極私的お葬式

父の葬儀の話です

19

2009-06-04 06:11:38 | 日記
5月5日は香典の確認をしたり、母に代わって弔問客の対応をしたりして過ぎていった。
母はまた病人に逆戻りなので、食事は私がうどんなどを作ったり、弁当を買ってきて食べた。
気づけばこちらに来てから、ほとんど食事は弁当だ。

香典の中には「この人誰だ?」というものも多い。「私の従兄弟の結婚相手の親」や、
「父の姉の嫁ぎ先の本家」など、複雑な関係者もあった。

5月6日は雨になった。お寺で「これからのこと」打ち合わせをする日だ。本来ならば、
母も同行してほしかったが、「病人」だから「私は行けない。お前達だけで行け」と命令され、妹と二人で行った。

寺ではこれから七七日までのことや、七七日のことなどを打ち合わせした。
檀家をしっかりつなぎとめておきたい、という気持ちがよくわかった。「営業努力」を感じた。

5月7日は、ゴールデンウィーク明けの出勤日であったが、市役所の手続きなどをするために休みを取った。
休み明けはものすごく込むとのことだったので、気合を入れてオープン前に行ったのだが、一番目だった。
その後、社会保険事務所や銀行などを回って、手続きをした。

家に戻り、遺品などをちょっと確認。父がつけていた小さな小遣い帖が出てきた。父の認知症の症状が顕著に
なってきたのは、2007年の夏だが、その前から兆候はあった。自分から免許の更新はしないと決めたことなどは、
認知症の自覚があったからだと思う。

5月7日の夕方に東京へ戻った。

5月2日早朝の電話から、5泊6日の滞在だった。わがままな母に振り回され、バタバタ忙しく動きながらも常に、
心の奥底に、何か重い気持ちがあった。

もう父はいないんだという、漠然とした思いだった。

郷里に戻りたいという気持ちがありながら、もう30年近くも戻らないままきてしまった。
その間何度か戻れる機会はあったのに、決断できないまま、ズルズルと東京暮らしを続けている。
自分のふがいなさも重い気持ちにさせる要因になっていた。

新幹線に乗り、窓の外の過ぎ去る景色を眺めながら、女房の父の葬儀に来た時の父を思い出す。
父は義兄に「よくがんばった」と別れ際、熱く声をかけていた。かっこいい男だなあと、その時思った。
私はこういう場所でこういう台詞をさらりと言える人間になりたいと、思った。

そんな事を思い出している内に、涙が出てきた。となりの座席に座る見知らぬ人に見られたら恥ずかしいと思い、
手で顔を隠したが、なぜだか涙はポロポロと、しばらく止まらなかった。



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2009-06-03 06:18:52 | 日記
自宅に到着。ほどなく、葬儀社の車も到着。

自宅祭壇もまったくパッケージ化されていて、土台はダンボールでできており、
あっという間に係の人はこしらえてしまった。七七日まではこのままである。

私の家族は泊まらないで日帰り。母はますます元気になり、「ビール飲もうか」
なんて言い出す始末。通夜~告別式のダウンぶりが演技じゃないのか?と改めて強く思う。
「やれやれ終わったー」とご機嫌である。通夜にも出ないくせに、お気楽な発言だ。
この時点で、まだご近所には知らせていない。

さすがに徹夜明けで、この日は疲れた。強い睡魔が襲い、倒れるように寝てしまった。

翌5月5日、母は快調そのもので起床。「快調、快調、すっかり元通りだよ」と元気はつらつである。

この人には夫を亡くした悲しみというものがないのだなあ、と思う。


告別式を済ました後で、やらなければならないことは、今回の場合「ご近所への告知」だ。
通常の訃報は通夜告別式の日時場所などを記入する欄があるのだが、今回の場合、通夜も告別式も、
すでに終了している。通常の用紙を使えない。すべて、手書きで書いた。
できれば、パソコンプリントしたかったが、実家にはそのようなものはなく、下手な字で書いた。
しかし、ここには「香典のご辞退」の内容は書かなかった。母の指示である。
本音は「来てほしくない」だが、そこまで書くと角が立つと言う。
「知ってしまったご近所さん」で告別式に来てしまった人もいる。
しかし、この「事後報告」自体、弔問拒絶、香典拒絶の意味があるのでは、とも思った。

「これから、口コミで聞いた、という人がぞろぞろ来るぞ、どうして知らせてくれなかった、
とか怒って」と脅かすと、「そんなことないだろう、困ったねえ、来てもらっちゃあ困るんだけど」と母。

母が私が書いた案内を組長さんのところに持っていく。一昨日口頭で伝え、「来るな、教えるな」
と怒鳴りつけた相手だ。当然、組長さんにしても、いい気持ちはしないだろうと思った。
今頃こんな案内をもってきやがって、と思うだろう。「奥さん、これは、香典はお断りということかい?」
と組長さんは聞いたそうだ。

「ああ、そうですよ、と言ってやったよ」と母。

しかし案内が回れば、ご近所さんは弔問にやってくる。

「ああ、またやってきたよ、やだねえ、、ああまたお腹がいたくなってきた、、」と母は寝込んでしまった。 
嫌なことがあると、腹が痛くなる子供のようである。

私の予想通り、その後は多くの弔問客が来た。








17

2009-06-02 05:52:43 | 日記
お骨を抱いて、バスに乗り、また葬儀場へ。ここで、さらに「三日目」の法要と、
「初七日」の法要をいっぺんにやってしまうのだ。「三日目」の法要は、遠州地方独特なんですよ、
と係の人から聞いた。ネットで調べると、「省略されることが多い」とあった。この地方では、
「三日目」は当たり前にどこでもやる。「三日目」に出る人々は、親族など特に故人と親しい人に限られる。
火葬場まで行く人と同じとなることが多い。そして、特徴的なのは「三日目の香典」までもってくることである。

火葬場まで付き合う葬儀に出る場合は、二つの香典を持っていくのが、この地方の風習だ。
女房の父が亡くなった時、私の両親は「三日目」の香典を持ってきたが、渡す場所もタイミングもなく戸惑っていた。

坊さんから、三日目と初七日の意味を教えていただく、三日目は「開蓮忌」といい、蓮の花がちょうど開く
タイミングなんです、この頃はのどが渇くから、飲み物をたくさん用意してください、なんて話を伺う。
初七日は「初願忌」といって、ここでやっと入り口に到達して、始めてお願いします、と声をかける日なんです、
なんて話も聞く。三日目のお経があって、初七日のお経があって、滞りなく葬儀告別式は終了した。
終了後は通夜の時と同様に「法話」があった。今度は「一休さん」の話だった。昨日同様、あまりピンと来なかった。
坊さんが、ちょっと来なさい、というので控え室に行き、お礼を伝えると、これからのことで打ち合わせをするから、
5月6日に寺に来るように、と言われた。この先、七七日、初盆、一周忌など、続くのだなあとちょっと憂鬱になる。

坊さんは帰っていき、最後の「精進落し」だ。ここでもまた、食べる。火葬場で食べてから、2時間も経ってない。
慣れた人の中では、火葬場では食べない人もいる。精進落しもほんとうは七七日過ぎてから、が本当らしい。
葬儀当日に初七日までやってしまうんだから、精進落しも当日というわけだ。

食べて、だれきったところで、お開き。参列者には、ここまでお付き合いしてくれたお礼か、三日目のお礼か、
この地方では、わりと大き目の引き出物を渡す。我が家でも綿毛布かなにかにした。また、籠盛にあった、
食べ物(缶詰など)も参列者の人数分に取り分けて渡す。

参列者が帰っていき、一安心だが、喪主の家ではまだすることがある。自宅で祭壇を作らなければならない。
これも、葬儀会社が全部してくれる。

私の家族を乗せ、お骨やら香典やらで満杯になった義弟の車を見送ってから、私は自転車で実家に向かった。



16

2009-06-01 06:08:59 | 日記
火葬場に到着。

火葬炉(焼き窯)に、番号がついていて13番だった。13番、縁起が悪いのか、
もともと「忌み事」であるのだから、「ベストマッチ」と考えたほうがいいのか、
なんてことを思った。

お坊さんがここでもまたお経をあげて、遺体を焼き窯に入れて、「約1時間半ほどかかります」
と待合室に移動。ここで、簡単な昼食。 

呼び出し放送があり、お骨を拾う部屋に行く。等身大の骨かと思ったら、頭の部分と胴体の部分と
で集められており、その長さは1メートルくらいだった。どれがどこの骨かわからないくらい。
大きな菜箸のようなもので、二人で骨壷に入れていく。小学校3年の長男は「ぜったいムリ」と言ってやらない。
そのまま入れていくと、全部入らないので、係の人(女性)が「このままでは全部入らないので、
上から少々押してもよろしいでしょうか」と聞いてくる。どうぞ、と答えると、少々どころか、
思い切り上から押し付け、骨は脆くバリバリと砕けていく。しかしこの係員たち(女性ふたり)
は最後の粉になっているものまで、ていねいに指で集めて骨壷に入れるのだった。

「御舎利様が出ましたので、いかがいたしましょう」と聞かれる。「のどぼとけ」の骨だそうだ。
後で坊さんに聞くと、最近は骨が脆くなったのか、焼き窯の火力風力が強いのか、砕けてしまって
なかなか残らないそうである。10人に3人くらいかなあ、とも言った。
「御舎利様は、なんと申しますか、縁起物でございますから、別にして、ちいさなこちらの入れ物に
入れておく場合が多いのですが、、」と係員。入れ物は3ランクあった。それぞれの値段を聞くのも、
余裕がなく、戸惑ったが、言われるまま「真ん中のランクらしき」入れ物に入れてもらった。

頭の骨のところに2センチ程の金属がいくつかあった。これはなんだろうと思った。
丸い小さな金属もあった。係の人に聞くと「歯の治療でしょうか、、」と自信なさそう。
妹も不思議がっていた。後から、帽子じゃないか、と思った。鍔の部分に金属が使われているだろう。
ぐるっとカーブして長かったらわかっただろうが、短くて、いくつかあった。
丸い金属は天頂の丸い留め具だと思う。鍔の金属は火力の勢いでいくつかに千切れてしまったのだろう。
見慣れぬ帽子を入れたので、すっかり忘れていた。
一緒にいれた、シャツ、本(の表紙)、饅頭はすっかり跡形もなく消えていた。金属部分のあるものを、
入れないほうがいいと思った。

骨壷を持って、マイクロバスに乗って、来た道と違う道を通って、また葬儀場に戻る。