「みなと八朔まつり」は正式には「那珂湊天満宮御祭禮(なかみなとてんまんぐうごさいれい)」と言います。
那珂湊天満宮の祭りとして古くから行われ、以前は「御祭禮」と言っていましたが、明治に入ってから「八朔祭」と呼ぶようになり、現在通称として「みなと八朔まつり」になりました。
那珂湊天満宮の由来は、今から700年ほど前、鎌倉時代に遡るといいます。
和田町の漁師・金兵衛が、夜の浜辺で観音像を発見して、近くの磯岩に安置しました。
村人がこの像に梅鉢の紋があるのに気付き祠を作ってお祭りしました。
元禄8年(1695年)、水戸藩二代藩主・徳川光圀公は、祖父・徳川家康公の江戸城入城記念日であった八月一日(八朔)を天満宮御祭禮の期間と定め、格式・形式は、徳川家康公を祀る東照宮にならったものとしました。
この八朔から「八朔祭」と呼ばれるようになったとも言われています。
現在の形になって300年を超える個性的な祭りで、以前は関東三大祭としてにぎわっていました。
数々の祭事は両宮元町である釈迦町と元町が立ち会い、年番町が引き継いで進めます。
氏子は那珂湊の18の町内で、その年の「年番」に当たった町内がすべてを取り仕切り、獅子、みろく、風流物の屋台が出ます。
以前は背の高い山車の上に各町競って人形等飾り物をした形態が主流でした。
獅子とみろくは江戸時代のままの姿ですが、他の風流物(山車)は、明治末期に電線が張られてからは、現在のような屋台ばかりになりました。
そのため現在でも屋台を山車と呼ぶことが多い理由です。
屋台には芸者衆が乗り、昼間は優雅に舞い、夜は激しく華やかに囃しながら御神輿のお供をします。
お囃子に三味線が入る点や、屋台が御神輿よりも目立ってしまう点などは、かなり珍しいかもしれません。
また御神輿を海中で揉む「お浜入り」も見どころの一つです。
氏子(順不同)
殿山町・牛久保町・和田町・七町目・六町目・泉町・五町目・四町目・明神町・弐町目・壱町目・龍之口町・釈迦町・元町・小川町・田中町・北水主町・南水主町
日程は、本来は旧暦の八月朔日から四日間でしたが、現在(令和元年)は新暦8月第4金曜日を例祭とし4日間(木・金・土・日)にしています。
1日目のお宮参りは
年番町によりお宮参りの行列をします。行列には手古舞・稚児も加わります。
2日目の例祭は
御神輿への御神遷しなどの神事・儀式、年番引継ぎ、供奉順抽選などを天満宮にて行います。
3日目の神幸祭は
各町内の風流物(屋台・獅子・みろく)が、朝9時頃から夕方までは「町渡し」と言って、あでやかに舞いながら各町の祭典事務所、若連事務所への挨拶廻りをします。
明神町詰所に集合した各町の町印、風流物が花火を合図に抽選順に17時30分出発します。
御神輿行列のお供の任務を果たした風流物行列は、自由巡行になり本町通りから自町内へ戻ります。
4日目は神幸祭2日目・還幸祭となり
御神輿は早朝5時にお仮殿での神事の後、6時に海中でもみ合う「お浜入り」し、町々を一巡後、午前10時にはお腰掛け石(お旅所ともいう)へ安置し、その後お仮殿へ遷し、再び神聖な姿で18時からの還幸行列で天満宮へ戻ります。
各町の風流物は、神幸祭同様町渡しをしながら、16時に和田町中通り詰所に集合し、花火を合図に18時に出発します。
風流物は、本通りから自町内へ戻って、千秋楽となります。
那珂湊天満宮御祭禮は、全てが有形・無形の文化財で、300年も挙行されている伝統的なお祭りであり、神事・儀式を主軸にして、郷土愛・連帯感などを共有しあっています。
天満宮の祭礼(天満宮祭礼保存会)として昭和55年11月26日に市指定無形民俗文化財にもなっています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます