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少年野球

息子の少年野球

「ボヤキの松」は金ジャン“中興の祖”-松山光平代表-審判部No.9

2007-07-12 20:50:34 | 審判部より

葛飾少年軟式野球連盟主催の「夏の大会」が開幕しました。金ジャンは今年も3チームの出場をしております。7月8日現在 2部チームが勝ちあがっています。現在、チーム総勢80名を超える葛飾随一のチームです。お父さんのお手伝いも含め、指導者も30名近くになりました。今回から、金町ジャイアンツが来年創立35周年を迎えるにあたり、チームの手伝いを28年間携わった一人として、関係者との思い出や交流記、そしてチームの歴史などを綴ってみたいと思います。
 
第1回は 松山光平代表を紹介します。昭和48年(1073年)4月14名の選手でスタートした「金町ジャイアンツ」(通称=金ジャン)は、昭和57年葛飾軟式野球連盟(当時は少年野球は独立前の傘下団体)春季大会で準優勝を果たしました。当時の選手は逞しく、試合をリードされていても「監督心配ないよ!そのうち逆転するから?」。今は亡き中山脩監督は19名の選手をしっかりと掌握し、選手はそれに応えていました。準優勝の結果は翌年の選手加入(当時は3年生から募集で一挙に24名の加入)に好影響を与え、昭和59年(1084年)には選手在籍77名、指導者12名となりました。 

初代監督 荒井八郎氏のもと、コーチを勤めていた松山光平氏は昭和55年にその後を引継ぎ、昭和57年チームの10周年を記念して2つの記念事業を立ち上げました。1つは8月の「新潟合宿」です。この年開通したばかりの「上越新幹線」で宿舎のある「浦佐駅」まで一直線。子供たちにとって大きな夏休みのプレゼントになりました。以後毎年恒例になりましたが、この時期2泊3日のお盆過ぎの新潟は、雪国の寒さを取り返すかのような猛暑と、激しい雷雲に見舞われる場面が多くありました。しかし、子供たちは3日間の野球漬けのスケジュールにもめげず、今まで体験したことのない、早朝の山登りや宿舎近くの水無川を囲った「紅鱒の生け捕り」にと、3年生から6年生まで初めての合宿を楽しみました。
 
もう一つが「親子ソフトボール大会」でした。それまでお母さんは子供たちのためにグランド抽選会に毎月1回区役所に自転車で駆けつけ、帰路の“お茶会が楽しみ“程度でした。そこで松山代表は折角の野球チームらしい親子で楽しめるイベントをと企画したものです。いわば「金ジャン」の「父母参観日」となりました。「新潟合宿」も松山代表の故郷である「新潟県大和郡浦佐」の親族が経営しているスキー民宿と交渉し、子供たちのため格安で利用できる施設と、夜間照明が完備している「町営のグランド」で当時不可能であった小学生の「ナイター=ナイトゲーム」を実施。子供たちは夜間照明に飛び込む大量の虫にびっくりしながらも、すっかりプロ野球選手気分でした。
 
2つの事業は現在まで継続され、子供たちだけでなく指導者も父兄も一緒に引き継がれています。
 こ
うした“子供たちのために”の精神は、この後昭和60年(1985年)少年野球としては初めてのハワイ遠征の国際試合「親善野球交流大会」を実現。子供たちに異国の地でホームスティを体験させ、ハワイ州知事に葛飾区長の公式メッセージを手交するなど、国際交流を通じた“世界に通じる国際人の育成に”と、さらに現在の「韓国=済州島チーム」との国際交流に繋げてきました。
 
そして何よりも大きな事業は、悲願であった“チーム独自のグランド”の確保でした。現在の「東金町少年野球場」の前身の場所近くに3000坪の荒地を地主8名の方と交渉し、チーム選手、保護者一丸となってグランド造りで、僅か1年あまりで3面の練習場を完成したことです。この間の関係者との交渉やグランド整備の陣頭指揮をし、チームの大いなる隆盛を内外に強く印象付けました。当時はこのグランドを“松山グランド”と呼ばれ、葛飾区の「木」に指定されている“枝垂れ柳”の巨木が目印でした。(正式名称は「東金町7~8丁目子供広場」)。現在は江戸川ライン球場(新球場)として新たな場所に確保されています。
 
松山代表(選手が増えたため4部編成とし各部専任監督を任命。1991年から総監督・代表を兼任。2004年より現在の池田寿一総監督にバトンタッチ、代表に専任)の“子供のためになら”の精神はチームの活性化に大きな足跡を残し、今や葛飾区ばかりでなく、広く少年野球の関係者に受け継がれているところです。この間チーム運営だけでなく、少年野球の育成強化のため、組織としての葛飾区の少年野球連盟や多くの同好会の組織作りに奔走し、連盟の副会長、同好会「葛飾白球会」会長などの要職を続けている。
 
この間多くの困難に直面するたびに、関係者との調整は困難を極めていました。当時チームの応援団として松山代表の肝いりで結成された「父母OB会」の幹部に、次々と課題と悩みを持ち込んだ結果が、誰が付けたか冒頭の「ボヤキの松」となったのです。ボヤキのおかげで多くの貴重な助言をいただき、今あるチームの隆盛はこの獅子奮迅の松山代表の活躍があったればこそ、と改めて思うこの頃です。
 
何よりも感心することは“人使いが上手い”ということです。癖のある一言も二言もある他のチーム指導者を束ねていくには、“細やかな気配りと大胆なアイディア”で度肝を抜く計画の実行力が何よりの魅力といえます。
 
次回からチームに携わった指導者を紹介したいとおもいます。   第9話 完


「“野球好きの息子を持ちながら”母はあまり詳しくなく」審判部No.8

2007-05-13 16:24:23 | 審判部より

NO.7「審判泣かせの3つのストライク」の投稿でした。
直木賞作家の“無頼派作家”といわれている「伊集院 静」の短編集「受け月」(直木賞受賞作)の中で、母子二人で少年野球に取組んでいる姿がかぶさってきました。「低学年のため試合に出られない子供の練習を、グランドの隅から応援している母親の熱い視線が、雑用ばかりさせている監督に注がれる。」激しくも切ない母親の気持ちが母子家庭のわだかまりと共にあふれてくる感情の起伏が、高校球児だった作者によって見事に描写されています。
 物語はこの少年の父親と野球仲間だった監督の、野球に取組む情熱を“野球とは人間の中の神様が創ったスポーツ”と語らせています。だから“勝つ野球だけの野球にしたくない”という作者の気持ちが母親の子供への応援歌として伝わってくる、まさにこよなく野球を愛する珠玉の短編集と思いました。
この短編集は綱島監督にもプレゼントしました。
 
野球に詳しくなくとも、自転車で40分も掛けて遠くのグランドまで応援に駆けつける、これだけでも子供は嬉しく自慢の種です(子供はこっそり言いました、“このところお腹が出てきたのでダイエット”と)
20年前のお母さんの応援は、月初めの月曜日に区役所にグランド抽選会に動員されて自転車で往復、グランドへは子供が嫌がって“応援にいけないの”という状況でした。今や東金町少年野球場には各チームとも応援のお母さんたちで賑やかです。各チームには名物応援ママ(絶叫型、脅迫型、哀願型、乱舞型等)がおりますが金町ジャイアンツは静かな?!!応援です。

 夕食のとき、今日の試合の話、友達のことチームのこと、子供から伝わる一生懸命の声を聞くことが、野球の技術や規則を知らなくとも、子供にとっては大きな応援歌であると思います。子供の声をしっかりと受けとめてください。
 
子供にとって父親は近寄りがたい大きな存在ですが、母親は意識しないが“恋人”の存在。いいところも見せたいし、甘えても見たい。だから時々意地悪もしたい。児童心理は母親しか見えないのかもしれません。

                           第8話 完


「失敗の反省だけでなく“失敗を生かす”ことを」審判部No.7

2007-05-01 08:56:30 | 審判部より

失敗から“学ぶ”ことは沢山あります。子供は失敗することで“成長”していきます。失敗することを恐れては次の段階に進めません。強いチーム(勝負だけでなく強い心を持ったチーム)は失敗を恐れません。“一歩前に“守備も走塁もそして打撃も積極的に取組むチームは負けても挑戦しているといった“満足感”で明るい表情をしています。そして次の試合には、あの失敗を教訓に進歩したプレーを見せてくれます。子供には成長の度合いによって習熟度が違いますが、失敗をどうやって次のプレーに生かすか、指導者はがんばっています。

こうした取り組みをしているチームは、試合中指導者の作戦指令の激はほとんど聞こえてきません。子供たちが次のプレーを準備してしており、ベンチからいちいち指示しなくても対応できることを示しています。

葛飾区の学童野球チームにもあります。毎年葛飾区を代表して都大会に出場し、関東大会や全国大会で優秀な成績を収めている常連チームが数チームあります。これらのチームは特別な指導ではなく、着実に基本の練習を重ね、子供たちに考えさせる練習を積み重ねる方法で、どんな場面(アウトカウントや走者の位置を考えて)でも次にどうするか、即座に対応できる準備を常に練習で習得するようにしています。

ただやはり子供(大人も勿論ですが)ですから、どんな場面でも実力を満遍なく発揮できるとは限りません。

指導者はベンチから指示するとき、ことばの意味(声を出せ!=どんな言葉=表現したらよいかを理解させておくことが大切です。)や、指示を受ける体制(眼はボールを追って、耳で指示を聞く。)などを実戦練習の中で身体で覚えさせる練習が必要です。

某小学校の某先生は運動会で“ガンバレー”という声援をしないでと保護者に要請したそうです。がんばって怪我でもしたら大変ということでしょうか。いま介護の体制は「がんばらない介護」が合言葉のようです。老々介護では確かに「がんばる介護」は、介護する人の負担があまりにも多いことによる警鐘であろうと思いますが、将来ある可能性を秘めた子供に「がんばらない」ことを教えてどうするのかと、日本の将来を心配するのは考え過ぎでしょうか。

失敗から学ぶことは沢山あります。がんばることで工夫し、問題を解決するヒントが出て来る筈です。子供たちに挑戦させることで、新たなそして秘めたる可能性を見つけることだって期待できます。
スポーツにはこうした《素晴らしい力》があるのです。

                                第7話 完


「審判泣かせの3つのストライク」審判部No.6

2007-04-20 22:41:08 | 審判部より

今年も「野球規則」の一部が改正されます。今年だけでなく毎年「審判のポジション(構え方)」や「コール(宣告の仕方)」など少しですが何らかの変更があります。そのためシーズンの初めには2回~3回の審判講習会が実施されます。審判は何時も“正確なジャッジ”が要求されますが、何時も完璧に判定することはプロといえども難しいのが現状です。そのため毎年毎年基本に返って、1月や2月の寒風の江戸川河川敷で朝から夕方まで走らされ勉強の1日で今年もスタートです。

さてNo3 僕のお母さんは魔法使い?」でも触れましたが、見る角度によって、ストライクの見方が違うことに審判員としては心しなければなりません。と思っています。

この“心しなければなりません。”は適当にということではなく、審判員がストライク、ボールの裁定を間違えたからといって次の投球を穴埋めの裁定をしてはならないということと、「外野(応援席やベンチ)の声に惑わせられないで」、ということです。「穴埋めの裁定」際どいコースを「ボール」と裁定した後、“しまった!!「ストライク」“だったと次のボールをストライクと裁定することです。審判だって間違うこともあります。間違えた裁定をいつまでも引きずらないで「一生懸命にプレーする子供たちのために正確な裁定を」と常に心がけ、野球規則に精通しようと努力しています。

前置きが長くなりましたが、「審判泣かせの3のストライク」とは、一つは、「ベンチで見るストライク」高低しか見えません。二つ目は「観覧席で見るストライク」コースしか見えません。三つ目は「打者が見るストライク」高めに入ってくるボールは、視線がボールを追えるのでついバットが出ます。逆に言えば低めのコースや外角のボールは視線から外れる(遠くなる)ので打者は“ボール”と自己判断してしまいます。難しく言うとストライクゾーンとは「打者の肩の上部とユニフォームのズボンの上部との中間点に引いた水平のラインを上限とし、膝頭下部を下限とするホームベース上の空間」をボールの一部でも通過すること(アマチュア野球では「下限の上方をボール全体が通過する」となります。)を言う。と規程されています。「このストライクゾーンをボールの一部がノーバウンドで通過する」場合をストライクと判定し、裁定(宣告=以下同じ)します。子供は監督の指示で「バント」の姿勢やホームベースに屈み込む姿勢(かぶさった)で投球を待つ場合があります。投球を待つ打者が何時もと違う打撃姿勢をとって「ストライクゾーン」を小さく見せようとする事があります。余談ですが“エーなぜ?!”といった高いボールを打つ子供がいますが、子供にはこの高めのボールがよく見えるのです。

審判(球審)は最初の投球をストライクとしたから、すべて同じコースをストライクと裁定した場合、最初の判定が的確なら問題は無いわけでが、間違った裁定ならおかしなことになります。つまり「審判泣かせの3つのストライク」の意味は、周囲(応援やベンチの声)に惑わされること無く、自己判断に自信をもって裁定することを心がけていこうという「自戒」のことばでもあります。

                           第6話 完

 


「ドンマイ”(どんまい)」審判部No.5

2007-04-07 07:55:33 | 審判部より

金町ジャイアンツは3月18日(日)6年生を送る「お別れ会」を全選手の参加と、お父さんやお母さんの多くの方の参加で行われました。卒業をしたほとんどの子供たちはチームに1年生のときから参加したまさに“金ジャン”をたっぷりと堪能した子供たちです。
この子供たちが残した記念の写真と作文のアルバムの中で、“ドンマイ”の言葉を何人か記していました。思わず私も昔を懐かしく思い出されました。気がつけば今年のオープン戦(チームは1月から十数試合の対外試合をこなしました。)で何回か耳にしました。6年生チームだけでなく、新1部や新2部のチームもこの言葉が飛び交っておりました。

私たち昭和の2桁世代に育った3角ベースの野球では、誰に教えられたわけではなく、上級生から口伝で覚えた、なんとなく《いいよいいよ?気にするな!!》ジャーナイカナーという雰囲気の中で使っていました。「日本語俗語辞典」を紐解くと次のように解説しています。蛇足ですが参考までに「昭和の時代に主に野球などスポーツで失敗した仲間を励ます言葉として使われたが、後に職場や学校などさまざまな場面で人を励ます言葉として使われるようになった」「“ドンマイ”の元となる“Dont mind”。意図的に“ドンマイ“と呼んだ和製英語なのか、英語発音の“t”・“d”が聞き取れないため“ドンマイ”となったカタカナ英語なのか不明としています。」

多分指導者の口癖が子供たちに伝わったのかなと思いましたが団体スポーツの素晴らしさはこうした仲間を思いやる気持ちが醸成できることではないでしょうか。自己主張(個性ともいえますが)も大切ですが、一方では仲間や環境を大切にすることを少年時代に体験できることは、壊れていると指摘されている社会(環境)や教育、また家庭にもよき刺激になるのではないかと思います。

最後に「お別れ会」での「鈴木浩之監督」は「君たちに指導者は多くの感動をもらい、そして沢山の“ありがとう”残してくれた。君たちの“ありがとう”の気持ちを周りの人にも分けることをいつまでも忘れないでください。」と挨拶をしていました。

「金町ジャイアンツ」の大きな思い出として、感謝の気持ちを持ち続け20年後、この卒業生が「鈴木浩之監督」や現3部監督の「鈴木章弘監督」と同じように、自分の子供をつれて「金町ジャイアンツの指導者」として帰ってくることを期待しています。

 感謝の気持ちを次の世代に引き継ぐためにも

     第5話 完