しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
(ガラテヤ人への手紙 2:16)
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。
神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
(伝道者の書 3:14)
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、
永遠のいのちを得させるためなのです。
(ローマ人への手紙 5:20-21)
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
(詩篇 32:1-2)
このブログに掲載しています聖句は、聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会からの引用によるものです。
なお写真と聖句とは関係ありません。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
(ガラテヤ人への手紙 3:13)