日本人の可能性とは?

世のブログの中から、日本人の可能性を感じさせてくれる記事を紹介していきます。

外国人からみた、戦前の日本人(7)

2011-10-15 02:20:49 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の6回目です。

ルドルフ・リンダウ=プロシャ人。スイス通商調査団の団長として1859年(安政6年)初来日、1864年(文久4年)にはスイスの駐日領事をつとめた。

「スイス領事の見た幕末日本」より
 長崎近郊の農村での記述

 いつも農夫達の素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。

火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。

……最も大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出して行くこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると……「大変有り難う」と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。

私が遠ざかって行くと、道のはずれ迄見送ってくれて、殆んど見えなくなってもまだ、「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる、あの友情の籠った声が聞こえるのであった。



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外国人からみた、戦前の日本人(6)

2011-10-14 02:03:06 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の6回目です。

ファン・オーフルメール・フィッセル=オランダ人。1820年(文政3年)~1829年(文政12年)、長崎・出島のオランダ商館に勤務。ヤン・コック・ブロンホフ、フランツ・フォン・シーボルトの二人に仕え、江戸参府にも随行。

「日本風俗備考・1」より

 日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。

(中略)自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。

(中略)日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。


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外国人から見た、戦前の日本人(5)

2011-10-13 02:18:26 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の5回目です。

ハーバート・G・ポンティング=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。

「英国人写真家の見た明治日本」より


 プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。

(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。

 何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。

 

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外国人から見た、戦前の日本人(4)

2011-10-12 02:11:45 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の4回目です。

アリス・ベーコン=アメリカ人。1881年(明治14年)来日。華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍。
「明治日本の女たち」より

 平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。
 日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。

 職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。

(中略)もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。

 

 

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外国人から見た、戦前の日本人(3)

2011-10-11 02:59:25 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の3回目です。

 

イザベラ・バード=イギリス人。当時の女性としては珍しい旅行家で、1878年(明治11年)以降、日本各地を旅した。
「日本奥地紀行」より

 ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。

 群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。

(中略)私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。

 私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。

 

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