多古 城あと整備日記

13、妙見神社と胤貞公

千葉県 香取郡多古町南中には、分城という城址があります。 千田庄の 千葉胤貞が築城したと言われており、その一角には妙見神社があります。 これは、胤貞公が勧請したとされています。

胤貞公が亡くなられて、そのお墓は(佐賀県?松尾山)光勝寺にありますが、南中の神社にも位牌が納められているといわれています。

位牌は当時の別当坊の徳成寺により、つくられたかと思いますが、今はそれらしきものはみあたりません。



写真の整理をしていたら、社の中を撮った写真が出てきました。

先代の住職が何かしらの写真を撮って、社におさめていたようです。が、写真はカラーだったので、現在では判読できない状態です。 住職は光勝寺にて写真を撮っていたようですが、妙見神社の位牌の写真も撮ってあったのか、定かではありません。

写真は額に入っていましたが、そのふちどりの用紙と、写真の裏面に筆字で説明が書かれています。

「巨栄山徳成寺開基 飯土井城城主 千葉大隈守胤貞公 御徳院殿日叡大居士 建武三年(※1336年)11月29日遷化」と書かれ、

また、押田住職が光勝寺にて、(お墓を?)撮影したということも書かれています。
が、写真は何十年もたち、レインボーのようになっていて、判定は不可能です。

あと位牌っぽいといえば、板碑が一枚あるのですが、文字はすっかり消えていて、木自体は新しく昭和というかんじです。・・・これは最近作りなおした位牌なのでしょうか?

(写真)
これは右側が写真で、額に入っていましたが、カラー写真のため、もう何が映っていたのかはわかりません。 せめて白黒であればと悔やまれます。


これは写真の裏面に記入されたものです。


これも同じものです。(日付が文字にかぶっていたので取り直しました)


右は「昭和五十三年戊午?十一月廿九日 徳成寺??六世 押田勝彦 墓参 ??光勝寺撮影」

左は「巨栄山徳成寺開基 千葉大隅守平胤貞公 ?徳院殿日叡大居士尊儀 建武三年十一月廿九日 丙子?? 御墓 四十九才 松尾山 光勝寺」と書かれています。(胤貞公の戒名がある) 

徳成寺、先代の押田勝彦住職が、光勝寺まで墓参りにいって写真撮影をしたようです。

これは額のふちの用紙です。 「巨栄山徳成寺開基飯土井城々主・・・」 (徳成寺をつくられた飯土井城城主の千葉胤貞公が亡くなられた・・・といったことでしょう)


こちらは社の中に板碑があったのですが、文字はもうないし、殿の位牌にしては安っぽい。木もふるくなく、昭和のものという感じです。 はたして胤貞公の位牌を作り直したものなのか?・・・それにしては、あまりに威厳がないのだが、なんの板なのだろう?


昭和初期の区長から社掌(神官?要確認)への報告では、「社に位牌がある」と報告しているようです。 そのため、町にもその記録が残っていて、町のぶらり散歩パンフレットにも「位牌がある」と記載されています。

一方、現在の徳成寺住職は、先代から位牌のその後は聞いていないのだそうです。 (今しばらくは位牌があるというということにしておきましょうか)

重要な記録の写真が不明では残念なことですが・・・おそらく位牌を写したというよりも、光勝寺の胤貞公のお墓を撮ったものだろうなあと思います。

位牌について私は、位牌はたんに位牌なので、そんなに重きをおいていないのですが、確かに千葉胤貞公の記念碑などはないわけで、証拠のようなものは欲しいです。

まあ、位牌を重要だと思う人は、また別当坊に依頼すればよいと思う。 今度、安置するときは野外の社でなくて、お寺で管理してもらった良いと思います。 地元にいた殿様ということで、記念碑のようなものがあると良いですね。

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