垣を思い出させるほど、高くのび揃えられてた。どこでも小屋や農家はきちんとしており清潔に見受けられた。こんな様子はほかの東洋諸国では見たことがない。……風景はたえず変化し、しかもつねに美しい――丘や谷、広い道路や木陰道、家と花園、そこには勤勉で、労苦におしひしがれておらず、明らかに幸せで満ち足りた人々が住んでいる。

 

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外国人からみた、戦前の日本人(7)

2011-10-15 02:20:49 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の6回目です。

ルドルフ・リンダウ=プロシャ人。スイス通商調査団の団長として1859年(安政6年)初来日、1864年(文久4年)にはスイスの駐日領事をつとめた。

「スイス領事の見た幕末日本」より
 長崎近郊の農村での記述

 いつも農夫達の素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。

火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。

……最も大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出して行くこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると……「大変有り難う」と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。

私が遠ざかって行くと、道のはずれ迄見送ってくれて、殆んど見えなくなってもまだ、「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる、あの友情の籠った声が聞こえるのであった。



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外国人からみた、戦前の日本人(6)

2011-10-14 02:03:06 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の6回目です。

ファン・オーフルメール・フィッセル=オランダ人。1820年(文政3年)~1829年(文政12年)、長崎・出島のオランダ商館に勤務。ヤン・コック・ブロンホフ、フランツ・フォン・シーボルトの二人に仕え、江戸参府にも随行。

「日本風俗備考・1」より

 日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。

(中略)自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。

(中略)日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。


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外国人から見た、戦前の日本人(5)

2011-10-13 02:18:26 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の5回目です。

ハーバート・G・ポンティング=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。

「英国人写真家の見た明治日本」より


 プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。

(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。

 何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。

 

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