日本人の可能性とは?

世のブログの中から、日本人の可能性を感じさせてくれる記事を紹介していきます。

日本人の同化力を表す日本語

2011-11-16 21:00:00 | 日記

今回は、「国際派日本人養成講座」より紹介します。

 

兄弟の子どもが居て、兄の方に呼びかける時、日本の親は「お兄ちゃんは・・・」という。また、知らない年配の女性や男性に話しかける時、日本の子どもは「おばちゃん」「おじちゃん」という親族用語を使う。

 

これが西洋人には理解できないのだそうだ。
なぜ、日本語では、このような言葉の使い方をするのか?

 

以下、「国柄探訪: 日本語が生み出す思いやり社会」より抜粋引用。

 

■7.なぜ自分の息子を「お兄ちゃん」と呼ぶのか?

 前述のように親が「太郎は何にする」などと名前を直接使うことはできるが、たとえば太郎に弟がいたら、「お兄ちゃんは何にする」と親族用語を使うことができる。親が自分の子供を「お兄ちゃん」などと呼ぶのは、外国人には理解不能な言い方であろう。

 この言い回しを鈴木氏は「親族用語の原点移動」という概念で説明している。家族のうちの最も目下の者(この場合は弟)に原点を移し、その弟から見て「お兄ちゃん」と呼ぶのである。これなら親族用語を使った親しみと共に、兄としての敬意も込められている。

 子供を持った夫婦が、互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶのも、子供に原点を移した「親族用語の原点移動」の例である。

 目上の人に対して、敬意の籠もった親族名称を使うという原則は、職場や学校でも拡張されて適用される。職場では「部長、お電話です」、学校では「校長先生、おはようございます」などと職名をそのまま使うのが、丁寧な用法である。

 知らない人に呼びかける時はどうだろうか。子供が、通りがかりの中年の婦人に「おばちゃん。ハンカチ落としたよ」などと言う。甥-叔母の関係でもないのに「叔母さん」という親族用語を使うのは、よく考えるとおかしい。しかし、これは相手を疑似親族と見なして、相手に親しみと敬意を込めた呼びかけ方なのである。

 逆に、中年の婦人が子供に声を掛けるときは、目下だから親族用語を使えない。だから、「親族用語の原点移動」を適用して、「そこのお兄ちゃん、ハンカチを落としたわよ」などと言う。相手の子に弟を想定し、それを原点として「お兄ちゃん」と呼ぶのである。

 親子の間でも、職場でも、通りがかりの人に対しても、「I」「You」の一本やりで通す英語に比べれば、相手への呼びかけ一つとっても、親しみや敬意など細やかな思いやりが我が国語には込められているのである。



英語の「I(わたし)」「YOU(あなた)」は、非常に対立的なニュアンスを持つ言葉だそうだ。
日本人は対立より融和を尊び、相手の視点への同化を重んじていることが日本語にも現れている。


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金融市場の終焉に、日本人は江戸を想う

2011-11-11 08:10:58 | 日記

今回は、今から少し前、世界を震撼させたリーマン・ショックの半年後に寄稿されたフィナンシャル・タイムズの記事から。

世界経済の危機を受けて、日本人の意識は賭博のような金融市場など無い江戸に向かいました。
あれから2年半後の現在、世界金融市場の終焉はますますハッキリしてきました。

この記事に書かれたような感覚が日本人に再来しているのだとしたら、
まだ我々の潜在意識にある健全な縄文体質に期待しても良いのかも知れません。

イノセントな昔を懐かしむ日本――フィナンシャル・タイムズ

フィナンシャル・タイムズ2009年3月9日(月)08:00
(フィナンシャル・タイムズ 2009年3月5日初出 翻訳gooニュース) アジア編集長デビッド・ピリング

経済の惨状を目の当たりにしながら世界各国は、このような事態を二度と引き起こさないには何をどうしたらいいのか考えている。市場資本主義を活気づける創造的な天使たちを自由に解き放ちつつも、破壊と混乱をもたらす地獄の番犬たちは好き勝手させないよう閉じ込めておくには、いったいどうしたらいいのか? 世界各国ではそうなのだが、一方の日本ではむしろ過去を振り返ろうという人の方が多い。

このほど東京を訪れた私は、会う人会う人に、日本は経済危機にどう取り組むべきか質問していった。そしてそのたびに、質問した相手はまるで忍者のような素早さで、明治以前の日本について言及するのだった。19世紀半ばにアメリカの軍艦によって無理やり開国させられる前の日本は、まるでアダムとイブがエデンを追われる前のような、原罪なきのどかな時代だったと言わんばかりに。当時の日本はまだ、世界の中で生きるためにゴリゴリ薄汚く働かなくてもよかったのだと、そう言うのだ。

 
「ミスター円」と呼ばれ続ける榊原英資・元大蔵省(現・財務省)財務官は、明治以前の日本は平和で整然としていて、手つかずの、人懐っこい国だったと言い、そういう国に立ち返るべきだと話す。

また、経済政策について質問した民主党の「次の内閣」閣僚は、江戸時代の日本は輸入量がほとんどゼロだったと言及(江戸時代の日本はほとんど200年間、出入国を事実上禁止していたのだから、輸入量ゼロは驚くに値しないのだが)。この政治家によると、日本が輸出を始めたのはただひたすら、国を守るために軍隊を築き上げる必要があったからで、それ以外の理由はなかったという。そしてその決断のせいで日本はこんにちのような、工業製品を海外消費者に売ることで成り立っている、過剰なまでに輸出依存型の国になってしまったのだと。

一年の半分を日本で過ごす、コロンビア大学のベテラン学者、ジェリー・カーティス教授によると、今の日本には確かに危機感よりも、昔を懐かしむ強いノスタルジアのにおいがたちこめているという。

「インテリの多くはアメリカを丸ごと拒否しはじめている。ネオリベラルな自由市場資本主義をそっくりそのまま鵜呑みにしていた人でさえ、もうアメリカはいらないと言い始めた。今の日本では、いかに日本の過去が素晴らしいかを語り合うのが、言論の主流になりつつある」

経済危機を機に、(明治時代にさかのぼらないまでも)戦後日本の三つの柱に対する評価が、大きく塗り替えられている。

一つ目は政治だ。(わずか10カ月の空白をのぞいて)過去半世紀にわたり日本を統治し続けた自由民主党の死は、あらかじめ予言されていたに等しい。これまでも何度か危篤状態に陥っては息を吹き返してきた自民党だが、今度こそいよいよ臨終を迎えようとしている様子だ。信頼できる政策がない、しかも特に信頼できる経済政策をもたないというのが、自民党が抱える問題の一部だ。自民党がまるで王族よろしく自分たちは権力を握っていて当然だといわんばかりにふるまっている姿を(二世や三世の世襲議員が異常なほど多いのが、その象徴だ)、国民が怒っていることも、自民党の問題の一部だ。政治システムをぶっ壊したはずの、過激なアウトサイダーだったはずの小泉純一郎氏でさえ、自分の議席を息子に譲ったばかりなのだ。対照的に野党・民主党は(世襲議員もそれなりにいるが)若きテクノクラートであふれている。遅くとも9月までには行われる次の総選挙では、民主党が勝つだろう。

日本の言論界がいまさかんに攻撃している、戦後日本のもうひとつの大黒柱は、官僚システムだ。かつては「奇跡の経済復興を主導した、無視無欲で優秀きわまりない日本の官僚」と称えられていた世間における役人のイメージは地に堕ちてしまった。今や世間的イメージでいう官僚とは、私利私欲に走る強欲なエリートで、政策失敗を専門とし、楽で実入りのいい天下りポストを自分にごほうびとしてあげることに汲々としている連中のことになってしまった。

崩れつつある三つ目の柱は、戦後の経済モデルそのものだ。今の日本では、戦後経済の礎となった製造業重視を弱めて、農業重視への転換がさかんに主張されている。たとえば世界は二度とかつてのような消費レベルを回復しないだろうと考える榊原氏は、製造業を主力とする日本はおそらくこの経済危機で最も苦しむだろうと指摘しているのだ。

日本の農業は手厚い保護政策で守られているというのが、一般的な見方だ。けれども日本人は、カロリーベースの食料自給率が40%でしかないことを心配している。民主党は農家補助の大規模拡大や戸別農家主体の農業の産業化推進を主張しており、榊原氏はこれを支持。榊原氏はさらにトヨタ自動車に対しても、自動車産業は今や斜陽産業なのだから、トヨタのエンジニアを使って農業の効率改善に取り組むべきだと説得を試みてきた。「ジャストインタイム方式」で作られたニンジンの時代がまもなくやって来るかもしれない。

世界は今、金融メルトダウンに必死で取り組んでいるし、日本の製造業は受注減の衝撃にさらされている。そういう状況でこうやって日本国内で、のどかな農業社会の幸せや明治以前の古き良き日本についてさかんに取りざたされている様子は、いささかシュールではある。つまりそこからうかがえるのは、これぞというアイディアを懸命に探し求めている国の姿だ。そういう状況だからこそ、半世紀目にして自民党を破る絶好のチャンスが、野党にも巡ってきたと言える。しかしもしも日本の国民が選挙で新しい政権を選ぶとしたら、それは何か新しいものを求めてというよりも、もっと古いものを求めてそうするのかもしれない。


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外国人からみた、戦前の日本人(10)

2011-11-02 21:37:44 | 日記

ぼやきくっくりさんからの記事紹介の10回目です。

メアリ・クロフォード・フレイザー=駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人。1889年(明治22年)に来日。

「英国公使夫人の見た明治日本」より
 1890年(明治23年)に鎌倉の海浜で見た網漁の様子の記述


 美しい眺めです。――青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網をのばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちのまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。……物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちにも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです。施し物の多少にかかわらず、感謝の言葉があっさり、しかもきちんと言われます。そしてたとえ施し物がなくとも、けっして不平を言ったり嘆いたりはしないのです。


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外国人からみた、戦前の日本人(9)

2011-10-30 21:00:00 | 日記

ぼやきくっくりさんのブログからの記事紹介の9回目です。

くっくりさんのブログには戦後も含めた事例が満載ですが、ここでは戦前の事例に絞っています。
やはり、米国の影響下に置かれた戦後よりも、戦前の日本人の姿がより本質に近いと考えるからです。


ディアス・コバルビアス=メキシコ人。天文学者。1874年(明治7年)、金星観測の国際共同事業のために来日。

「日本旅行記」より

 日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである。天皇と女御の間に最初の女の子が誕生した時に取り行われた祝祭行事や、大久保大使が台湾問題で、日本が中国に要求した賠償金を手にして帰還したさいに開催された祝祭、その他にも多くの機会を通して、横浜、神奈川といった人口六万から七万の都市で、国民が、喧嘩も酔っぱらいも何の混乱もなく、照明と花火と、動物に変装した人々の怪奇な無言劇などを楽しむのを目撃する機会にめぐまれた。どの祭り場でも、通りで酔っぱらいに会ったことがなかった。


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外国人からみた、戦前の日本人(8)

2011-10-27 22:00:00 | 日記

久しぶりの更新です。もう少し、ぼやきくっくりさんのブログから、
戦前に来日した外国人の目で見た日本人の優れた資質を伝える記事を紹介します。

ロバート・フォーチュン=イギリス人(スコットランド出身)。植物学者。北東アジアの植物に興味を持ち、中国で植物を集めるために派遣される。その後、1860年(万延元年)に来日。

「江戸と北京」より
 江戸西南郊へ遠乗りに出かけた時の記述


 この時われわれが通ったような魅惑的な道に、私は他の国々を遊歩した際に出会ったことはなかった。それは時折、英国の田園地帯のいくつかで出会った道を思い出させたが、最初は先入見があったにもかかわらず、英国にはこれと較べられるようなものはないと認めないわけにはいかなかった。広い並木道や、松やとくに杉の木立としばしば出会ったが、その木立は道を縁どってすばらしい日蔭をつくり出していた。時折みごとな生垣も目についた。それはときにはさまざまな種類の常緑樫、ときには杉などの常緑樹でできていた。丁寧に刈りこまれ、あるときは、わが英国貴族の庭園でよくお目にかかるヒイラギやイチイの丈高い生垣を思い出させるほど、高くのび揃えられてた。どこでも小屋や農家はきちんとしており清潔に見受けられた。こんな様子はほかの東洋諸国では見たことがない。……風景はたえず変化し、しかもつねに美しい――丘や谷、広い道路や木陰道、家と花園、そこには勤勉で、労苦におしひしがれておらず、明らかに幸せで満ち足りた人々が住んでいる。

 

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