日本人の可能性とは?

世のブログの中から、日本人の可能性を感じさせてくれる記事を紹介していきます。

凡才の集団は孤高の天才に勝る

2012-01-22 22:10:45 | 日記

日本にスティーブ・ジョブズのような天才的個人が居ないからと言って、嘆くことは全くない。
なぜなら、凡人が集まることで、天才の能力を軽々と凌駕することが出来るから。
そして、江戸の昔からそのような「コラボレーション能力」に長けているのが他ならぬ日本人だから。

  『凡才の集団は孤高の天才に勝る…』キース・ソーヤー著の田中優子氏による書評。

文芸同志会通信さまより

 ビジネス書の書棚には近づかない方なのだが、この本の題名を見て思わず手にとった。それは私が、江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」というものに関心を持ち続けてきたからである。連は少人数の創造グループだ。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。

  さて本書は原題を「グループ・ジーニアス」という。著者は経営コンサルタントを長く経験し、企業にイノベーション(革新)の助言をすることを仕事にしてきた。同時に心理学博士で、そしてジャズピアニストだ。この組み合わせには納得。そこから見えるのは、個人の発明だと思っていたものが、実は様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機にしているという事実である。また個人のレベルでは十中八九失敗であるものも、最終的には画期的な発明がなされている。失敗が新しい時代につながる理由こそ、コラボレーションの力なのだ。

  江戸の連には強力なリーダーがいない。町長や村長など「長」のつく組織は明治以降のものであって、町や村もピラミッド型組織にはなっていなかった。それは短所だと言われてきた。戦争をするには、なるほど短所であろう。しかし新しいアイデアや革新を起こすには、社員全員で即興的に対応する組織の方が、はるかに大きな業績を上げている。本書はブラジルのセムコ社やアメリカのゴア社の事例を挙げ、現場のことは現場で即時対応することや、規模を小さくとどめるために分割することに注目している。それが伝統的な日本の創造過程とあまりにも似ていることに驚く。

  本書で提唱しているのはコラボレーション・ウェブ(蜘蛛(くも)の巣状の網の目)である。その基本の一つが会話だ。事例として日本の大学生の会話も収録されている。そこに見える間接的な言い回しが、可能性を引き出し創造性につながるものとされている。日本語(人)の曖昧(あいまい)さと言われるものが、実はコラボレーションの大事な要因なのだ。相手の話をじっと聞き、それを自分の考えと連ねることによって、新たな地平に導く可能性があるからだ。これは相手まかせではできない。能動的な姿勢をもっていてこそできることである。人を受け容(い)れるとは能動的な行為なのだ。

  江戸時代までの日本人は、集団的なのではなく連的であった。本書もピラミッド型集団とコラボレーションとの違いを明確に区別している。こういう本を読んで、日本のコラボレーションの伝統と力量に、今こそ注目すべきだ。
(金子宣子・訳)(毎日新聞 2009年3月22日 東京朝刊)

 



応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 政治ブログへ


イスラムが賞賛する日本人の生活習慣

2012-01-18 22:43:46 | 日記

日本人がごく普通に行っている生活習慣をイスラム世界から見ると、
イスラム教の教えが最も良く実践されているのだそうです。

2009年の世界おもしろニュースより。

日本の生活習慣に驚愕するイスラム教徒



エジプトから

 エジプトやサウジアラビアなどアラブ・イスラム諸国は9月21日に30日間にわたるラマダン(断食月)を終了した。例年この期間、国民がラマダンを楽しく過ごせるようテレビなどは“正月番組”ならぬ“ラマダン番組”を組み、盛り上げる。

 今回、特に注目を集めた番組の一つが何と日本の生活習慣を賛美するものだった。サウジアラビアのシェイク(イスラム指導者)が日本を訪問、驚愕した事実を取材して30日間毎日放映した。

 視聴者が殊に驚愕したのは、日本人は、(1)時間をきっちり守ること(2)食べ物を残さない(3)ごみが分別されて収集されること(4)地下鉄や電車の中では、他人に迷惑を掛けないため携帯電話を使用せず騒々しくないばかりか、多くの人が本を読んでいること(5)生徒が学校や教室を掃除すること(6)工事中の労働者が安全靴やヘルメットを着用していること――など。

 シェイクの結論は、イスラム国家でもない日本で、イスラム教の教えが最もよく実践されており、イスラム国家でこれらの反対が実践されていることを恥ずかしく感じたというもの。

 殊に視聴者の反響が高かったことの一つは、生徒が放課後、自分たちで教室やトイレを掃除するシステムで、掃除は、使用人や召使いがやる仕事として手を付けたがらない自分たちの姿勢や、ごみをポンポン投げ捨てる生活習慣を反省、日本に倣って、幼い段階から、他人に迷惑を掛けないよう、自分のことは自分でする教育を導入しようとの声が上がっているという。





応援よろしくお願いします。にほんブログ村 政治ブログへ


それでも日本は、極めて魅力にあふれている

2012-01-11 18:35:03 | 日記

2011年の東北大震災と福島原発事故によって、日本は世界でも最も悲惨な先進国に転落したように見える。
だが、それでもなお、日本は海外から見て極めて魅力的な国であり続けている。

Newsweek-VOICES
高品質の「公共」を誇る東京は必ず復活するより

 言うまでもないことだが、日本にとって2011年は悲惨な年だった。けれど私は、2012年がついに日本にとって「目覚めの年」になると信じている。もちろん、東京にとってもだ。

 ここ20年以上というもの、日本からは1つとしていい話が聞こえてこなかった。日本は誰にも止められずゆっくりと、永久的な衰退の道を進んでいるように見える。福島第一原子力発電所の事故は、やる気をさらにそぐことになった。ぱっと見で日本に下される診断は明確だ。この国は長期的な破滅へと向かいつつある──。

 その一方で、実は「最悪の中の最良」にあるようにも見える。世界中のほとんどすべての国が、今の日本よりも一層ひどい状況にあるからだ。

 アメリカは数々の大きな国内問題を抱え込み、外国に口出しするような余裕はない。ヨーロッパでも社会問題が噴出し、一向に改善しない雇用情勢に若者世代が苦しんでいる。今のパリの姿は、日本人旅行者がかつて抱いたばら色のイメージとは程遠い。パリ郊外には麻薬ギャングが支配する地域もあり、警察官ばかりか消防士や医師ですら立ち入れない。

 こうしたフランスの一部地域は、完全に見捨てられている。そこで生活する子供たちが、今後幸せな人生を送るチャンスはゼロに等しい。彼らには「公共」の福祉など存在しない。

 最も注目される国、中国でも「公共」の質は高くない。確かにアメリカに並ぶ影響力をもつ経済大国だが、大きな問題が1つある。北京では息を吸えないのだ。大気汚染がひどく、200メートル先を見通せない日もある。それに比べて東京は、冬の晴れた朝には都心からも富士山が見えるほど。きれいな空気は東京の誰もが享受できる「公共の利益」だ。

 実際、東日本大震災で誰もが何らかの影響を受けただろうが、東京の「公共」の質は驚くほど高く保たれている。道路はピカピカだし、公共交通のサービスは素晴らしい。公共の利益を重んじる姿勢がここにも見て取れる。

■空気も食事もインフラも最高

 もちろん問題はある。それでも、パリの地下鉄や電車で日々遭遇する問題に比べればかわいいものだ。パリの街頭には、東京の100倍は落書きがある。暴力事件の発生率は東京よりはるかに高い。東京の一番汚い公衆トイレよりきれいな公衆トイレを1つだって見たことがない

 東京には、経済の良し悪しによる影響は誰にも平等に降りかかるという感覚がある。「ウォール街占拠」デモが日本で起こらないのは世論が無関心だからではなく、ウォール街に匹敵する存在がないからだ。アメリカのように、金融監督機関の幹部がヘッジファンドからやって来るようなこともない。

 日本の金融政策関係者は、人生の究極の目標が金銭的な利益だとは考えていない。「公共の利益」とは何かについて高尚な考えを持っている。日本銀行に勤める私の友人は大した給料ももらっていないのに、日本の金融安定化のために毎日朝から夜中まで懸命に働いている。

 20年間の経済低迷にもかかわらず、東京が公共の良識を保ってきたのは称賛に値する。だからこそ私には、東京が近い将来力強く復活することが分かる。

 格安航空会社の参入で空の旅がもっと手軽になれば、東京の生活水準の高さは外国人に知れ渡る。東京人も自覚するようになるだろう。ここには最高の空気と食事、インフラがあり、文化や芸術の質も突出していることを。ヨーロッパとアジアの都市をよく知る私の友人たちにどこか1つ選べと言えば、皆ためらうことなく東京での生活を選ぶだろう。



応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 政治ブログへ


「失われた10年」は、失われていたわけではない。

2011-12-03 02:48:07 | 日記

今日は、1年半前のレコードチャイナから。

世界的に金融崩壊が近づく中、「失われた10年」と言われる日本の経済は、
経済政策の失敗などではなく、アメリカとは違う新しい選択なのではないか?という見解です。

多分、この見方は当たっているのではないでしょうか。

日本は落第生ではない、「失われた10年」に学べ

2010年8月11日、英紙ガーディアンは日本経済に関するコラムを掲載。
いわゆる「失われた10年」は経済的な失敗ではなく、米国とは異なる発展モデルを選んだ結果だと分析した。
13日付で環球時報が伝えた。以下はその抄訳。

経済学者たちは長年にわたり、日本経済に不当な評価を与えてきた。
考えてみよう。

世界経済が後退する中、米国の失業率は10%に迫っている。
格差と貧困は激化し、4700万人が医療保険に加入しておらず、中産階級の年金は脅かされている。
欧州もまたさまざまな問題を抱えており、急成長を続ける中国もバブルが懸念されている。

では日本はどうだろうか?失業率は5%程度。
格差も他国ほど鮮明ではない。
全国民が医療保険を享受し、今なお世界の主要輸出国としての地位を保っている。
平均寿命は世界トップクラス。
乳児死亡率も低い。
教育水準は高く、犯罪、精神疾患、薬物乱用はいずれも低レベルにとどまっている。
炭素排出量も低水準ときわめてエコ。

あらゆる面で日本は米国より優位に立っているではないか。
なぜ日本が米国やその他苦境に立たされている国の教科書とならないのだろうか。
米国の著名経済学者クルーグマン氏を筆頭に、経済学者たちは日本経済をたたき続けてきた。
「日本シンドローム」という言葉まで作られたほど。

しかし経済とは何のためにあるのか、もう一度考えてみるべきだ。
人々に繁栄と安全を与えるためか、それとも経済学者の理論とモデルに従うためにあるのか。
今の時代に与えられた重要な教訓は2つある。
バブルは必ず崩壊する。
制限のない成長は環境を破壊する。

つまりもはや経済成長ばかりを求める時代ではなく、持続可能な発展を、お金を使わずに多くを成し遂げることを摸索しなければならない。
先進国が異なる成長モデルに切り替えることはたやすいことではない。

しかし日本、そしてドイツはそれを成し遂げた。
米国もまた両国にならうべきであろうし、現在の浪費型経済を改めれば、あるいは現在ほど多くの財政出動と成長計画を必要としなくなるかもしれない。



応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 政治ブログへ


ユダヤ人も手を焼いた戦前の日本の家族制度

2011-11-23 03:00:00 | 日記

今日は、戦前の日本の家族制度についての意外な事実を紹介。

きのせみかの大和撫子な生活さんより

すばらしかった戦前の家族制度

面白い話を一つ紹介しよう。
かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
国際連盟といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果作られたものが国際連盟なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて外は皆ユダヤ人だったのである。

なぜユダヤ人が労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるためマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果エピゴーネンとしての各国共産党を生んだのである。

話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとした時、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。

アルベール・トーマは、

「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。
何故ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はない。
家族が暖かく迎え入れてくれるからである。
この家族制度を何とかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」

といっているのである。
アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。

ここでまた日本人にお詫びをしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。

前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。
家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。

『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』(モルデカ・モーゼ)より

----------------------------------------

このことから判ることは、核家族化や女性の社会進出は人類社会の進歩と共に自然に生まれてきたものではなく、国家を内側から破壊するために輸入されたものであるということです。

もともと日本の国体は、天皇家が本家で国民はその分家という家族国家として成り立っており、家族制度はその縮小版の「小さな君主制」で、国民はすべて「絆(きずな
)」で結ばれていました。
家族制度の破壊は、その「絆」を分断して国家を解体するという作戦だったようですね。

近隣諸国同士を争わせること(つまり絆を破壊して信頼関係を失わせ、本当の敵を見えなくすること)によって他国を支配することを分断政策といいますが、その国内版が家族制度の解体だったようです。

戦前は日本の家族も、最小の本源集団として共同体性を色濃く残していたのでしょう。
分断統治を得意とするユダヤ人もこれには手を焼いたということ。

しかし戦後は彼らの思惑通り、核家族化が進み、労働運動も盛んになります。

応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 政治ブログへ