From mitsuzawa northeast

横浜FCと横須賀・神奈川のローカルフットボールシーンを気ままに応援する日記。時々故郷・静岡県東部のフットボールなども。

中村覚之助 シンポジウム

2010-02-07 | 日本代表
6日は東京・参宮橋にある「国立オリンピック記念青少年総合センター」にて
シンポジウム「日本サッカーの始祖 中村覚之助」に行ってきました。


中村覚之助は明治時代、東京高等師範学校(後の東京教育大学・現在の筑波大学)
在学中の1903年(明治36年)10月、英国の本を翻訳し日本ではじめてのサッカー本
「アソッシエーション・フットボール」を編集・著作・出版し、翌1904年
(明治37年)2月6日に日本発の対外国際試合「東京高等師範vsYC&AC」を
企画・実行に移した人物で、「日本サッカーの始祖」と呼ばれている人物。

中村覚之助の詳しい略歴・資料は和歌山県那智勝浦町のサイトをご参照を。

日本サッカーの生みの親 中村覚之助について(那智勝浦町HP)

すなわち、このシンポジウムが行われた2月6日は「東京高等師範vsYC&AC」が
行われた日に、ちなんで開催されたとのこと・・・。

ちなみに「YC&AC」というクラブは当時の横浜外人倶楽部を指し現在も
「横浜カントリー&アスレチッククラブ」として活動中。(公式サイト


本シンポジウムは残念ながら開始時刻に間に合わなかったため
熊野三山協議会幹事・山本殖生氏の基調報告(熊野の神鳥・八咫烏の由来とねらい)と
中村統太郎氏のパネラー報告(覚之助が世に出た一枚の写真と思い)は聞くことが
出来なかったが、筑波大教授・真田久氏の報告(嘉納治五郎と中村覚之助)と
和歌山大教授・加藤弘氏の報告(中村覚之助の中国での足跡)は聞くことが出来た。

シンポジウムの内容は後日どこかで詳報があると思うのでこの辺で。

なお会場には東京高等師範の後身である筑波大蹴球部OB&関係者が多く
年齢層も比較的高かったように映ったがオイラのように同校とは関係ない若い人も
何人かチラホラと。同校蹴球部の現役部員の一団も運営と報告を聞きに来ていた。
(シンポには来てなかったけど筑波に進学した08シーガルズTOPのS選手、頑張ってね)

シンポジウム主催者である「熊野三山協議会」(公式サイト)によれば
中村覚之助の功績を広く知ってもらい日本サッカーミュージアムの殿堂入りを
目指しているとのことだが、この考えには大いに賛同したい。

シンポ終了後は参宮橋の居酒屋で懇親会。
ここも筑波蹴球部OBの懇親会に紛れ込んでしまった様相でしたが
筑波と関係ないオイラでも親しく接してくれた全ての人に感謝。
ちなみにこの居酒屋、女将とジーコの2ショット写真が飾ってあったのにビックリw


JFAのエンブレムとして有名な八咫烏。八咫烏をシンボルとして
発案したのは中村覚之助の功績を称え、その死を悼んだ彼の後輩達であるという。

最後に本日2月7日は、YC&ACにて筑波大学蹴球部との交流戦が行われるそうです。
O-40の試合は昼からの開始のようですが、1軍チーム同士の対戦は15時頃開始
とのことなので、保土ヶ谷での猛蹴vs秦野の後に寄ってみるかも。

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