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丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

ラジオ公開録音

2010年08月22日 | 個人史
関西の若者向けラジオ深夜放送と言えば、草分け的存在が朝日放送の「ヤングリクエスト」。僕が中学1年の時に放送が始まったことは以前に書いた。最初は二人のアナウンサーが交代でジョッキーをつとめ、葉書によるリクエストを読んで曲をかけまくる形式の、純粋音楽番組だった。

後発組で毎日放送が「ヤングタウン」という番組を始めた。こちらはヤンリクに対抗したのか、二人の司会者によるおしゃべりが中心の番組であって、スタジオに応募者葉書による抽選で観客を呼んでの公開放送形式を取った。
司会者に選ばれたのが、局アナの斉藤努と、入門直後の若手落語家だった桂三枝の2名。若者をスタジオに集めるという形式が評判になり、聴取者が飛躍的に増え、司会の桂三枝はいちやくアイドル落語家として人気を集める。
スタジオに客を集めるという形式から、深夜放送で生放送は無理があったから、録音形式を取っていた。千里山にある放送スタジオまで、国鉄の駅から往復の送迎バスが出ていて送り迎えをしていた。
おしゃべりだけでなく、リクエスト葉書による曲も数曲流していたが、目玉の一つにあったのが、「今月の歌」の設定。アマチュア・フォークグループによる1曲を今月の歌として、一ヶ月間毎日流し続けるという形式。この中から結構評判の歌が産まれ、近年1枚のCDに評判だった曲をまとめられて発売された。
同じグループが毎日出演することはなく、月の最初の日に録音した音源を毎日使用していた。時々は本人が出演して観客の前で生演奏することもあったが。
ということで、本人に確実に会える日は毎月1日なわけで、その日を狙って観覧希望の葉書を出した。

僕が高校1年だった11月1日が土曜日であり、学校が半日だったから観覧するのに都合の良い日だった。うまく観覧希望の葉書が当たって見に行けることになった。
実は、次が連休と言うこともあって、うちの両親は岐阜の会社にいる兄のところに泊まりがけで行くことになっていたが、僕は理由を付けて断って毎日放送のスタジオに行くことに。余談ながら、家に一人残ったのだが、一人で外食するのはこの日が初めてだったりして。日曜の昼食にお好み焼きを食べに行ったが、貧乏性なので何も入れないプレーンのお好み焼きを食べた。

千里山のスタジオに時間通りに着く。司会は桂三枝。以前にも書いたが実は本人にはまだ顔もよく知らない頃に服部緑地公園ですぐ目の前で見ているのだが、正式に本人と判って見たのはこの日が最初。まあ後には落語会とかによく出かけたので、実物の落語家数人を生で見る機会はけっこうあったが。

番組の収録はきっちり3時間前に(4時間前だったかな?)始められた。時間通りに終わらせる都合もあるから、時計をずらせてきっちり収録する方が都合がよい。なのに、この日が初日というアマチュアグループの今月の歌が、演奏冒頭でとちって、いきなりスタッフに頼んで録音し直しということに。いやいやスタッフも困ったことになったとは思うが、後で家に帰って本放送を聞いたらきっちり時間通りに終わらせていた。まあTVと違うから数秒無音が何回かあっても誰にも気づかれないだろうが。

ラジオの公開放送に参加するのはこの後もう1回あるのだが、そのことは後に。

校内紛争顛末記

2010年08月19日 | 個人史
1960年6月に日米安全保障条約が10年間の期限付きで成立して、改訂を迎える70年に向けて、学生を中心に大学紛争が過激化した。69年はその1年前と言うことで、冬には東大封鎖がTV中継され、その年の東大入試が中止になるなどの大事件が起こった。

大学紛争は東大進学者を多く含む高校でも活発になり、高校紛争として荒れる学校が増えてくる時代だった。僕が入学する直前にもいろいろあったようで、そのために合格者のうちの多くの者が一般公立高校に逃げるという事態が起きて、入学者が極端に減ってしまうと言う現象が生じた。ちなみに紛争が解決した翌年は、逃げる合格者を多く想定して多めに合格者を出したのに、ほとんどが入学してしまったので、教室に生徒があふれるという事態を引き起こすことになるのだが。

前年のことは知らなかったが、入学式が騒然としていた雰囲気から時代の流れを感じていた。大学の附属校という位置づけや、平地に学校があるという立地条件で、大学の過激派学生や、他校の生徒も入りやすい状態があったのは確か。
近年の話になれば、同じ敷地内にある附属小学校に乱入した男が凶器を振り回して多くの児童が被害にあったのもまだ記憶に新しいところ。そのように、外部から不審者も含めて侵入しやすかったこともある。

そんなことで、上級生を中心に政治運動が活発になり、行動はより過激になっていく。

9月のある日、学校内の特別教室等がある校舎が過激は生徒によって封鎖された。入り口付近には机や椅子が積み上げられ、他の校舎との連絡廊下のシャッターは閉め切られ、侵入できないように机等が積み重ねられた。
しかしこの封鎖騒ぎは、一般生徒が登校する前に教員の手によって排除された。

この間、一般生徒は立ち寄ることも出来ず、自分の学校内で起きた事件であるのに関わることが出来なかったことについての糾弾会が開かれた。学校にとって一般生徒はお客様にすぎないのか。学校が抱える問題に生徒が関わることができないのか。さまざまな討議は結論が出ないままに時間だけが過ぎ、そして二回目の封鎖が起きた。この時には教師だけで解決する作業は止められ、生徒の間で討論が限りなく続けられた。事態は一向に進展する様子もないまま、最終的に、全国で初めての高校への機動隊導入がなされる。ある早朝にやってきた機動隊が力ずくで封鎖を解除し、その様子は新聞に大きな写真付きで載せられた。
新聞記事の内容に失望感が起きた。当事者としてその場にいた者の目と耳で捉えていた内容と、マスコミの記事に相当の開きがあったから。以来、新聞TVのニュース記事を信用しなくなった。彼らは自分の観点でしか事態をとらえない、それは事実かも知れないが真実ではないと言うことを知った。

根本的な問題は何一つ解決はされていなかった。その結果、3回目の封鎖が12月に行われた。学校はもはや手の打ちようがなかった。
ひたすら討論の時間ばかりが重ねられた。授業はすべて成立しない。でもクラス討論に何の意義があるのか、疑問だけが残った。だからクラス討論の最中に、疑問を感じたことを述べて早退した。人生初の授業ボイコット。図書館に行って一人勉強をした。まあ、その日には中学時代の友人と会う約束があったのだが。中学時代のクラスメイトだったMHさん(一緒にスケートに行った女の子)に、わからない数学の問題があるので教えて欲しいと言われていて、会う約束をしていたのだった。英語で書かれた集合の問題で、僕自身集合を聞くのは初めてだったので、飜訳していても専門用語の訳がわからなかったことを覚えている。まあ自分自身での予習にはなったが。

閑話休題
一日おいて、結局自分で中身を知らない限り問題の本質はつかめない、と思って、バリケードの中にもぐりこむことに。中では「自主ゼミ」と称する討論会がいくつも開かれていた。
結果的にバリケード内に入って、はっきり失望する。
中はタバコ臭く、異様な雰囲気が漂っていた。彼らの主張自体、こんな状態では説得力も何もないものだと思った。ただ単に、やりたいからやった。雰囲気だけで満足している。そんなように目に写った。
翌日デモが組織される。市役所まで向けてのデモ行進。一応参加はしたが、何のためのデモだったのか、いまだにはっきりとはしていない。

デモの最終。事件が起きた。
解散がなされた直後、中心として活動していたリーダーが機動隊によって逮捕されたのだった。突然の出来事だった。皆は警察に向かって怒鳴るのがやっと。「国家権力」という四文字がしっかり焼き付いた瞬間だった。

この日が頂点だった。バリケード封鎖に限界が生じ、亀裂が出来てきた。
二学期の期末考査が流れるという事態が起き、これに困ったのが、大学受験を控える3年生だった。期末考査が流れれば受験用の成績表が作成できなくなる。とうとうバリケードは内側から崩壊した。

事態は一気に収束の方向に向かう。
3学期になって首謀者数名の、停学等の処分が発表された。これに抗議をした数名によるハンストが職員室前で数日間行われたが、すでに力はなかった。
単位不足によって数名が留年した。2年に上がった時に僕のクラスに留年生が入ってきたが、しっかり皆と溶け込んで、学内紛争は何だったのか、まったく何の痕跡も残さずに仲良く、一緒に卒業していった。

翌年以降、一つも紛争は行われず、まるでこの1年間が夢だったかのように時が過ぎていく。替わったことと言えば、授業のいくつかで、自主的学習内容が入ったり、生徒が自主的に学んでいく状態が起きてきたことか。
少なくとも僕自身は、大人や「学識経験者」の言葉を信用しなくなった。自分で見て、感じたことが真実だと思うようになり、他人の言葉は、一度は疑ってみるようになった。マスコミがいかにいい加減な物か、自分たちに都合の良い言葉しか言わないことが見えてきた。別の見方をすれば純真ではなくなってきたことだろうか。ひねた人間が一人生まれたと言うことか。

クラブと附高祭

2010年08月17日 | 個人史
高校に入ったら、迷わずに音楽系のクラブに入ろうと思った。
吹奏楽部は当時なかった。後に中学時代吹奏楽をやっていた者が集まって活動が始まったのだが、まあ当然中学時代は楽器をやっていなかった僕には最初から縁はなかった。
唯一あったのが合唱部。で、迷わずに入部したのだが、僕以外の部員の全員が他のクラブとのかけもち。で、活動は不活発。実質活動をやったのが一年間で4・5回くらいだったか。そんなことで翌年にはつぶれていた。

当時2年の某先輩一人が張り切っていて、前年に文化祭でやったというオペレッタに感激して、自分で脚本を作ってオペレッタをやる気十分になっていた。しかも昨年の感激をレポートにして、どれだけ感激したのか、どれだけ頑張ったのかの文集を作って配布するというぐらい。しかし大方の予想通り、一人で盛り上がっているだけのいまいち白けるような内容だった。
昨年やったというオペレッタも、内容は15少年漂流記の亜流というか、当時TVでやっていた冒険ガボテン島の内容とほとんど変わらない、感激するようなオリジナル台本とは呼べないものだったし、彼が今年に用意した脚本もひとりよがりの内容で面白味に欠ける内容だったため、部員全員が無視する結果になる。

そんなわけで文化祭が近づいても少しもまとまる気配もなく、最終的には合唱部主催の音楽会を開いて出演者募集を行うこととなる。学内の数組のフォークバンドが出演、合唱部の数名もチームを作って出演ということでお茶を濁す。

うちの学校の校舎は、何かの工場跡を譲り受けて建てたような学校で、体育館という名前の建物はあるにはあったが、工場跡の中身を空っぽにしただけのような建物。とてもそこで舞台発表をできるような施設ではなかった。きちんとした体育館ができるのは2年後のこととなる。
そんなわけでステージ発表とかはなく、クラス発表ばかりで、模擬店がいっぱい、と言っても学内12クラスしかないので内容的にはそんなに重なることもなく文化祭は行われていた。
しゃれた催しがあったと言えば、社交ダンスの場が開かれていて、そこに入場すると初心者でも社交ダンスを手ほどきしてくれて、クラブの1年先輩のきれいなお姉さんに手を引っ張られて踊ったことがなつかしい。

文化祭も2年後にはもう少しきちんとしたものになっていくのだが、当時は学内紛争の火種がいっぱいある中で、不穏の状態の中だったという緊張状態もあったりする。

高校の体育大会

2010年08月14日 | 個人史
高校でも体育大会がある。当然だが。
僕の高校の体育大会は少しだけ変だった。なぜなら、服部緑地にある陸上競技場をわざわざ借りて行っていたから。
1周400mの正式なトラックである。フィールド競技もできる。ただし練習はない。ひたすら走るだけ。
観客席はやけにだだっ広い。ここに全校生徒500人弱しかいない。平日だから親はほとんどいない。実に寂しい限り。

1年の時はこんなものかと思うだけ。
2年の時は転校が怪しくて、とにかく集合したら雨で流れていた。そして学校に戻って遅れて授業。結局後日学校のグラウンドで行うことに。
3年になったらもう競技場を借りるなどと言う馬鹿げたことはしなくなって学校内のグラウンドで行った。それで十分。もっとも、2年時に引っ越しして服部の競技場には近くなったのに。

徒競走関係は苦手だから、体育大会のことはほとんど記憶にはない。
あえて探すとすれば、3年の時には、全学年4クラスだから縦割りのクラス対抗形式で行って、頼まれもしないのにクラスの応援団長を引き受けて頑張った。
縦割りリレーの四人五脚に出場して、ぶっちぎりの逆転で勝って、それもあって総合優勝を勝ち取った。

体育大会以外にも球技大会も行われたりもしたが、ひたすら足を引っ張った。
1年時には卓球の団体戦に出て、負けたけどチームは勝ったりとか。3年時にはバレーボールの補欠で、最後に出してもらえたけれど足引っ張りで、結局は勝ったから良いものの。

あまり体育関係に良い思い出はない。

小豆島家族旅行

2010年08月13日 | 個人史
夏に両親とすぐ上の兄の4人で小豆島旅行に行く。
ちょうど小豆島にペンフレンドがいたのだが、連絡が付けば会いに行ってもよかったのだが、ちょっと気恥ずかしいのと、日程等不明で連絡がつかなかったので調整は出来なかったが、ここにペンフレンドがいると思うと身近に思えたり。

もっとも父の従妹が小豆島に住んでいて、ペンフレンドにそのことを伝えて名前も伝えたら知っているということだった。

船で島まで渡って、そこからは、免許取り立ての兄の運転でレンタカーを借りる。途中、ひやっとする場面もあったり。
名所の寒霞渓や二十四の瞳の分教所跡とかも行ったり。当時はまだ道もそんなに整備されていなかったから、新米運転ではつらかったことと思われる。今はかなり整備されて車で行きやすくなっているようだから、一度行ってみたいのだが。

確か一泊二日だったと思うが、短い旅行から始まって、この年から毎年夏には家族旅行をするようになる。年々参加人数も増えて、最高では25人くらいか、バスをチャーターして行くようになったり。両親の健康状態が悪くなってからは一族郎党が集まっての旅行は出来なくなってしまったが、あの頃が懐かしい。

花火

2010年08月12日 | 個人史
花火大会もあってそのついでに同窓会があったわけなのだが、実を言えば花火は苦手だ。


遠くから眺めているのはまだ良いのだが、河原等で間近に見るのは怖い。
昔祖父の家が宝塚にあった頃、宝塚の花火大会をよく見に連れて行かれた。河原で間近に見るのだが、花火というのは距離の関係で音と実際の花火がずれこむ。つまり大輪が開いてその後にドカーンという音が聞こえてくるのだが、そのタイムラグが怖かった。音もしないのに大輪が開いて、そして消えるか消えないかの瞬間に大きな音がする。音の恐怖というか、映像と同時でない音が恐怖だったのかもしれない。だからその大輪自体が恐怖の象徴だった。


大輪が開く前に打ち上げるシュルシュルという音が聞こえたらもうだめ。耳と目を同時に塞いだ。お化け屋敷に入るのとたいして変わらない感覚だった。


かなり離れた距離での花火はしっかり見られる。花火が襲ってくることもない。真下だと火花が落ちてくる危険性なども感じていたのかも知れない。

ついでながら、遊びでやる花火も、打ち上げ系は嫌いだ。怖いといった方が適切かも知れない。

高校同窓会

2010年08月10日 | 個人史
個人史がちょうど高校時代に入っているちょうどのタイミングで、高校時代の同窓会が開かれました。
写真一覧をフォトチャンネルにのせました。場所はここです。
http://blog.goo.ne.jp/photo/26727

残念ながら外務大臣はパキスタンの外相会議に出るために欠席というメッセージが送られてきました。
小学校の同級生だったUさんも来られました。写真を撮りたかったのでお願いしましたが断られました。しかたがないので、全体の中のスナップの一部でしか入っていませんが。


今回は陸上部のOB会と合同で花火を見る会ということで、総勢100名ほど。
そのうち14期卒業生は40名ほど。
僕が先の同窓会に参加したのがもう25年ほど前の話。14期生自体はいつ頃か、毎年集まるようになっていたみたいですが、そのことは昨年まで知らず(僕と連絡取れなかったようです)、偶然僕のHP(またはブログ)で気づいた人が声を掛けてくれたのでようやくこの同窓会の存在を知りました。
(母校の卒業生のアドレス等には載せていたのですが、アドレス元のサーバーが無くなったためにアドレス変更ということになって、行方不明になっていたようです)

中には卒業以来40年ぶりという人もいたり。そこまでいくとみんな歳を取ってますね。
男連中は髪が白くなったり肥えたり。顔は変わっていないのに体型だけ二倍に肥えた奴にあって、そう言ったら、逆に「膨張したな」と言われてしまいました。君にだけは言われたくないよ、と思ったり。

対して女性陣は、みんな56歳57歳なのに、みんな美人に変身している。
孫もいる人もいるというのに、いわゆる妖艶。大昔は年増の女性の色気なんて言葉を聞いても、そんな人たちを見て目がおかしいのではと思っていたが、うーーん、確かに違う。高校時代のアルバムを見直して、そりゃぁ昔は「可愛かった」けれど、今は確かに美人という形容がぴったりの人ばかり。良い風に磨かれてきている。おかげでますます声が掛けられなくなった。

先生方も皆さん健在で、物理のT先生は糖尿病だろうかえらく痩せられていたが、地理のN先生は白髪頭になったくらい。授業時に口癖のように言われていた「おーー間違い」のセリフを皆、なつがしがっていた。日本史のM先生は2年時の担任だったが、僕が教師になってから某公立高校に生徒の進路相談全体会で再会した時のことをよく覚えておられた。数学のM先生は2年の時に来られた先生だが、テスト問題ではよくいじめられたか。けっこう関わりも多かったはずだが、思いでの場面にはいなかったか。

次回はどうやら軽井沢で行うとか。ちょっと参加は無理かも知れないが。

フォークギターと高校生集会

2010年08月05日 | 個人史
高一になってフォークギターを買ってもらう。
今まで義兄の中古のガットギターを勝手に借りて使っていたのだが、自分用として、迷わずにフォークギターにする。行きつけのレコード・楽器店で、実際に触ってみて決める。

ボディーに自分のサインをマジックで書く。中学の頃からサインを決めて使っていたが、現在使っているサインと基本的には変わっていない。
これ以降、フォークギターは社会人になって別のを購入したり、軽音楽部(実質はギター・マンドリン部)の顧問になったので、クラシックギターも購入し、転勤後持って行ったのだが、その学校でのクラブ消滅後、音楽室整理のどさくさで紛失し、後にもう少し上等なのに買い換えたりした。

で、高校1年の時に自分のギターを持ち出してからは、どこに行くにもギターと一緒という生活が15年ほど続くことになる。

高校1年の夏に、アングラフォークの集会で、高校生フォークフェスティバルというのが大阪城の野外音楽堂で開催されることになって、フォーク仲間のT君と一緒に聞きに行く。もちろんギターをかかえて。
大阪城公園では、別の集会もやっていて、最初そちらと間違えてしまって、歌本も買ったのに、違うことに気がついて正しい集会に行くことが出来た。歌本は間違えたが、当時はどこの集会でも似たような歌ばかりやっていたからそんなに困ることにはならなかった。

集会の途中、雨が降り出して、屋根のあるステージ付近にみんな逃げ込むことになって、当時としては定番の「雨よいつまでも」という、雨が降り続けるようにと言う内容の歌をみんなで合唱した。高田渡や中川五郎の他に、出演者予定にはなかった岡林信康や西岡たかしなども飛び入り参加してけっこう賑やかな集会になって、フォーク雑誌にも写真入りで掲載されたが、ステージ間近のど真ん中、歌っている目の前に僕がいるのが写っていた。

まあこの時代が全盛な頃で、この後転がるように時代は移り変わっていくのだが。

こばからしいしらかばこ

2010年08月03日 | 個人史
林間学舎が行われた。場所は信州の白樺湖。
二泊だったと思う。宿舎に入ってワイワイして、翌日は白樺湖の側にある車山までハイキング。汗はかいたが、山頂でのんびり。M君が自動販売機でコカコーラを買って飲んでいた。そう言う物があるのは知っていたが、この時が初めてのコカコーラを間近に見た日。
休憩時にクラスが違っていたから話をする機会がなかったUさんに声を掛けた。
後にも先にも、高校時代でUさんと話したのはこれっきり。

このときの昼食に出された弁当が、おにぎりと漬け物だけ。
これを巡って林間学舎に来てからの生徒の不満が爆発。
宿舎に戻ってあれこれ不満が噴出。証拠写真まで撮って、学校に戻ってから生徒会新聞に摘発。笑顔の裏に恐るべき実態ということで、見出しにつけられたのが、「こばからしいしらかばこ」
実はこの見出し、僕が付けたものなのだが。

今から思えば高校1年生の林間学舎ってこのレベルなのかもしれないが、まあ生徒には内容を事前にはほとんど知らされなくて、教師にすべて任せろ悪いようにはしないから、的な旅行計画にうんざりしたようだった。このことが後に修学旅行造反につながっていったのかもしれない。

で、結局この林間学舎がどんなに小馬鹿らしいものだったのか、今ではまったく覚えていない。弁当だけしか覚えていない。

追記です。

同窓会で話を振れば、同じ時に来ていた他校の弁当は豪華だったとか。
卒業アルバムを見れば、この時に善光寺まで行っている。そういえば信州蕎麦を初めて食べた覚えがあった。

高校の教師陣

2010年08月01日 | 個人史
1年の担任教師は物理の教師だった。自作の問題集を作っていて、その中からテスト問題が出題されていた。だからその問題集を購入しているとテストに実に有利だったが、買っていないととたんに不利だった。3学期に成績がやばくなったので、仕方なく購入したのだが。
この教師、1年の時に結婚された。クラスでお祝いをしようということになって、マムシドリンクをプレゼントする。良く効いたと言っていたが、その言葉通り、そのちょうど1年後には「二人目」の子どもが産まれたとか。どういうこっちゃ?

隣のクラスの教師は地理の先生。この教師は得意がロシア語。授業ではロシア語連発やら、ロシア旅行の話をしたりしていたが、大阪万博の時に本当にソ連館に行って担当のロシア人と話をして大行列を尻目に裏口から入場していた。

漢文の教師は趣味で自作の漢詩を作っていて、卒業時に希望者に自費出版の本をくれた。同窓会時に2冊目もいただいた。いまだに読めていない。

古文の教師は源氏物語をやっていて、性格悪い登場人物を「オニオコゼ」と呼び続けていたり、独特の授業でけっこう面白かった。教科書だけでなく、いろいろな教材をプリントして使っていて、原典を読みたいと本気で思っている。

倫理社会の先生は催眠術の魔術師。彼の授業で睡魔に襲われなかった者は一人もいなかった。5分ともたない。

日本史の先生は2年時の担任だったが、一風変わった授業内容で、「お茶の歴史」から始まり、外伝的な歴史をいっぱい扱い、知らぬうちに近代になり、明治時代は西園寺公望の日記を教材に使い、現代が過ぎれば古代になって「神武天皇は実在したか?」「邪馬台国論争とは?」など、日本史のはざまの話ばかりで、大学入試にはまったく役立たなかったが、それはそれなりに面白かった。

世界史の先生は、後に僕が教師になった時に新入生の親として再会するが、世界史は苦手だったので、卒業必要出席日数を取ったら授業に出なくなったので印象がない。

現代国語の教師の話は別項として扱いたい。

数学は毎年二人の教師が違う単元を平行して教えていた。名前のイニシャルで呼び分けて、「数F」「数f」とか、後に教育実習で来ていた先生がそのまま採用されて「数w」が出来、「数m」とかもあった。単元の分け方はわからない。いわゆる代数と幾何という分け方でもなかった。片方でまるでわからなくて15点だったときも、もう片方ではけっこうまともな点数だったり。単元によってムラが大きかった。当時TVで評判の子ども人形劇の主人公を使ったねずみ算からの出題もあったり、後の僕の作ったテスト問題の出題傾向に影響を与える。

芸術教科は選択制で入学時に希望で分かれる。音楽と美術と書道で、当然ながら音楽を取るが、1年の時だけの授業。これは附属中学の教師が附属中学の音楽教室を使って授業を行った。
最終的にテストは「赤とんぼ」の混声3部合唱だったのだが、混声四部合唱にしたいという生徒の希望があって、僕が四部に編曲することになった。しかし元々四部の局ならいざしらず、元々が三部でうまく調和するように出来ている曲を無理矢理四部に書き直したので、所詮無理はあったがなんとか編曲する。
で、合唱上の都合で、僕が二つのパートを歌い分けるはめになり、結果的にはテストとしては不利になったのではないか(つられたと判断されたかも?)と思ったのだが、どうだったか。
合唱でやった「小さい秋みつけた」のピアノ伴奏がとても素敵で、いまだにこの曲を聴くと伴奏に耳を傾けるのだが、あの時ほどの演奏にまだ会えてはいない。

体育はむしろ苦手でしかないのだが、なぜだか体育委員に選ばれてしまった。まあ体操だけは得意だからそれだけはこなせたが、後は苦手な場面が多くてみんなに迷惑をいっぱいかけてしまった。ちなみにプールはまだできていなかった。

英語は3科目あって、リーダーとサイドリーダーと文法作文と。英語は思いっきり落ちこぼれた。中学までの学習がまるで生きてこなかった。特に作文は大の苦手。タネ本を買ってきて合わせたがそのタネ本自体がひどい本でほとんど役に立たなかった。
サイドリーダーのの教師はエロ教師と呼ばれていて、まあ別に特に変ではなかったが、ある意味生徒から親しくからかわれてはいた。迷子犬が学校に住み着いていた時も、すぐに子どもを生み続けるので、その教師の名前で呼ばれていたりもした。
サイドリーダーでは教材になる本を使うと、誰かがすぐにその日本語本を見つけてくる。すると教師は途中でも辞めて別の本に変えるのだが、すぐに生徒は飜訳本を見つける。絶版本を使った時でも古本屋で見つけてきたりのいたちごっこの繰り返し。おかげで英語の短編集がいっぱいたまった。けっこうどれも面白く、推理作家のアガサ・クリスティーの名前を知ったのもこのおかげだった。もっともどの本も完読はしていないのだが。

ちなみにレベルが高い学校だったが、英語のリーダーの教科書が、僕の中学の卒業生の多くが進学した新設校と同じ教科書を使っていたのには少し驚いた。
この教科書は今でも残しているけれど、読む気にはなれていない。