丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

池田市立K小学校のこと

2009年01月30日 | 個人史
幼稚園を卒園して、同じ敷地内にある小学校に入学する。3年になる時に転校したので在学したのは2年間だけ。校庭は低学年が見てもそんなに広くはない。1年生は4クラスだけ。兄の学年も4クラスだったから全体的にもそんな構成だったかも。たしか50人学級の頃だから最大でも1学年200人以下か。

僕は1年4組だったのだが、後に知ったことでは、後に同僚となる(しかも同じ学年集団の)先生2名が同じ年に入学していて、1名は1組、1名は3組だったという。この小学校をきちんと卒業したのは一人だけなのだが。

入学して最初にクラス写真を3カ所で撮っている。校庭と、正門前と、ジャングルジムでの3カ所。ちなみに高所恐怖症なのでジャングルジムでは上に上れなくて1段だけ上がったところでぎりぎり顔を出している。
ちなみにこの小学校在学中で僕が持っている写真はこの3枚しかない。

この学校では1年と2年は持ち上がりでクラス替えも教師の交代もなかったので同じメンバーで2年間過ごす。ただし担任は途中産休で1学期間は休まれたのだが。
ちなみにこの担任の先生は高学年の家庭科も受け持っていて、兄のクラスも教えていた。

K小学校在学時の思い出については項目を変えて。

幼児期の映画体験

2009年01月24日 | 個人史
人生初めて見た映画は「喜びも悲しみも幾年月」だったと思う。ほとんど記憶がないけれど、嵐がやってきた場面がすごく怖くてそのシーンだけが鮮明に覚えている。

ディズニーの「わんわん物語」も見ているはずなのだが、なぜかこちらはまったく記憶にない。

昔の映画は上映時間が1時間程度の物が多かった。特に毎月連続上映なるものもあって、1時間番組が毎月連続される。当時やっていたのが山城新吾主演の「風小僧」。
これはTVで連続ドラマとしてやっていて、こちらは主人公が大人なのだが、映画ではその主人公が少年時代のエピソードということになっている。どちらが先なのかは知らないが、おそらくはTVシリーズが先で、そのビギンズ版として映画が出来たのではないかと。こちらでは山城新吾は主人公の少年を助ける脇役になっているが実に格好良かった。
実は第1話を見逃していて、兄たちは見ていたのだが、僕は翌月の第2話から見ることになる。後にTVで1時間の映画を半分に切った30分の連続ドラマとしてやったので、見逃した分もしっかり見ることができたのだが。
当時は映画料金なども知らないから、ある日兄に何かのおつかいを頼まれて10円渡されたのを、しっかり映画を見るためのお金だと思いこんで映画館にその10円だけ持って行ってしまった。映画館ではおそらく困惑したと思うのだが、「もう終わってしまった」と言われて入場できなかった。幼児を傷つけないうまい断り方だったのだろう。いくら昔でも10円で映画が見られるはずもないことをかなり後に知ったのだが。

幼稚園時代

2009年01月22日 | 個人史
幼稚園でのできごとは他にはあまりないのだが、幼稚園時代のできごとを少々。

今の時代なら幼稚園児はお母さんが送り迎えするのが当たり前みたいだが、僕の時代にそういう風景はほとんど見られなかった。余裕のない時代でもあったり、危険が少ない時代だったからかもしれないが。
朝は兄が小学生だった関係もあって、同じ敷地ということもあって兄と一緒に出かけてはいたが、帰りは一人で帰っていた。時には友だちの家に寄ったり、市場に寄り道をしたりとかも。道路も今のように車はそんなにも通っていなかったし危ないおじさんもいなかったし。

おたふく風邪にかかって休んだこともある。まあこれまでにいわゆる伝染病にはほとんどかかったようだ。はしかも小学校の時にかかっているし、風疹は教師になってから職員室で大流行したときにうつっているし。伝染病ではないが盲腸についてはまあ長い話があるので後述するが。免疫ができる伝染病は早い内にかかった方がいいということで、あえて病気の人の所に近づくなんてことも世間では普通に行われていた。

幼稚園を休んだことで、病欠以外に1日だけ突然欠席したこともある。
町内会の社会見学で牛乳工場への見学会があって、当日の朝に参加することにしたことがあって、幼稚園に連絡のしようもなくて無断欠席。そういえば、昔は電話のある家なんてほとんどなかったから、学校や幼稚園の連絡なんてどうやっていたのだろう。無断欠席なども多かったのかもしれない。

大やけどをしたのも幼稚園時代だと思う。

ある朝、朝食をみなでとっているとき、お茶を飲もうとしてやかんをまわしてもらったのだが、やかんが熱すぎて落としてしまう。ちゃぶ台でやかんがひっくり返り熱湯がこぼれてしまい、正座していた半ズボンでむきだしの両足の上に流れてしまった。浅く座っていたからお腹にはかからなかったのだが両ひざがおおやけど。すぐに大きな水ぶくれができてしまった。
兄が大やけどした時で対処法を家族が知っていたから、ただちに手当をして大事にはならなかったが、かなりの期間ひざにはケロイド状態の痣が残ることに。

あと怪我と言えば、蜂に刺されたのもこの頃かも。ある夏の日、半ズボンの膝に変な感触があるので触ってみると蜂がそこにいた。あっと思った瞬間チクッと痛みが走って見事に刺されていた。何もしなければ刺されていなかったのかもしれないが。
数年後にもう1回蜂に刺されたこともある。家の裏に蜂の巣ができていて、駆除している最中に刺されてしまった。どちらも普通のミツバチだからよかったけれど。

幼稚園

2009年01月18日 | 個人史
幼稚園の通園期間は小学校就学前の1年間だけ。まあ団塊の世代の直後で子どもの人数は爆発的にも関わらず受け入れる箱が少なかった時代だったし、複数年通える保育園などには経済的にも行けるはずがなかった。

池田市立K幼稚園は、同名の小学校の敷地の中にあった。配置図を述べると、
北側に塀が続いていて、中央やや東寄りに小学校の正門がある。そこから入ったすぐ東側に入学式や発表会、講演会が行われる講堂が建っている。東の端に突き当たって、渡り廊下が東端に続いて、「ボーン校舎」と呼ばれる木造2階建ての校舎があった。南側にたぶん4階建てだったと思うが鉄筋の校舎があり、その中央付近で南側の通用門が隠れていた。南側西寄りに15mのプールがあり、プールに面して幼稚園のクラスがあった。西の端は幼稚園用の遊具施設があったと思う。そして通用門を置いて西側に一番古い校舎が南端まで建っていた。

幼稚園は紅組・白組の2クラス。各担任教師と主任教師、園長先生の計4人の先生がいたと思う。
1年間だけの通園期間という物は、行事に対して慣れがない。たとえば誕生会が毎月あるのだが、4月生まれというのは損なもので、どうして良いかわからないままで過ぎてしまった。最低2年いたのなら翌年にはどう行動して良いかわかったのに。行事全てが初めてのことばかりなのであせることだらけ。結局何をやって1年過ごしたのかほとんど覚えていない。

市内幼稚園合同の音楽会というのがあった。幼稚園別に発表があるのだが、このときだけ紅白のクラスの垣根を越えて合同練習があった。僕は園全体で2名だけのシンバルの係になった。この時以来パーカッションとの関わりがけっこう強い。

運動会や学習発表会などは小学校と一緒だった。同じグラウンドや講堂を使って同じ日にやっていた。

幼稚園の思い出でどうしても忘れることのできない記憶がある。ある意味トラウマになっているのだが。

学習発表会の練習の時だった。みんなで講堂に行ってレコードに合わせてお遊戯をするのだが、その移動の時、先生が持っていたタンバリンを引ったくって駆けだしたとき猛烈に怒られてしまった。
タンバリンの中にレコードの針が入っていて、それをぶちまけてしまったのだった。

昔はレコードというのを使っていた……などということぐらいは誰でも知っていることだが、当時はレコードをかけるのに、1回毎にレコード針を交換することを知っている人がどれくらいいるだろうか。後には「ダイヤモンド針」というのができて、ほとんど交換の必要がなくなったのだが、昔は針は消耗品であり、1枚かけるとすり減って使えなくなるのだった。だからレコード針のセットというのがあって、100本くらいの単位なのだろうか、画鋲入れのケースのようなものにたくさん針を入れていた。

そのケースをタンバリンに入れて先生が持っていたのだが、それを知らないでタンバリンを奪い取って叩いた物だから、針がすべてこぼれてしまって、プールサイドにぶちまけてしまっていた。先生にきつくしかられ、すべて拾い集めるように言い渡され、とりあえず拾える分だけの針を持って先生は行ってしまった。

レコード針の大きさは想像がつくと思うのだが、広範囲にばらまいた針を拾うのは砂浜で石ころを集める作業とほとんど同じ。泣きながらいつ終わるともわからない作業をたった一人でやっていた。すべて拾えるはずもない。どれくらいの時間がたっただろうか、自分にとっては永遠の時間にも思われた後、ようやく先生が迎えに来てくれた。もちろんすべての針を拾えたわけではない。

幼稚園の思い出というとこれがすべて。後は何も思い出せない。

外食

2009年01月06日 | 個人史
貧乏だった我が家では外食するということは滅多になかった。
ちなみにサザエさん等のマンガでは店屋物をしょっちゅう取る場面が出てくるが、そういったことも大人になるまではほとんどなかった。出前を取るなんて究極の贅沢でしかない。

そんな我が家でも、正月は初詣に出かけて、その日だけは外食を行う。まあ夜遅くに帰ることになるからしかたがないことだが。
一番多く行った店が中華料理店。大阪人では「551」だけで通じるナンバ蓬莱。いろんな支店があるがここが一番多かっただろう。中華料理だからテーブルに乗せて回して取る。たいていメニューは決まっていて、酢豚、肉団子、小エビの天ぷら、春巻きなど。かなり後にはチンジャオロースがこれに加わる。人数が多いから中華料理が一番分けられて食べやすいことがあった。

父は夏には必ずキリンのビール。銘柄指定で、キリン以外は飲まない。だから必ず注文前にキリンがあるかどうか尋ねる。ある時は確認したにも関わらず別の銘柄が出てきて突っ返したこともある。キリンが無いときは生ビールにする。正月だと日本酒を2合。これは銘柄にはあまりこだわらない。甘口でも辛口でも。ちゃんぽんは絶対にしない。

百貨店の大食堂に行ったときもあるが、人数のテーブルが確保できないから滅多に行かない。

ある時に大阪市内の某料理屋で(某どころか、どこに行ったのか名前も知らないが)すき焼きを食べようと言うことで入ってはみたが、入ってから値段がめちゃくちゃ高いことがわかって、険悪な雰囲気に。で、入ってしまったから仕方がないという母に対して、嫌だったら止めたらいいという父とで喧嘩が始まって、店を出ることに。店の人はおろおろしていたが、上等のすき焼きを食べ損ねたことだけが印象に残っている。

謹賀新年

2009年01月01日 | お知らせ他
明けましておめでとうございます。

今年こそは、30年あたためている小説をアップする予定です。
温めすぎて腐ってはいますが、そんなのが3本くらい。10年温めているのが2本。個人史もどっと書いていくつもりです。