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少年野球

息子の少年野球

審判部 進士さんからの送る言葉

2009-03-30 21:24:37 | 審判部より

―12歳の春は思い出一杯、君たちに送る言葉ー

3月20日思いもよらない”時ならぬ驟雨”(突然のにわか雨)、午前中は腕を組み空を見上げるばかりの〈09年のお別れ会〉でした。お母さん方の手作りのカレーライスで楽しんだ後は、監督を始め指導者とお母さんの連合軍との、中学生用のB球を使ったお別れ野球対戦、本気を出した連合軍の勝利に終わりました。

 お母さんはバッターボックスに立って、わが子のボールのスピード(監督の図らいで親子対決が実現)に驚いたことと思います。“あの子がこんなに成長した”、まさに実感した瞬間ではなかったかと思います。

 オレンジボールから金町Gをスタートした20年度の卒業生、6年間の最後の締めくくりがチーム念願の「城東地区大会(都知事杯争奪戦)」の優勝でした。さらに勢いのまま「北部連盟秋季大会優勝」まで成し遂げました。ともに悔し涙を流したチームメイトが最後に歓喜した場面は、これからの君達の人生の中でも大きな1ページとなることでしょう。君たちは「金町ジャイアンツ」の歴史に新たな1ページを記録していきます。

 野球は“ミスの多いスポーツ”といわれます。

 しかしミスをしても必ずカバーがおり、そしてベンチで応援してくれるチームメート、応援してくれる人がいます。そうしたチームワークを体験した君たちが10数年後に地元に戻り、また地域の子供たちをスポーツに誘う、地域の活性にもつながるものと期待しているところです。

 この“審判部からのたより”も13回を数えましたが途中で息切れするなど、子供たちが躍動する臨場感を十分にお伝えできませんでしたが、ブログ管理人田中さんには何かとご配慮いただき感謝するとともに、ブログに応援のメッセージをいただいたお母さん方の、子供たちに注ぐ熱い気持ちを大切に、チームの応援を今後とも続けて行きたいと思います。

   卒業する子供たちやお母さん、又会う日までお元気で

(


-審判・野球アラカルト-審判部よりNo.13

2008-05-31 21:50:43 | 審判部より

墨東五区選抜学童軟式野球大会の出場が決定したニュースが届きました。

思い起こせば初めて出場した24年前、1984年(昭和59年)の8月、

第3回目の「夏の合宿=新潟県浦佐」の直前で「夢の島公園の少年野球場」

では、熱射病(当時は熱中症はありませんでした)で倒れる子供も出るほどの

猛暑となり、応援のお母さんたちは急遽「氷」確保の大変な状況でした。

残念ながら1回戦で惜敗でしたが、現在の3部コーチをしている「細谷成宣君」

がエースとしてがんばりました。先輩に負けず最後の夏を「楽しんで」ください。

今回は別の角度から審判や野球の雑学あれこれ(アラカルト)を紹介し、野球

を幅広く、角度を変えて楽しんでもらいたいと思います。

1.  ニワトリ症候群

 この言葉は、子供の間に広がっている孤食、欠食、個食、固食(又は粉食)の

 4つの食習慣を総称する、と教育臨床学者の中井孝章教授が朝日新聞の記事で

 紹介されたことから注目されるようになったと新語ウオッチャーのもり・ひろし

 氏がWebで紹介しています。

 つまりコケッココ(孤、欠、個、固)となる造語ですが、子供の食習慣の乱れは

 健康上の問題だけでなく、生活習慣全般への影響も大きいことになります。

 野球(だけでなくスポーツ全般)を始めるにあたり、子供にきちんとした食習慣

 を身に着けることをまずお母さんにお願いしています。

 今年の東京都議会の定例会の冒頭、石原都知事の所信表明でも「食育」の大切

 さを学童に徹底させることを表明していました。学校給食の大切さとともに

 家庭における食生活の乱れが将来のわが国への影響を憂慮された強い意思表明

 と感じました。

 今年は暑い夏が予想されています。しっかりとした食生活、とくに朝食をしっか

 りとってお子さんを送り出してください。

2.  ユニフォーム

 昨年読売巨人軍のフアン底辺拡大にと、首都圏の地区野球連盟に参加してい

 「ジャイアンツ」の名称が入っている学童野球チームに読売巨人軍「原監督」

 「背番号88」にちなんでジャイアンツの少年版ホームグランド用のユニフォー

 ム88組が提供されました。

 子供用15着、指導者用5着、帽子からユニフォーム一式が届けられ6年生の

 1部公式戦用として今年も引き継がれています。

 子供が泥まみれになることがめったになくなった昨今、スポーツで泥だらけになってプレーすることの爽快さは何物にも変えられない爽快感があります。ただしお母さんにとって洗濯は子供の成長と、逞しさを感じる時でもある反面、大変な作業でもあります。

 高校野球夏の甲子園での泥だらけのユニフォームは、子供たちにとって憧れでもありますが、プロ野球ではいつでもシミひとつないユニフォームが売り物です。ちなみにプロ野球ではどの球団でも毎日試合後、専属契約の洗濯屋さんが徹夜で作業をし、翌日の試合に間に合わせているそうです。

 その洗濯代は1シーズン1億円といわれているそうです。1試合約80万円近くになる計算です。安いのかまたは高いのか?!!

?!!お母さんの洗濯の御礼も考えなくては!!?

3.  .和製英語

野球用語には日本で作られた英語表現がたくさんあります。

 野球規則にある「ボールデッド」ファールボールが捕球されない、ボールがベンチや場外に出た場合、試合が止まることを言います。審判は改めて試合再開を「プレー」の宣告で行います。

 同じような言葉で「デッドボール」和製英語で、正規の打撃姿勢で投球をよけきれないで身体に当たったと判断した場合のことをいいますが、(文字で表すと難しいですが投球が身体に当たったこと=死球)アメリカでは「ヒット・バイ・ピッチ」(投球によりぶっつけられた)

 さらに捕手用具の「レガース」、脛あてのことですが「レッグ=脚」から来たのではといわれているそうです。アメリカでは「シン(すね)ガード」

 もうひとつ「フォアボール」四球。審判は今は4球目のボールも「ボール」とだけしか言いませんが、つい最近まで「フォアーボール」と宣告していました。この審判の宣告が転用されたといわれています。アメリカでは「ベース・オン・ボールズ」一塁に行きなさいということでしょうか。

 この野球雑学は「日本野球機構」ホームページを参考にしています。

 次回は「試合時間のスピードアップ=学童野球も近く採用されます」など野球

 を取り巻くアレコレを報告いたします。

 以上 第13話 完


-今年のスタートは素晴らしい内容でした-審判部よりNO.12

2008-01-22 18:59:57 | 審判部より

墨田区の昨年秋の新人戦で優勝した「堤若草」の2チームを迎え、今年のスタートを切りました。

新1部チームの実質的なスタートでもあった1月20日は、金町ジャイアンツにとっても新年の幕開けでした。墨田区の新人戦で低学年の部とともに優勝の「堤若草」はリリーフで出場した先発捕手の女子選手(主将)が都内でも注目の的で、立派な体格から繰り出す剛速球はとても女子とは思えないピッチングでした。もちろん先発のサウスポーも3塁を踏ませない見事なものでした。

ちなみに昨年の墨田区新人戦の成績は22チームによる予選リーグを5戦5勝、実に得失点差は50点(得点52点、失点2点)、決勝トーナメントでも5戦5勝で得失点差は54点で失点はわずか1点、実に新人戦10試合で失点が3点と打撃も守備も素晴らしいチームでした。この決勝の対戦相手は、何回も練習試合をしている「墨田スターズ」でした。

なお新2部と2試合目に対戦した「堤若草 新2部」も低学年の部で優勝しています。金町ジャイアンツ新2部」はこのチームに6対4で勝利しています。

この強豪チームに対して新1部の選手は少しも怯むこともなく、再三の3塁のピンチを見事な配球を見せて投げきった投手と、ピンチにも動ぜず再三にわたる野手のナイスプレイで見事に完封を見せました。

墨田区の新人戦優勝チームを迎えるに当たり、審判団も葛飾区少年野球連盟の林 審判部長、角 副部長、和田 副部長に菊地 審判員(葛飾ウォーリアーズ代表)と私の5名の審判団で迎えることにしました。この布陣はシーズンオフの練習試合ではなかなか実現できないものです。

新1部の対戦は7回時間切れで引き分けでしたが、「素晴らしい球場で素晴らしいチームと、試合運営のきちんとした“内容の多い、素晴らしい試合をありがとう”」との「堤若草」代表の挨拶でした。そして「都大会でまたお会いしましょう」のとのエールがあったことを伝えておきます。

第12話 完


「2007年のカレンダーより」 審判部よりNo.11

2007-12-30 22:52:09 | 審判部より

―記録とともに記憶にも残る年でしたー

 すべての仕事を終えた(終わらせた?!!)07年の暮れ30日、改めてこのコーナーを振り返ってみました。06年の11月からスタートしたこの「審判部より」も11回を数えました。思い込みと独断で綴った内容で、当初の少年野球のフアンを拡大したいなどと大見得を切ってスタートしたが、果たしてその効果はあったのか、自信がありません。

 だが12月16日葛飾白球会閉会式(当日の決勝戦では金町GAチームは準優勝)で審判部長の代理として秋季大会の総括講評を発表する機会を得ました。その際「いつの試合でも多くのお母さんの応援が目立ち、子供たちはその応援に応えた素晴らしい試合を展開していました。」と直接的な効果があったとはいえませんが、一助にはなったのではないかと自惚れてもおります。

来年は「金町ジャイアンツ」の代表チームとなるこのチームだけでなく、80名近いチーム全体の子供達が、スポーツの楽しさと厳しさを通じ、更なる前進を遂げることができるよう願い、ブログ管理人の田中さんに与えられた折角の機会を無駄にしないよう、新たな話題を提供していきます。

今年1年は、昨年のオレンジ中心から一転して試合回数が増大して、日程の調整と対応に、監督を始め指導者の皆さん、そしてお母さん方の応援同行、給水当番と多くのボランテアが続きました。葛飾区の主催する公式戦をはじめ、葛飾白球会、北部連盟の同好会大会が春・秋大会、他区連盟主催の大会や他区チームとの練習試合など、2部チームであっても相当の試合数でした。

私が審判を担当した試合も80試合を超えるほどの、全体でもハードスケジュールといえる1年でもありました。

その成果は例年にない、いわば異例とも言える年末まで持ち込まれた12月23日の「北部大会決勝戦」でした。30年にわたる同「北部連盟」の歴史の中でもない同一チームのA、Bチームの決勝戦での対戦が実現したことでした。新たなトーナメントの組み合わせの結果でしたが、3位の2チームもライバルの「東金町ライナーズ」A,Bチームです。それぞれの好敵手を破っての優勝、準優勝でもありました。まさに今年の練習の集大成がこの試合といえるでしょう。

またAチームはこの春の葛飾白球会大会で「フェアプレーチーム賞」を受賞しています。試合態度のマナーや球場での挨拶など、少年野球チームとしての基本となるマナーの素晴らしさが評価されました。続く君たちにもその姿勢を続け「金町ジャイアンツ」の伝統としてもらいたいと思います。

来年はさらに試合数は増え、チームだけでも通常45~55試合、勝ち上がれば60試合になることも予想されます。指導者、応援のお母さんも子供たちと一緒に体を鍛えねばならなくなりそうです。

暑い日、寒い日、遠征など今年の経験を生かし、新たな思い出をそれぞれの子供たちの心のカレンダーに刻み込めるお手伝いができるよう、がんばりましょう。         

以上

第11話 完


初代監督は「ユニフォームを手作り」審判部No.10

2007-08-04 16:07:28 | 審判部より

  創生期の指導者・選手群像

初代監督は「ユニフォームを手作り」

― 荒井 八郎 氏 ―

 昭和46年4月(20周年及び30周年記念誌では48年創立としていますが正式にはこの年になります。) 初代監督 荒井 八郎氏の下で旗揚げした「金町ジャイアンツ」は、野球の好きな子供たちわずか8名で始動しました。

 この創設の状況を荒井八郎監督は金町ジャイアンツ「20周年記念誌」で次のように記しております。少し長くなりますが引用しました。

 「思えば1年生が8名集まってテニスボールを打ち、3角ベースを回って野球の真似事を始めました。そして翌年(昭和47年)新2年生に加えて新3年生の加入が6名〔現指導者=鈴木(章)、鈴木(浩)の両君そして一時コーチとして在籍の岡島君が入団)あり14名になった。チーム名はその子供たちの意見で“ジャイアンツ”に決め、金町をつけて「金町ジャイアンツ」が正式に産声を上げました。」

 「金町ジャイアンツを知らなくても“金ジャン”なら知っていると言うほど有名になった愛称について、チームが誕生してから半年位過ぎたある日、支部の大会に参加ときのこと、選手の一人が「“金ジャン”が来た!!と他の選手が言っていたけど、うちの事かな?監督」と言うんです。強いことばかりでなく、愛されるチーム作りを目指していた私にとって、他チームより愛称をいただくこんな嬉しい事はありませんでした。」

 まさに「金町ジャイアンツ」のルーツです。最初は「G」の山型装飾文字でヘッドマークを帽子に飾り、チームのスタートに徹夜で間に合わせた「ユニフォーム」、“KG”のロゴマークもすべて荒井監督の手作りでした。本業が縫製業とは言え、チーム14名全員の「帽子・ユニフォーム」を作成することは奥様の手伝いをお願いしたとはいえ、少年野球に注ぐ情熱は計り知れないものがあります。

 この手作りの「ユニフォーム」を当時の選手、現4部監督「鈴木章浩」、2部コーチの「鈴木浩之」、「岡島一貴=現在は辞任」君も誇らしげに着ていたものです。当時は葛飾軟式野球連盟の「少年野球大会」が夏季に行われたぐらいで、現在のように少年野球連盟の年4回の公式戦や、各種同好会の春秋大会などの大会がなかった時代でした。昭和51年読売新聞社主催の「読売新聞杯争奪戦」

に続き、翌52年も8チームのリーグ戦に連続優勝を飾るなど、「金ジャン」の勢いは同じ時期に設立した「金町インディアンズ」、「柴原ヤングジャイアンツ」

(後の柴原ジャイアンツで平成6年「金ジャン」と合併)「新宿スワローズ」などの対戦で常に優位に立っていました。

        永遠の野球少年 ― 石田 司郎 氏 ―

 荒井監督と創設に携わった初代コーチ 石田 司郎氏は同じく20年記念誌の中で当時の思い出を次のように記しています。石田コーチは山崎 国奎コーチとともに「金町ジャイアンツ」の礎を築き、選手の募集、練習場所の確保、対外試合の交渉など創生期の基礎作りに奔走を重ねてきました。創設3年後には選手30名を超えるまでになりました。

 「両端に竹竿を通したネットを抱え、早朝の場所取り(注=当時江戸川河川敷の金町小学校を降りた、今のソフトボール球場の付近=場所の確保はネット張り、競争相手を抑え、いかにベストポジションを確保できるかがコーチの任務でした。)当時の河川敷は、凸凹の石畳でバウンドは不規則、草は伸び放題ボールは転がらず、草に足をとられ悩まされたが、子供は元気いっぱい練習しました。」とあります。このグランドは新球場ができる昭和61年まで金ジャンのホームグランドでした。

石田氏は11年のコーチで多くの子供たちを育て、その後勤務の都合でリタイアしましたが、野球への情熱は衰えず、現在は葛飾軟式野球連盟マスターズ(45歳以上)1部の「金町ドリーミーズ」のプレーイングマネージャーとして、4年前の葛飾区のマスターズ(シニアクラス)創設以来3連覇を達成する成績を残しています。

選手の生涯記録を卒業の日に手交

少年野球監督 200勝を達成?!! ―故 中山 脩 監督―

平成18年3月 アットいう間もなく、わずか数ヶ月の闘病でこの世を去った故中山 脩監督はその日常の節制ぶりから想像もできなかったことでした。

創生期の指導者の一人として生涯現役を貫き、子供たちに大きな影響を与え

た指導者の一人として、その業績は高く評価されます。

まだ記憶に新しい葬儀の際に「金町ジャイアンツ」として感謝状を墓前に捧げました。中山脩監督の業績を知る一環として、そのまま記します。

 感  謝  状        故中山 脩 殿

金町ジャイアンツ創生期から30年間チームに参画し、今日の隆盛を支えた功労者の一人として、ここにそのご努力と情熱にチームとして心から感謝申し上げます。

 生涯現役を貫き、担当した子供たち全員の在籍全成績の作成、シーズンオフの富士登山など、子供たちとの心の触れ合いを大切にした監督として、その指導方針は後輩指導者への良き道標とさせていただきます。

 少年野球監督としての夢である「200勝の達成」、団旗.に記されたチームのシンボルマークの製作、さらには年間練習無欠席の子供に贈る「中山賞」の創設は、中山 脩監督の業績として永遠に金町ジャイアンツで引継がれることと思います。 

 平成18年3月6日 

金町ジャイアンツ  代表 松山 光平 総監督 池田 寿一

                    指導者  一同、 父母会  一同。

生粋の金町ジャン育ち?!! 30年後指導者として復帰

―鈴木章浩・岡島一貴・鈴木浩之君―

 

 1期生として「金町ジャン」に参画した諸君が、30年後息子を連れて再び「金町ジャン」に帰ってきました。「金町ジャン」の目標でもある“地域との繋がりと継続”を体現したこの事実は、創設以来「金町ジャイアンツ」が目標としたものがまさに実現した瞬間でもあります。

 30周年記念誌に編集後記として次のように記しました。

 「“記念事業はやらない”との松山光平代表の30周年事業でしたが、なによりも大きな記念事業となったのが、チームが目指した「地域のつながりと継続」を実現できたことでした。「金町ジャン」1期生の3人がチームの指導者として30年ぶりにチームのユニフォームに袖を通し復帰。そしてその子供たちが入

団するという画期的な出来事です。この事をターニングポイントとして“チームの継続と新たな礎”と期待しているところです。」(進士 記)

 昭和47年新3年生になった岡島、鈴木(章)、鈴木(浩)の諸君が入団しました。その後の彼らの指導力はすでに周知の成績であり、期待通りの新旧指導者のスムースなバトンタッチを新たな「金ジャン」の力として、他の若き指導者達と共に「金町ジャイアンツ」を次の世代に引き継ぎ、さらに発展させてくれるものと期待するところです。

第10話 完