丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小学4年生……教室がない!

2009年05月31日 | 個人史
思えば小学3年生はいろいろな出来事があったのだと感心した。書き抜けているのもあるかもしれないが学年を上がることにする。

小学4年生。マンモス校でとうとう教室が足らなくなった!

割を食ったのが僕のクラス。4年生の2クラスが小学校の校舎から追い出されることになった。

当時川西市には公立・私立を含めて高等学校が一つもなかった。唯一あったのが定時制高校。それが小学校の敷地内、運動場をはさんだ反対側に定時制高校の校舎が建っていた。そこの2教室を借りることになった。後にも先にもこの1年だけのことだった。音楽の授業で木琴を使うときには音楽教室から木琴を運び出して運動場を横切ることも。

高校の教室だから机も椅子も大きかった。おまけに人数が違うから机の配置が違うので毎日清掃時に机の並べ替えをする。置き勉はできない。学用品はすべて毎日持ち帰ることに。

そういうことを除いては特に困ることはなかったが、なんとなく割を食ったという思いだけが今でも残っている。

まくり

2009年05月26日 | 個人史
小学校3年の思い出を一つ思い出しました。

昔の子どもはお腹に回虫を抱えていることが多く、定期的に虫下しを飲んでいた。海藻を煎じて作った「まくり」という飲み物が効果的な虫下しの薬ということでよく使われていた。とにかくめちゃくちゃまずい飲み物だった。

僕が初めて口にしたのが3年生の時だった。噂には聞いていたけれど、これほどすごい物だとは思わなかった。煎じて暖かいまま飲むのだが、まず臭いがきついし味もめちゃくちゃまずい。とても口にできる物ではない。よく青汁がまずいとか言われているが、そんな比ではない。コップ1杯分配られるのだがまったく口に出来なかった。冷めるとなおさらまずくなると言うしろもの。とうとう冷め切ってもそれでも一滴も飲めなかった。結局許して貰ったけれど。

後にも先にもこの1回だけ。翌年から「サンチョコ」という名前のチョコレートに替わった。これはチョコレート味でオブラートされているので口にしやすかった。


内緒の余談。
先に書いたUさんの話。ネットで引いてみると公式プロフィールで年齢詐称していることが判明。僕と同級生だったので当然正しい歳を知っているが芸能人らしくしっかりサバを読んでいるようだ。芸能人ってすべからくこんなものか。ましてや宝塚は年齢不詳になっているからそういうことにするのかも。

レコードと坂本九

2009年05月24日 | 個人史
小遣いは週給で100円。
少年サンデーを買ってしまえば後はほとんど残らない。ちなみに切り詰め生活は社会人になるまで続いた。
当然レコードなど買う余裕はまったくない。

年に一度、お正月にお年玉でレコードが買えた。毎年初詣に出かけたときに繁華街によってレコード店に寄るのが年中行事になった。
生まれて最初に買ったレコードが坂本九の「ボクの星」だった。坂本九のファンでなかったら知らないマイナーな曲だろう。
毎年い1枚ずつ買ったレコードはその後、坂本九「僕と今夜」、ジャニーズ「いつか何処かで」、ダークダックス「素晴らしい明日」(なぜかサイン入りだった)、加山雄三「俺は海の子」
実にマイナーな曲ばかりだったような。

中学生になると小遣いは月1000円にアップされた。なんとかレコードも買えるようになったけれど、それでも好きなだけ買うことはできない。一番仲の良かった友人がアングラレコード友の会に入会して手に入れたレコードを一緒によく聞いた。後に僕もひょんなことから会員になり、月報が毎月送付されてきたが、ある時に猥褻雑誌摘発事件が発生して、そこが発行していた月刊誌が回収処分になり定期購読者の家に警察がやってくるという事件が発生、かなりな大騒動が起きて、いろいろ盛り上がったがその事件をきっかけに友の会は消えていく結果になる。
ちなみにその問題雑誌、なぜか僕の手元にある。いやなに、定期購読できるような財政状態でなかったことが幸いし、発行のたびにレコード店に直接買いに行っていたから、出版社の定期購読名簿に名前がなかったという話。
まあ摘発はかなりの政治的な問題がらみということで、数年後裁判では無罪判決が出て確定しているが。

LPレコードが買えるようになったのは高校生以降だろう。寺内タケシとバニーズの「レッツゴー運命」とか。
当時欲しくても買えなかったレコードがたくさんあって、社会人になってようやく買えるようになったが、当然もう発売されていないレコードも多い。もっともCD化になった曲も多いので逆に良くなったこともあるが。

坂本九のレコードは後LPを1枚買っただけだった。

そして忘れもしない日航機墜落事件。

彼の死が確定した後、たった1枚のLPレコードをかけながら泣いていた。

彼の死から9年後、ファンクラブ限定の9枚組CDメモリアルボックスアルバムが製作された。限定999999セット。僕はファンクラブには入っていなかったが、行きつけのレコード店で見つけて購入した。番号000068番。坂本九ファンならわかるめちゃくちゃ縁起の良い番号。宝物である。

先年、TOKIOの山口達也が坂本九に扮して彼の生涯を演じたドラマがあった。ラスト飛行機に乗って出かけていく場面では、ドラマではありながら、もう変えられないさだめと判っていながら、その飛行機に乗らないでくれと画面に向かって叫んでいる自分がいた。

最近は昔は買えなかったレコードでCD化されていない曲でもインターネットで買えるようになっている。便利な時代になった物だ。

創作始め

2009年05月20日 | 個人史
絵を描くのが苦手にも関わらず、どういうわけか漫画を描いたことがある。
広告の裏を使って、月光仮面とスーパーマンが協力して悪人と戦うというストーリー。スーパーマンが登場しているのだからTVが家に来てからのことだと思う。
絵はめちゃくちゃ下手だから今描いたとしても同じような絵になるだろう。月光仮面が乗るオートバイまで描いていたのだから今よりもすごいのではないか。

漫画を描いたのはこの一度だけだが、小説はこの頃から書き始めていた。
少年ジェットやまぼろし探偵などが好きだったので、同じような少年探偵が活躍する「ふしぎなZ」という小説を書いて、近所に住む1歳年下の当時一番仲の良かった友だちに見せていた。挿絵付きで書いていたから立派な物。今でも内容は覚えているが、その友人が転居してその小説は日の目を見ないまま消えてしまった。

3年生の時にはクラスの新聞係になって、創作話を連載もした。物事始まり話のでたらめ版で、読者のことは気にせずに毎回連載で書いていた。

後の話になると、手塚治虫や石森正太郎に影響されてSFにはまって、サイエンス・フィクションやスペース・ファンタジー物も書いたり、白土三平や横山光輝の忍者物にもひかれてそういう類のプロットを考えたりもしたが、宇宙物では年代記まで作ったけれどペン興しはできないまま、プロットをノートに書いたのを残してはいるがこちらは書けずじまい。SF物はいくつかは短編物に書き上げてアップしたけれど、まだ残っている物もある。後日書くことになるだろうが。

中学時に、やはり新聞係で特別号で初回兼最終回という遊びで書いた物が一部で好評だったため書き続けて、こちらは原稿用紙100枚を越える小説になってとうとう終わらなかった。やはり少年探偵の物語だったが、この頃「中一コース」の付録に付いていた純愛小説にばっちしはまってしまって、それ以降純愛小説を書き始めることになる。書きたい内容の小説を思いつくと、プロットだけで分量を予測してふさわしいノートを買ってきて書き綴る。ほとんどぴったりの長さで書き終わる。
一番気に入っていた小説は先生に預けたまま返してもらえなかったので手元になく、ある程度内容は覚えてはいても詳細を忘れてしまったので復刻できない。

本格的に小説を書いてみようと思ったのは、パソコン通信の「推理小説フォーラム」に入会してからになるが、この話は書くことはないだろう。

小説執筆に当たり、ペンネームをいろいろ考えたが、一番よく使っていた名前は現在パスワードに利用している。2番目に使用していたのが現在のハンドルネームになっている。ということで、自分の分身が主人公になって出てくる小説の主人公の名前は最初のペンネームなので、すべて書き換えないとまずいので書き直してからアップする予定。

NHK児童劇団

2009年05月19日 | 個人史
NHKの児童劇団を受けに行ったことがある。
別に本人のたっての希望というのでもなく、たまたまそういう募集があったから受けてみようかというだけの軽い気持ち。
NHK大阪に行って、まず原稿を貰う。いくつかセリフが書いてあった。本当はテスト本番までに覚えるべきだったのだろうがそこまでする気はなかった。朗読くらいなら得意と言うこともあったし。
テストは軽くセリフ読みと後は面接と。家族構成を聞かれたが、当時兄弟関係で複雑な関係を知り始めたところだったので、ちょっと答えにとまどってしまった。そのことがたぶん原因だろう、見事に落ちてしまった。

別に落ちたからと言うわけでもないが、当時横分けにしていた髪の毛を切って形を変えた後、民放の児童劇団から受けてみないかという連絡が来た。NHKを落ちた者に声を掛けているのだろう。余裕もなかったこともあって今度は受けなかった。

その時に応募したときの写真が今でもアルバムに残っている。

夏休み子ども劇場

2009年05月18日 | 個人史
僕と同時代に関西で子ども時代を送った人は全員、洋菓子のパルナスのCMソングが歌える。さらに言えば、まだ見ぬロシアのお菓子ピロシキにかなりのあこがれを抱いた物だ。
最近発売されたCD、電機メーカーとかのCMソング集に、関西限定でパルナスのCMソングが挿入されていた。

どういうことかというと、夏休み子ども劇場のスポンサーがパルナスだった。だから当時の子供達はこのCMソングを毎日聞いて夏を送っていた。

ちょっと見損なった子ども番組などがこの時間に大量に再放送されていた。
実写版の鉄腕アトム、月光仮面、少年ジェット、七色仮面、アラーの使者、劇場映画の遊星王子などなど、繰り返し繰り返し放送されていた。
少し時代を過ぎるとアニメも再放送され、風のフジ丸、狼少年ケン、など初期の伝説的アニメも何度も繰り返し見た。

昔はスポンサーとのタイアップ作品が多く、風のフジ丸は元々白土三平の風魔小太郎という漫画なのに、藤沢薬品がスポンサーだったために名前が変えられた。七色仮面はスポンサーがカバヤ食品なのでパイナップルの仮面だった。

昔はTV化以前に雑誌掲載時にスポンサーがつく作品もけっこうあった。
ハリス食品がスポンサーになった「ハリスの風」とか、アニメにはとうとうならなかったが薬品メーカーがスポンサーだった「電人アロー」という正義の味方の乗り物はそのメーカーのシンボルマーク型の乗り物だった。
ドラマの「とんま天狗」は主題歌にあるように「尾呂内なんこう」という名前だし。
「日真名氏とびだす」ではCMがドラマの流れを切らないように、CMタイムになるとドラマ出演者がセット場に作った薬局に立ち寄って製品の宣伝をさりげなくやっていた。

アニメの登場人物がCMに出演し、そのアニメの中でも現実にCMに出ていることを物語の中でも加えたのは巨人の星が最初かも。

NHKのこども番組

2009年05月18日 | 個人史
TVが我が家に来た当時、NHKの子ども番組はけっこう充実していた。
やっていた有名番組は「チロリン村とくるみの木」今では伝説かも。トットちゃんの本を読むと、某有名人の偉い方が、本物の子どもがやっていると思い込んでいたとか。僕が見だしたときは、村長さんががんこさんに替わるちょっと前くらいだったか。好きだったのはいつもお腹をすかせていたペコポンというキャラ。以来ペコポンが口癖になっていた。
当然ながらその後番組だった「ひょっこりひょうたん島」は第1話からリアルタイムで見ていた。画期的なミュージカル人形劇だったと思う。

いろいろな声の出演者がいて、今でも何人かは健在。ちょっとした声優ブームだったかも。

当人達が出る子ども番組もけっこうよく出来ていた。熊倉一夫やはせさんじ、沼田漠に高見映など子どもには印象的なキャラが多かった。当然ながら高見映は後ののっぽさん。昔はしっかりセリフをしゃべっていた。民放だが後にシェリーというハーフの少女が主人公の「オズの魔法使い」でのっぽさんはそのまま「かかし」役だった。セリフもちゃんとあった。だから言葉を発しないのっぽさんしか知らない人が多いけれど、昔は普通にしゃべっているのを知っている世代にとっては逆に奇妙に感じたり。余談ながら高見映さんは最近は高見ノッポと名前を変えたみたい。

NHKに戻って、黒柳徹子が進行役をやっていた「魔法のじゅうたん」も印象的。クロマキーをふんだんに使って「二重ショー」とか今だとみんな知っている技術を使っての番組作りは見事。最終回ですべてのネタ晴らしをやってくれた。
口だけ本物と同じ動きをする人形がいて視聴者は不思議がっていたが、タネは実際の人間が反対向きに寝転んで顎に目や鼻を書き込んでいたという。演じていたのは後に大河ドラマで一躍人気者になる米倉斉加根という役者。

少年ドラマシリーズも昔からあった。
当時やっていたのが手塚治虫原作の「ふしぎな少年」。時間を止めることができるようになった少年の冒険譚。それから続く少年ドラマシリーズは絶えず話題作品を提供していったように思う。

お母さんと一緒のまだきちんとしていない時代だったが、僕の世代で伝説の人と成っているのが初代体操のお兄さん砂川啓介。奥さんは当時まったく無名だった女優の大山のぶ代。ちょろちょろと大山のぶ代がドラマに出だした頃に、実は砂川啓介の奥さんだと知れて評判になった。後に江利チエミ主役の実写版「サザエさん」で本物の夫婦役で出演したこともある。
まあ僕の世代では未だに砂川啓介と言えば体操のお兄さん。芸能人のスポーツ番組でも審判は必ずこの人だった。

TV創世時代、アメリカドラマ

2009年05月13日 | 個人史
TVの初期時代アメリカからの輸入物が多かった。当然すべて吹き替えなのだが。

まず西部劇。
ローハイドはあまり見ていない。ララミー牧場の方が多かったか。拳銃無宿の
スティーブマックイーンが格好良かった。僕はむしろライフルマンの方が好みだったが。ボナンザも好きだった。後にカートライド兄弟と題名が変えられたが、すべて母親が違う3兄弟と父親の男4人の旅物語。子ども向きには名犬リンティンティン。ローンレンジャーというのも異色だった。当時は悪役だったインデアンを相棒にして戦う仮面のガンマン。後に日本で白馬童子という時代劇に移植されるのだが。保安官ワイアットアープとかアニーよ銃を取れなど一気に西部劇有名スターがお茶の間に舞い降りた感がある。

ホームドラマ。
ラッシーは一回も見なかった。パパは何でも知っているは我が家にTVが来たときにはやってなかった。ブロンディーは新聞4コマにあったそうだが後にTVで見ることに。ルーシーショーは知っている。アメリカのホームコメディーは、観客の笑い声が入ってくるのが特徴で、今でもその手の手法は日本のバラエティーで残っている。進歩がないというか。
かなり後にはしゃべる馬のエドとか、おなじみ奥様は魔女とか。

その他
スーパーマンは印象的。今では電話ボックスも少ないが。三バカ大将というのも印象的。アメリカでも裕福な人ばかりではなかったのだ。
初期のTVですごく印象が強かったのがSF物。ミステリーゾーンは1話完結ながら毎回どきどきして見ていた。原題がトワイライトゾーンとかで、アメリカ人もどきどきして見ていたそうで、その中の一人がスピルバーグだとか。

アニメ
ポパイとかミッキーマウスとかバックスバニーとか、今でも有名なキャラが一気にやってきた。アンディーパンダはマイナーだが、中国からパンダが来るずっとずっと前からパンダという名前はアニメで知られていた。
毎日5分間の連続アニメがあって、フィリックスちゃんとかベティーちゃんとか毎ティー・ハーキュリーなどをやっていた。
またグループものとして名犬ハックルベリーとかクマゴローとかもなつかしい。

TVがやってきた

2009年05月11日 | 個人史
とうとう我が家にTVがやってきた。小学校3年生の時。

過去、一週間だけTVがあったときもああったけれど、父がローンを払えずに没収になったいきさつがある。当時は近所に見せにもらいに行ったことも一度だけある。月光仮面をやっていた。隣の祖父の家にもあったけれど、正月に行くくらいで、その時には正月の団らんでTVをつけていないことも多かったから、ほとんどTVの記憶はない。

ということで、比較的遅くTVがやってきたために、見ることが出来なかった有名番組も多数ある。月光仮面をリアルタイムでは見なかった。これは後に何度も再放送されたからまあいいが。ナショナルキッドや海底人ハヤブサも見れなかった。矢車剣之助や神州天馬侠も見ることがなかった。ホームドラマではバス通り裏も見ていない。

TVが来てまず見たかったのが、始まったばかりの国産アニメ第一号の鉄腕アトム。アトムの両親が誕生する回だったのを覚えている。初めて見たアニメに非常にショックを受けた。それまで雑誌で見ていたから頭の中ですでに声ができていたのに、まったく違う声だったから。まあこれは仕方がない話。これ以降何度も声のイメージが違うことに泣かされる。

TVが来たときにすでにやっていた番組。つまり途中から見た番組もいくつか覚えている。怪傑ハリマオとか日真名氏飛び出すとか。口笛探偵長などというマイナーな番組もあった。外国ドラマについては別項とする。不思議な少年という手塚治虫原作のドラマもあった。

その後ハリマオの後番組だった恐怖のミイラは実に恐かった。好きだったのはピロンの秘密という少年物ドラマ。風雲まぼろし城だったか、城主の息子が遍歴するドラマもお気に入りだった。

ホームドラマで一番最初にのめり込んだのが「チコちゃん日記」という柴田美保子という当時高校生くらいの少女が主人公のドラマ。確かバス通り裏の後番組。それまでドラマは役者が演じる物という冷めた目でドラマを楽しんでいたのが、ドラマの登場人物が意識の中に住み着きだして一体感を覚えるという経験を初めて感じた。

その他思い出のTV番組に関しては別項で書いていきたい。

将棋倒し事件

2009年05月09日 | 個人史
小学校3年生では新聞はラジオ版しか読まなかったので知らないが、おそらくは新聞記事になっていたのではないかと思われる事件が起きた。

K小学校では週に1時間、学年体育という時間が設けられていた。普通体育の授業はクラス単位で行われる物だが、週に1時間は学年全体で行う時間があった。運動会の直前などはそういう時間が有効になるのだが、運動会が近づいていたある日にその事件が起きた。

3年生の学年体育が時間が延びて休み時間に食い込んでしまったのだが、その次の時間が4年生の学年体育だった。ようやく体育の授業を終えて教室に戻ろうとする3年生の集団と、これから学年体育に出るために着替え終わって降りてくる4年生が中央階段で衝突した。古い校舎で階段も伝統の重みがありそうな中央から上って踊り場で左右に分かれている比較的広い階段ではあったが、全校生徒2000人を越えるマンモス校に2学年が一つの階段に上下から集中した。降りてくる勢いが4年生だけにややまさって、3年生は足は上ろうとするが上体は押されて後ろ身倒れ込む状態になり、見事に将棋倒し状態が成立した。3年生は改題で後ろ向きに倒れる態勢で、その上に4年生がのしかかる状態で、まったく身動きできない状態になってしまった。僕もその中に巻き込まれていたが、何となく愉快な気分ではあった。勢いついての転倒ではなく実にゆっくりとした転倒だったので、特にけが人が出るわけでもなくいつまでもこうしていたいような、そんな変な気分だった。

もちろん教師は大慌て。何とかして立て直そうとするがなかなかうまくはいかない。どれくらいの時間がたっただろうか、ようやく全員引き離すことが出来て事なきを得た。

それから間もなくして、階段や廊下の中央に白線が引かれた。