goo blog サービス終了のお知らせ 

丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

大阪万博

2010年10月23日 | 個人史
大阪万博は1970年3月15日から9月15日まで開会された。

ちょうど高校2年の時というので、この年の春の校外学習はここに行く事に。
私服でOKということで、一応派手でない服で、ということだったが、僕は真っ赤なセーターで行って、どこが派手でないのかと散々言われた。

中は自由行動で、集合時間までに指定の場所まで戻れば良いと言う事で、いろいろ行きまくる。
大阪万博で一番人気は「月の石」を展示したアメリカ館で、その次がソ連館。この2館は大行列。大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」だったが、これを皮肉って「人類の辛抱と長蛇」と言った人がいる。名言。

先にも書いたが、地理のN先生はロシア語が得意なので。入り口で係員とロシア語で会話して、裏口から入れてもらったようだ。

ワコール館では「愛」をテーマの映像が流されたが、はっきり言って18禁がつきそうな映画だった。純粋無垢な高校生にはつらかった。

いろいろと問題のある展示館も多かったが、何よりこんなに多くの外人を見る事は大阪では初めてのことでカルチャーショックでもあった。


集合は松下館前の広場だったが、集合時間に行っても来ている人が少なかった。かなりの時間待っていたが、何と、本当の集合場所はちょうど反対側だったようで、時間までに来なかった者を除いて記念写真を撮ったという。
後で見つけられて驚いた。わかりにくい。


万博にはその後数え切れないくらい行った。

外人コンパニオン専用の宿舎が阪急電車宝塚線曽根駅近くにたくさん建てられた関係で、曽根から万博駅まで直通の列車が出されて、これに上手く乗ると、開場直後の万博会場に行けるので、朝一番に行って、即アメリカ館とかに行って、そんなに並ばずに入れた。また、5時すぎくらいにはすきだすので、夕方に入場する事もあった。

万博が終わって、大阪の物価はえらく高くなった。
金銭感覚も変わってしまった。万博での値段が標準に思え出したりもした。


バンビのような女の子

2010年10月16日 | 個人史
高校2年に進級すると、当たり前の事だが下級生が入学してくる。

僕の学年は紛争真っ最中だったので、多くの合格者が他校へ逃げた。
その轍を踏むまいと、合格者を予定より多く取ったそうだ。

しかし紛争が終わった結果、他校へ抜ける合格者がほとんどいなくて、
1学年下は入学者が大幅に増えてしまったとか。

あいにく、僕が入っていたクラブはつぶれてしまったので、下級生とは
知り合うきっかけはほとんどなかった。
まあ顔を知ってる、程度は数人いたが。


その数人の中に、とびきり可愛い女の子がいた。まるで子鹿のバンビのような。

川西の駅から電車通学をしていたが、同じホームでよく出くわした。
当然ながら声を掛ける事など出来るはずもなかった。

その年に僕が引越をしたので、結局は駅では会えないままに終わってしまったが。

声を掛けるのはその数年後の事になる。

僕の学年は紛争の影響もあって、かなりの数が浪人をする。
で、教育実習で高校に来た時、同じ実習を受ける実習生の半数が僕と同じ14期生で、後の半数が15期生という、1年下の者と混合の実習になり、その中にバンビちゃんがいた。
可愛さは相変わらずで、生徒達の中でも評判だった。

同じ実習になって、初めて声を掛けた。川西にいましたよね、と。

その後の事は知らない。

ジローのこと

2010年10月15日 | 個人史
高校2年でクラス替えして、同じクラスになったジローは、おそらく僕の高校生活で一番親しかった奴だろう。

僕の誕生日に、エルビス・プレスリーの「エルビス・オン・ツアー」の試写会の切符があって、誘われて見に行った。エルビスを見るのは初めてだったが、さすがは大スターだと実感した。

見に行く途中に、梅田駅そばにある定食屋に連れていってもらう。当時おそらく大阪一安い定食屋だったろう。TVでも紹介されるほどの店だったが、TVに出たその直後に値上げをした。経営者がいろいろ変わったみたいだが、今でもよく行く店の一つである。

ジローは当時少女雑誌に連載中だった萩尾望都の「ポーの一族」が好きで、それを読むためだけにその少女雑誌を購入していたという。たしかに男性にも評価される漫画ではあったが。ちなみにうちの奥さんがファンで揃えているので全巻読んだが。

ジローは上方落語が好きで、自分でもやっていた。修学旅行の帰りの夜行列車の中で独演会を演じてもらった。「青菜」とか「時うどん」とか、けっこう面白かった。彼の影響で上方落語を聞くようになり、大学時代は寄席にもよく通った物だった。

ジローが入学した大学の落研は、江戸落語を専門としていたようで、残念ながら彼には合わなかったとの事。

今はどこにいるのか消息不明。同窓会の名簿からも消えている。

学食

2010年10月12日 | 個人史
再び高校時代の話に戻ります。

高校には学食があって、弁当を持って行かない僕は3年間入り浸りだった。
たまに気まぐれに弁当を持って行っても、それを忘れて学食で食べてから弁当があった事に気づいてそれも食べたり。

友人Fは学校帰りには夏はもちろん冬も寄り道してアイスクリームを食べていた。

当然ながら安かった。
うどんで35円か。カレーで70円。数量限定で焼き飯も70円だった。
これまた数量限定で日替わり定食もあった。
これは早く行かないとすぐに売り切れてしまう。4限目が体育だった日は絶望的。

いろいろなメニューが日替わりであったが、一番好きだったのが鯨肉の竜田上げ。あまりにも好きすぎたので、卒業最後の学食の日には、おばちゃんが予定しているメニューを変えて僕のために鯨肉にしてくれた。

教育実習で来られた時には嬉しかった。たった2週間だったが、再び学食に通える嬉しさ。
最初は食券の綴りで、事務室で購入していたが、後には現金売りに変わっていた。

ラーメンを初めて食べたのもこの学食だった。

インスタントラーメンは小さい頃から食べてはいたが、本格的中華ソバは食べた事がなかった。ここでラーメンの味を覚えた。

ある夏の日、中華ソバを食べていると、汁の中に赤い物が。
気がつくとどんどん増えていく。何もしていないのに鼻血が出ていた。

昔からよく鼻がしらをぶつけたりで鼻血をしょっちゅう出していたから、対処の仕方は腫れた物だったが、ぶつけてはいないのに鼻血が出てきたのはこの時が初めて。


焼き飯は限定販売で、時々余ったのを半額で売る事もあり、それを狙って焼き飯半分と他のメニュー(うどんなど)を合わせる事もあった。

たまに奇人変人ぶりを発揮して、焼き飯にカレーをかけてもらうこともあった。ルーだけだと半額になるのでこれまたお得。

学食という言葉を聞くと、ついつい反応してしまう。今でも。

「フォークリポート猥褻事件」

2010年08月27日 | 個人史
よく見ると、この事件が起きたのは70年の秋のことだった。
69年の挫折から抜け出せないまま、70年安保が空振りに終わった挫折感がこの事件を産み出したということも言えるので、「69年の挫折」の締めくくりに起きた事件とは言えるだろう。

「フォークリポート」という機関誌は、元々アングラフォークの会員限定の雑誌であって、定期購読申込者に直接配布されていた物だが、URCレーベルのアングラレコードを取り扱う協力レコード店でも販売されるようになって、一般誌と変わらない扱いを受けるようになった雑誌であり、関西フォーク界の現状を語るマニアックな雑誌ではあった。

ちょうどフォークキャラバンが挫折するようになってから、アングラフォークの方向性がだんだんと傾いていった時期であり、そちらの機関誌でもかなり危ない挿絵が入り出したこともあって、かなり猥褻性を意識した流れになっていっていたのは感じてはいた。

そして編集者がアングラフォークの過激な騎手である中川五郎に替わって最初に発行された「フォークリポート冬の号」で、一気に問題が噴出した。

ページ数がこれまでより極端に増えたこともさることながら、いきなり表紙に男女の幼児の正面からの全裸写真が載せられた。これは今でもこのように正面切って表紙に据えている雑誌を見たことがない。店頭に並べられる物ではなかった。

本編のメインの内容では、前年逃亡した高石友也と岡林信康を糾弾するという論説が中心になっているが、それに加えて、まったく関係のない猥褻な挿絵がふんだんに導入された。
漫画家東海林さだおの意味のない、ただ猥褻だけの漫画を初めとして、編集者が創作したのが明かな悩み相談室。そしてピカソの性行為を直接表したエッチングに加え、ジョン・レノンとオノヨーコの正面向いた無修正の全裸写真などなど。きわめつけが、中川五郎本人が直接書いた卑猥そのもののポルノ小説。

警察の手が入るのは早かった。
出版社の在庫をすべて押収。関連レコード店の在庫もすべて回収。定期購読者リストを差し押さえて、定期購読者の家を一軒一軒回って本を回収するという念の入れ方。
猥褻事件としてかなりの部分が該当するとして摘発された。その一覧も持っていたのだが今どこにあるのか不明になった。(中川五郎自身がこの裁判について書いた書籍の中にはあるのだろうが)

しかし、ピカソの絵を訴えるわけにいかず、ジョン・レノンの写真についても国際的に難しい部分があったのだろう。告発されたのは中川五郎が書いた小説のみに絞られて猥褻裁判が始まった。

結果的には、数年後無罪が確定する。時期が早すぎたこともあるのだが、幼児ヌード写真は当時も猥褻性認められない物として認識されていたし、現代ではヘアヌードも解禁されている。また性行為を表現した絵についても、現代では浮世絵などでも堂々と書店で売られている時代。小説に至っては駅売り新聞や週刊誌などの方がより過激。そんななかで、時間が経てばたつほど猥褻の基準が変化してきてしまったといえる。

しかし、アングラフォークのある方向性に対してストップがかけられたことも事実で、この事件以降、アングラフォークが日の目を見ることが無くなってきて、世の中は爽やかな青春や悩みや夢を歌うフォークが全盛となってくる。

僕自身はこの事件がかなりショックで、すっかりアングラフォークの世界とは縁がなくなってしまうのだが。

1969年の挫折

2010年08月26日 | 個人史
アングラフォークの世界にどっぷり浸かっていた僕にとって、衝撃的な4つの事件がまとめて69年に起きた。

1つは、全日本フォークキャラバンの挫折。
先にも書いたことだが、70年安保に向けて、北は北海道から南は沖縄からフォークキャラバンを組んで、東京で最終合流、安保改訂阻止に向けての運動を行おうという動きがあった。評論家のT氏が中心となり、東京ではアメリカのプロテストシンガーのピート・シガーを招いて大集会を行おうという物で、僕も一口乗っていた。
しかし、いよいよ実行に移されようという土壇場になって、アメリカよりピート・シガーが来日しないという正式文章が送られてきた。そしてそれをきっかけに主催者であるT氏があっけなく手を引いてしまった。運動は宙ぶらりんなままで頓挫することに。

過激な政治的内容も含んだフォークキャラバンは、こうして打ち上げ花火のごとく、あっけなく消滅してしまったが、変わって、政治色を一切抜いて、内容もおとなしく単に平和を歌い上げる集会として、70年の大阪万博で全日本アマチュアフォークシンガーズとして大集会が開かれて成功する。内容的には若者達の非力と青臭さを自虐的に認めながらの、大人に媚びを売ったような歌詞内容の「戦争を知らない子供達」が広く歌われた。これが限界だったのだろう。

2つめの挫折は、アングラフォークのみんなが、その旗の下に結集していた高石友也が突如アメリカに逃亡したこと。実際には本当に彼が歌いたかった物がその時に歌っていたものではないというジレンマがあったのかもしれない。
数年後、彼が帰国してのコンサートを聴きに行ったが、過去の歌は一切歌わず、明るいカントリーフォークのみを歌っていた。不満だけが残ったが。
中心人物を失ってアングラフォーク界は騒然とする。彼の名前を冠した「高石事務所」は消滅し、「音楽舎」として生まれ変わる。

3つめの挫折は、やはり中心人物であり、「フォークの神様」と呼ばれていた岡林信康の失踪だった。
曰く、慢性の下痢を治すため、と称して、当時彼と同棲していた女優の吉田日出子と共に蒸発する。
数年後、彼は吉田日出子とは別れ、演歌歌手として再出発。近年原点に立ち返り、TVで原点とする場所でコンサートを行っている映像が流れていた。彼は昔に歌っていた歌も、彼の歌の原点として歌っていたが。

高石友也・岡林信康という二人の巨頭を失ったまま、70年安保は何事もなく通り過ぎていく。

そして、4つめの事件が起きた。
「フォークリポート猥褻事件」である。
この件に関しては次に記載する。

「ジローズ」のこと

2010年08月25日 | 個人史
関西のアマチュアフォークグループに「ジローズ」というのがいた。
杉田二郎、塩見大治郎、細野徹次郎の3人によるグループで、3人とも「ジロー」という共通の名前が入っていたことから命名される。
「あなたの世界」「まま子」などのヒット曲があり、関西では人気グループの一つだった。

フォークルが解散する時、端田宣彦がジローズのリーダーの杉田二郎に声を掛けて新しいグループ「シューベルツ」を結成することにした。実際には端田宣彦がフォークルに参加する時に、1年限定ということで、1年後の解散をめどにあらかじめ準備していたそうだが。
ということで、リーダーを失う結果と成ったジローズは困惑する。
新に「総次郎」という名前を持つ人物を見つけてきて、新生ジローズで活動を続けるのだが、中心だった杉田二郎を失った痛手は大きく、結局解散することに。

グループが解散となって塩見大治郎はあてもなく東京に出てくることに。そこで「ヤング101」結成の話を聞き込み、参加を申し込むが、オーディションはすでに終了していて断られることとなる。それでもあきらめきれない彼は担当者に必死に頼み込んで、追加加入を許されることとなる。
そんな苦労を経て自分の活動の場を見つけた彼だったが、後に番組ゲストにシューベルツがやってきて、杉田二郎と再会した時、番組内では旧交を温める姿が映されていたが、実際にはどんな気持ちでいたのだろうか、TVで見ていて、そんな気持ちを感じていた。

シューベルツが、メンバーの一人が急死するという不幸で解散した後、杉田二郎はフォークルのメンバーだった北山修とともに、1970年万博の全日本フォークシンガーズの企画に参加、テーマ曲の「戦争を知らない子供達」を作って成功させる。そして、自らがその曲を引っさげて再デビュー。「ジローズ」を再び名乗ることになる。
先のジローズとは違って、あえて「ジロー」の名前にはこだわらず、参加者として加わった人物に無理矢理改名させて「ジロー」を名乗らせる。改名させられた当人はどんな気持ちだったのか。グループ解散後、音楽関係で業界に残り、当然のごとく今は本名を名乗っているが。


そういうような裏事情を聞いているせいもあって、端田宣彦や杉田二郎にあまり良い感情を持っていない。

「ステージ101」のこと

2010年08月24日 | 個人史
NHKで画期的な歌番組が始まった。

それまでNHKでは長髪禁止で、紅白に長髪のGSは出場できなかった。出場したのは短髪・背広のブルーコメッツだけ。それ以外でも基本的に歌番組では彼らの出場はなかった。
そんなNHKの英断で、歌の実力はありながらも、商業ベースにうまく乗れない若手歌手達が集められて番組が作られた。スタジオ番号101番で収録が行われたことから「ステージ101」と名付けられ、若者集団を「ヤング101」と呼んだ。

実力は歌手が多い中、そうでもないのも含まれてはいる。いわゆるバーターというか。3人組のフォークグループで、2人はうまいけれど、もう一人はドラム担当で歌は歌っていないけれど、ついでに入り込んだような感じ。そういえば、当時の人気グループでも今でも3人組にそういうのがいる。

実力があるから、当時、ローカル的には名前の知られていた者もけっこう加わっていた。

関西ローカルで言えば、3名がすでに関西では知名度があり、この番組に参加することでようやく全国に知られた者がいた。
一人は小林啓子。関西では「比叡おろし」というヒット曲もあるフォーク歌手。
もう一人は高橋キヨシ。ギターの名手であり、シンガーソングライターとして関西では知名度抜群。「闘牛士の詩」「サバの女王」などのヒット曲もあり、ラジオ大阪でレギュラー番組も持っていたが、番組終了に合わせて東京に進出する。
もう一人は塩見大治郎。初代ジローズのメンバーで、彼については別項にしたい。

実力はあるのに芽が出ない若者を集めたからパワーはいっぱいあった。歌って踊って、たちまち人気番組となる。「ヤング」と言いながらも一人だけおっさんが加わっていた。みんなの兄貴分と慕われ、最初に登場した時は背広に短髪のまじめスタイルだったが、後にポプコン優勝で一気にブレイクする。上条恒彦だった。

当時はNHKと民放での連携ができていないことで、せっかくメンバーの中で民放番組の主題歌を歌う者が出てきたのに、どちらの放送局の歌番組でもお互いのことを紹介しないのでつぶれてしまったのがあるのが残念。

第1期のメンバーに、途中一人の若者が加わる。
NHKでやっていた「あなたのメロディー」という、一般人が作詞作曲した歌をプロ歌手が歌ってくれるという番組で、布施明が歌って優秀曲になった歌を作った若者。彼は自分でも弾き語りをして、その番組の特別編で自作の曲を歌って評判となり、ヤング101に加わった。田中星児である。彼は後に「お母さんと一緒」の初代歌のお兄さんとして有名になる。またビューティフルサンデーのヒットで紅白歌合戦に出場。同じ年の紅白に、ヤング101の1期生で大ヒットを飛ばす太田宏美と共に出場と言うことになる。

メンバーはこっそりと補充がなされ、3期生として数名が加わる。
いつのまにか司会陣の中に小柄な幼い少女が紛れ込むようになる。少女としては異例のシンガーソングライターでアルバムまで発表していた子で、番組終了後に本格デビューをする。谷山浩子である。番組内では自分の歌を歌ったこともある。
余談ながら、数年後、パソコン通信を始めた時に、入会した推理小説フォーラムに彼女が参加していて、チャット(当時はRT(リアルタイム)会議と言った)で直接話をして、ステージ101、見てましたと声を掛けたこともある。

メンバーの脱退もある。
番組の成功に甘い汁を吸おうと思ったのだろう、作曲家のいずみたくが、自分の弟子の若者を集めてグループを作ろうと計画する。「いずみたくシンガーズ」という。そのために中心メンバー数名が脱退する。
このグループ、TV番組主題歌を1曲歌ったが、その後の活動は知らない。いずみたく自身が亡くなったので消滅したのかも。

第4期、5期ぐらいまでは加入があっただろうか、番組が終了して、知名度ができた者はそれぞれ自分たちで活動の場を見つけていった。
番組内4人の男性実力派は「チャタラーズ」というグループを結成、アニメ主題歌を歌ったりする。上条恒彦はミュージカルで評判に。1期生の温碧蓮という女性は、駆け出し俳優の津坂正章と結婚、ちなみに、津坂正章は番組改編期に、局が力を入れる、秋の大作に出演させるのをきっかけに改名して、そのまま秋野太作と名乗る。
一条みゆ希はアニメの声優として今も活躍している。

「ステージ101」という番組名は無くなったが、「ヤング101」というグループは後にも継承された。NHKとしては由緒ある名称だろう。

近年、ステージ101の同窓会が開かれたそうで、その時のCDが発売されている。歌声はもうすっかり若くなくなってしまったが。

写真集「12歳の神話」

2010年08月24日 | 個人史
高校生向け雑誌に画期的な写真集の紹介記事が載せられていた。
「12歳の神話」と題された少女ヌード写真集だった。
まだ大人になりきっていない12歳の少女が明るく健康的にその裸体をさらけ出した写真集はかつてない社会現象を引き起こした。
TV等では好奇心一杯に話題性だけで注目が集められ、少女ヌードという新しいジャンルが芸術性から猥褻性まですべて含めて取り上げられた。
当時は裏本の世界以外で少女ヌードが出回ることはなく、警察の目を逃れての物しか出ていない頃、規制もきびしく、ヘアヌードなどは当然取り締まりの対象であり、ましてや少女の裸が公然と出回ることは無かった時代。

ここに抜け道を見いだした商業主義の大人達がいた。
陰毛がわずかでも見えていれば写真集や映画でも規制の対象だったが、まだ陰毛が生えていない少女なら性器の露出も規制の対象にならないということを知ってしまった。何しろ猥褻というのは、性行為をイメージさせる物が対象であって、完熟した大人の女性の性器なら規制の対象となり、それを覆う陰毛も取り締まられていたのだが、少女となると規制にひっかからなかった。
そして、この写真集をきっかけとして、巷では幼女のヌード写真が頻繁に出回ることとなる。

一番迷惑を被ったのがこの本家の写真集だったろう。被写体本人はまだ少女というのにいちやく後期の目に晒されることとなって、この写真集自身が封印されることとなる。

それから10数年後、この写真集が再刊された。
「12歳の神話」「エウロペ・12歳の神話」という2冊の分冊となって再刊される。当時少女だった子が成長し、結婚して一般主婦となったことでようやく日の目を見ることとなったのだろう。

10数年間、高校生雑誌に掲載されていた1枚の写真がずっと印象強く残っていて、その懐かしさで2冊とも購入した。その中から抜き出した写真と共に文章を加えた文庫タイプの本も出ていて購入する。世間の流行とはまったく縁遠い、芸術性ゆたかな写真集だった。

中学高校生向け本格小説月刊誌

2010年08月23日 | 個人史
中学生・高校生をターゲットとした本格的な小説専門月刊誌というのが刊行された。「小説エース」という雑誌だった。

中学から引き続き学研のコースを購読していたが(後述するが、1月だけ抜けているが)、そこでの宣伝や本屋での宣伝で、一流作家の執筆陣による本格小説雑誌の創刊ということで、購読をすることに。眉村卓をはじめとする蒼々たる執筆陣で、決して中高生向きだからと言って手を抜かない内容だった。実際、この雑誌に連載された小説が単行本・文庫化されて(一部手を加えて修正されたのもあるが)今でも書店に並んでいる。

しかし売れ行きが悪かったようで、三ヶ月で内容変更の憂き目にあい、大幅変更された月を最後に廃刊となり、「ヤングエース」と名を変えて青年向けの雑誌に方向集成された後結局つぶれてしまった。

後に出版態勢という物を知るようになる。
創刊された雑誌や、新規に連載されたコミックや小説は、3号までは続く物だと。創刊号・第1話の評判などすぐにわかるものではなく、出版された時点で第2号・第2話の準備が進められている。評価がわかるのは第2号が出版された時で、その段階で次の号の準備が進められているからそこでストップはかけられない。廃刊や連載打ち切りが決定するのはその段階であって、その時点では第3号や第3話は既定事実として進められてしまっているから止められない。したがって、その段階で打ち切りが決定するから、雑誌なら第3号が最終号。それ以上続けばなんとか出版のめどがたっているもの。連載コミック・小説なら、第4話以上続いているなら評判は上々ということなんだろう。まあ中には編集者が、たとえ評判は芳しくなくてもぜひとも続けたいという熱意で続く物もあるだろうが。だからコミック作者は3話までは用意していて、その段階でいつでも終われるようにしているとか。