takubonpapa blog

 日常の出来事や感じたこと、Mac、バイク、キャンプ、さだまさし等について書いてます。

貧困と自己責任主義

2009-02-06 00:05:30 | 社会
 暮れから正月にかけて派遣村が世間を賑わせ、昨年以上に今年は格差と貧困が社会問題化するのでないかと思いました。実際に大手自動車・電気メーカーは業績を下方修正したり赤字決算を公表して、派遣切りだけでなく正規雇用労働者のリストラに及んでいます。

 こういうときこそ定額給付などではなく、2兆円の財源があるなら子どもの給食費をタダにするとか、生活保護を憲法25条の趣旨に沿って国民の立場に立って適正に運用するとかした方が、よほど生きたお金の使い方だと思います。しかしオレも庶民なのでくださるものはしっかりもらいますが、1人12,000円の給付金の何割がパチンコや競馬に使われる事やら。オレに言わせればそれは死に金だと思います。

 こういう社会情勢になればなるほど、セイフティネットとしての生活保護や雇用保険や国民年金や国民健康保険がその役割を発揮すべきなのに、全く行き渡っていないというか機能していないのが現実だと思います。

 自己責任主義が跋扈する社会の中で、全て自分のせいなのだと思わされてしまう状況、行政や政治がその責任を果たしていないという認識を持たないように情報が操作され、世論が作られているような気がしてなりません。そもそも自己責任とはいくつかの選択肢がある状況でどれかを選んだときに自己責任を問うことができるのであって、選択肢が限られているか無い状況で選ばされた事に自己責任を問うこと自体が問題だと思います。派遣村村長の湯浅誠さんが「溜め」という表現をしていますが、人的・金銭的・精神的「溜め」を失ったために貧困に陥ってる人に向かって、貧困にあえいでいる人とは比較にならない「溜め」を持っている人に限って自己責任論を振りかざすのだと思います。それは財閥出身や世襲政治家の言葉が虚しく心に響かないのと共通しているように思います。

 貧困に喘ぎ、ほとんど「溜め」を失った人に、そこから抜け出すための最後の「溜め」が生活保護などの社会保障なのだと思います。憲法を遵守する義務がある公務員は憲法25条の趣旨が生きるような仕事をしなければならないのだと思っています。そういう視点で考えれば排除する側に立つのか住民の幸福のために働くのかは自ずと決まってくると思います。そんな視点に立てば自らは公務員という安定して守られた安全地帯にいて、「生活保護や就学援助をうけることはけしからん。怠けている。」などという言葉は口にできないはずだと思います。少なくとも自分はそんな人間にはなりたくありません。まして教育に携わっている者として人を信じるという価値を大事にしたいし、単なる「取り立て屋」などにはなりたくないと思っています。
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