極私的お葬式

父の葬儀の話です

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2009-05-31 06:59:39 | 日記
母と私と妻と妹夫婦の5人が前に出て、喪主のご挨拶である。

 遺族親族を代表しまして、ご挨拶申し上げます。
 本日はご多忙中のところ、故人○○○○のために、ご参列くださいまして、まことにありがとうござ
 います。父は一昨年より、認知症を患い、治療に専念してまいりましたが、今年に入り、肺炎等の
 併発が頻繁となり、体力も衰え、5月2日、力尽きてしまいました。
 父は長く、○○株式会社に勤務し、主にアコースティックピアノの鍵盤を作る仕事に従事しておりま
 した。定時に出勤し、定時に帰宅する、まじめな会社人間でした。定年退社後は、好きな釣りや碁を
 楽しむ日々を送っておりました。
 皆様の中でご存知の方も多いとは思いますが、父はとてもまじめで、温厚な性格でした。どんな頼    
 まれ事も嫌な顔をしないで引き受けるとても気のいい人でした。人の悪口を言うのを聞いたことが
 ありません。人間としてとても大きな人でした。私は父のような人間になりたいと思います。
 本日の皆様のご厚情に感謝し、厚くお礼申し上げるとともに、皆様の心のなかに、父○○○○が
 いつまでも残ってくれたらいいなあと思います。
 まことに簡単ではございますが、お礼のご挨拶とさせていただきます。本日は本当にありがとうござ
 いました。

これが、「喪主の挨拶」である。

途中で、声が裏返ってしまった。

「いいごあいさつだったねえ」と誰かから言われるかと思ったが、誰からも言われなかった。

お棺のふたを開けて、花などを入れて、最後のお別れである。

遺影を私が持ち、少ない男手でお棺を担いで、霊柩車に載せた。

霊柩車には私と母が乗った。

火葬場までは近い。車で10分程度だ。



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2009-05-30 01:11:34 | 日記
受付係を頼んだ、叔父の長男と長女の夫がやってくる。普通、受付といえば、
会社の同僚やご近所の方にしてもらうのだが、今回はまったくその手の連絡をしていないので、
受付係も「親族筋」になってしまう。受付係のふたりは、つまりは「私の従兄弟と、従姉妹の夫」だ。

参列者がだんだんと集まり始める。と、いっても、ほとんどが親族。一般参列者は、
「知らせてないのに知ってしまった、ご近所の方」と、「昨日来た母の友人」だけである。合計5名。

母はよろよろしながら、知り合いと話したり、泣いたりしている。

お坊さんが全員揃ったところで、お布施をお持ちしてご挨拶。

座る場所を指定されて、定刻に葬儀は始まった。

葬儀社の方が言っていた通り、途中で坊さんは頭巾を被り、椅子に座ってお経を唱え始めた。
ここから焼香が始まる。時間を短縮するためだろうか、「1回焼香でお願いします」と言われる。
が、もともと参列者が少ないため、すぐに終わってしまった。

たくさんの人が来て、焼香も延々と続く場合、遺族はうれしいのだろうか、と思った。
参列者としてそういう葬儀に参加することは多い。

焼香が終わり、お経も終わり、坊さん達が退場すると、告別式も終わりだ。最後は喪主の挨拶である。

喪主の挨拶は、行きの新幹線の中でも考えていた。葬儀場に着き、いろいろな書類の中に、
「喪主のご挨拶例文」もあった。これがまた、覚えられないほど難しい。
やはり、新幹線の中で考えたものをベースにいこうかと思った。子供でもわかるような、
わかりやすいことばで伝えた方がいいと思っていたし、私自身普段使っていることばしかわからないので、
きわめて平易な表現にした。





13

2009-05-29 00:00:00 | 日記
眠れぬまま朝が来た。

6時前にコンビニに朝食を買いにいく。おにぎりにした。加えてカップ味噌汁も買った。
戻ってきても、まだ隣の間の伯父夫婦は寝ているようだった。ろうそくに火を着け、線香をあげた。
暇だった。暇だったので、持ってきたワンポイント靴磨きで靴を磨いた。まだ伯父夫婦は起きてこない。
ついでに、伯父夫婦の靴まで磨いた。

6時頃になって、叔母が起き、続いて伯父も起きてきた。おにぎりで朝食を取る。
伯父は新聞を読みながら、ゆっくりゆっくりとおにぎりを食べる。ここに遺体がなければ、
このふたりと旅館に泊まっているような気になる。
伯父夫婦は近くに嫁いだがまったく寄り付かない長女のことや、東京で働いていて
まったく結婚する気のない次女の話をした。私は父が生前話していた、伯父の話をした。
若い頃、組合活動をやりすぎたため出世が遅れたという話だ。

「そんなことはないよ」と伯父。じゃあ、誰の話だったんだろう、と思ったら、でも、と伯父は話始めた。

伯父は船乗りになるつもりで、養成所に入り、船舶会社に就職した。
しかし、その頃、労働環境の改善を求める組合活動になぜか参加するはめになり、よくわからないまま、
その会社をクビになってしまったという。

「そのことでしょう、父が言っていたのは」というと、「ああ、そうかあ、、」と、のどかである。

お棺と花を葬儀をする場所に移動する。花の並び順も確認する。

告別式は10時からだが、一番早くやってきたのは、昨日通夜に参加しなかった親族だった。

私の家族は午前7時の東京発ひかり号に乗ってくる。着いたよ、とのメールが入り、
タクシーで到着した。女房と長女、次女、長男がタクシーから降りてこちらにやってくる。

なぜかとてもうれしかった。よく来てくれたなあ、と思った。

ほどなく妹と母が到着。母は「まともに歩けない」といった風でよろよろしていた。

演技か?と思った。

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2009-05-28 06:26:00 | 日記
遺体をお棺に入れて、通夜は終了である。係りの人が入れていいですよ、と言ってくれた品々を入れる。
帽子(キャップ)が好きな人だったので、帽子を。しかし、あまり見たことのないものだった。
「これ、よくかぶっていたのか?」と聞くと「だって、お母さんにこれを渡されたんだもの」と妹。
後で聞けば、あまりかぶらなかったものらしい。「あんまりボロボロじゃ、体裁悪いだろ」と母。
まったく意味がわかっていない。そのほか、饅頭やシャツ、囲碁の本(表紙だけ)を入れた。

「納棺夫日記」を読んだせいもあって、この「死んでからの段取り」というか、
「三途の川の渡し賃に六文銭を持って、旅の支度をして、杖を持って、頭巾を被って、、、」
というのが、誰が始めて、誰が言い伝えて、現在に至っているのかなあと思った。後で述べるが、
この先「三日目」があって、「初七日」があって「七七日」があるわけである。
うまくできている話であり、その実際を誰も確認もできないが、なんなのかなあ、と思った。

これまで、布団の上に寝ていたのをお棺に入れて、通夜が終わった。位置は変わらない。
隣の間の「通夜ぶるまい」も終了したようだ。

残っていた人も帰り、その日泊まる伯父夫婦と妹一家、私だけが残った。時刻は8時をとうに過ぎており、
妹一家に留守番をしてもらって、伯父夫婦と一緒に隣のセルフ定職屋に行った。

伯父は今年80歳になる人で、毒舌の母に言わせれば「あの人は半分呆けている」状態だそうだ。
動きがピタッと止まる時がある。あれっ、と思っていると、動きはじめる。夫人も70歳は超えているが、
こちらは母同様、とてもしっかりしていた。娘が二人いる。私が小学生の頃、実家に遊びに来たことがある
。家の前で写真を撮った。その話をすると、よく覚えているとのことだった。

会館に戻り、妹達を帰宅させ、伯父夫婦は控えの間で眠ってもらい、わたしは父がいる間で寝た。

係の人が明かりは消さないでください、と言っていたので、そのままにしておいた。

ほとんど眠れなかったが、通夜としてはその方がよかったのかもしれない。


11

2009-05-27 00:00:07 | 日記
7時半頃までまだ多くの人が残っていた。腹が空いてきた。
やっぱり料理を頼んでおけばよかったなあと思った。隣に座っている叔父までが、
「腹が減った。何か食べ物はないのか」などと言う。
「だって、断ってしまったじゃないですか。あるわけないですよ」と言うと
「あ、そうか、そうだったねえ」と言い出す始末だ。残っている人のすべてが近親者だったが、
皆が(食べ物がどうしてないのだろう)と思っていたのではないだろうか。ああ恥ずかしい。
あるのは菓子くらいである。ちなみに隣の間ではしっかり通夜ぶるまいがあって、そちらの匂いと、
会話が伝わってくる。 食べ物がなくて、本当にさびしく悲しい思いがした。
悲しみの度合いは増していくのである。

7時半ころになり、もはや誰も弔問に来ないことを係の人もわかったらしく、「そろそろ旅立ちの
支度をしたいと思います。皆様お手伝いください」と言い、納棺までの作業をすることになる。

映画「おくりびと」がヒットして、もっくんのような納棺士が来るのかと思ったら、
係の人がやるのであった。葬祭ディレクターはなんでもできるのだ。

ダラダラと多くの親族が残っていたのは、ほんものの「おくりびと」の光景を見たかったからかもしれない。

「湯かん」は「逆さ湯」を作り、手とか、足とかを拭く程度。本当はすべて裸にして全身を拭くのかな、
と思う。「湯かんの真似事」なのか。ちなみに、顔は化粧をしているので、拭くなと言われる。

父はまだ、浴衣のようなものを着ている。係りの人は、穏やかな口調でいろいろ説明を加えながら、
白装束を着せていく。我々も手伝う。浴衣のようなものを着ている上からの白装束である。
これもちょっと変だなあと思った。しかし、裸にするのは、さすがにショックが大きいか。

たて結び、新しい履物、六文銭(を書いた紙)、などいろいろ「おくりびと」儀式は終了。
係りの人が、「このあと、お棺にお入れします。お棺のなかに入ってしまいますと、
お顔を見ることぐらいしかできません。ここにお集まりの皆様、ひとりひとり手を握って最後のお別れを
してください」と言った。

一番目は当然、喪主である私である。

冷たい手を握った。手は大きい人だった。長年、力を使う現場で働いたので、筋肉もあった。
腕力ではかなわないといつも思っていた。寝たきりになり、その筋肉はほとんどなくなってしまったが、
手はあまりかわっていなかった。大きな手だったな、と思った。

私の次は妹で、妹はかなり大きな声で泣いていた。号泣と言っていい。