ので、記憶がはじける前に書き留めておくことにしたが、記録するほどの事ではない。
まあいっか・・・
1975年9月10日成田からロンドンへ向かった。
当時では一番安かったエアロフロート航空の片道切符を手にしてまずはモスクワへ飛んだ。
モスクワでスカンジナビア航空に乗り換えてコペンハーゲンでトランジット。
そして目的地ロンドンへといった2度乗り換えが必要なルートだったが、安いんだから仕方がないと思った。
まずはモスクワだ。
当時機体状態やサービス、食事など激しく評判が悪かったがここでも安いチケットだからねと諦めるしかなかった。
窓には水滴が凍り始め、食事は う~ん 口に合わない と噂通りのようだった。
只紅茶が美味かったのが唯一の救いだった。
モスクワでスカンジナビア航空の飛行機に乗り換え。
銃を手にした兵隊の間を緊張気味に待合室へ向かう乗客。
まだまだソビエトは自由な国ではなかった。
2時間後、誰も銃で打たれることなく無事乗り込んだスカンジナビアの機内はそれまでと打って変わってほ~っとしたのか明るい声が増え始めた。
皆自由をかみしめていたのだ。
9月11日コペンハーゲン、カストラット空港到着。
現在ではコペンハーゲン空港と呼ばれてるがて当時はかストラップ空港が通称名で今でも現地ではこう呼ばれている。
コペンハーゲンで3~4日ほどゆっくりしてロンドンへ向かうことにし、空港の案内所でホテルを決めた。
当時、海外旅の情報は殆どなく、ましてや現地のホテル情報もゼロに近かった。
と言うより、殆ど興味がなく調べないまま成田を飛び立ってしまったのである。
身分不相応な立派なホテルに到着しチェックインしたがこの時はまだ部屋代のことは気にしなかった。
バスルームの広さ、ベッドの大きさ、室内装飾など別世界の部屋に気分は盛り上がる一方。
無知だったせいか、ホテルでスコッチのボトルまでキープ。
このあたり日本人感覚丸出し。
そしてつまみにこれも日本でしょっちゅう食ってたポテトチップを注文。
どこにでもいる普通の若者の行動だった。
しかしスタッフの誰もが首を傾げた。
そして「ポテトチップ」が「クリスプス」っていうのが判ったのは暫くしてから。
無知だから仕方がなかった・・・
1975年のチボリ 最近のチボリ

殆ど同じ。
二泊目の朝、これまで幾らぐらいかとレセプションで聞くと「わ~っ、そんなに」という、目玉が飛び出るほどの金額。
当時海外持ち出しは1500ドルまで。
このままだとロンドンに着く前に破産してしまう。
当然安ホテルへ移動するしかなかった。
物価が高いので日本から持参した吸い物や食材をホテルの部屋で食べ、昨日までの大名旅行とは打って変わって節約節約の日々となった。
まあそれでもバスに乗って郊外へ。
観光情報持ち合わせてないので、勿論あてはない。
取り敢えず終点までという情報の無さだった。
小さなレストランでビール片手に、現地のお嬢様のスカイブルーの瞳や金髪に吸い込まれながら「にここは日本ではない」と実感。
市庁舎前広場

数日後、ロンドンへ向かった。
まあいっか・・・
1975年9月10日成田からロンドンへ向かった。
当時では一番安かったエアロフロート航空の片道切符を手にしてまずはモスクワへ飛んだ。
モスクワでスカンジナビア航空に乗り換えてコペンハーゲンでトランジット。
そして目的地ロンドンへといった2度乗り換えが必要なルートだったが、安いんだから仕方がないと思った。
まずはモスクワだ。
当時機体状態やサービス、食事など激しく評判が悪かったがここでも安いチケットだからねと諦めるしかなかった。
窓には水滴が凍り始め、食事は う~ん 口に合わない と噂通りのようだった。
只紅茶が美味かったのが唯一の救いだった。
モスクワでスカンジナビア航空の飛行機に乗り換え。
銃を手にした兵隊の間を緊張気味に待合室へ向かう乗客。
まだまだソビエトは自由な国ではなかった。
2時間後、誰も銃で打たれることなく無事乗り込んだスカンジナビアの機内はそれまでと打って変わってほ~っとしたのか明るい声が増え始めた。
皆自由をかみしめていたのだ。
9月11日コペンハーゲン、カストラット空港到着。
現在ではコペンハーゲン空港と呼ばれてるがて当時はかストラップ空港が通称名で今でも現地ではこう呼ばれている。
コペンハーゲンで3~4日ほどゆっくりしてロンドンへ向かうことにし、空港の案内所でホテルを決めた。
当時、海外旅の情報は殆どなく、ましてや現地のホテル情報もゼロに近かった。
と言うより、殆ど興味がなく調べないまま成田を飛び立ってしまったのである。
身分不相応な立派なホテルに到着しチェックインしたがこの時はまだ部屋代のことは気にしなかった。
バスルームの広さ、ベッドの大きさ、室内装飾など別世界の部屋に気分は盛り上がる一方。
無知だったせいか、ホテルでスコッチのボトルまでキープ。
このあたり日本人感覚丸出し。
そしてつまみにこれも日本でしょっちゅう食ってたポテトチップを注文。
どこにでもいる普通の若者の行動だった。
しかしスタッフの誰もが首を傾げた。
そして「ポテトチップ」が「クリスプス」っていうのが判ったのは暫くしてから。
無知だから仕方がなかった・・・
1975年のチボリ 最近のチボリ


殆ど同じ。
二泊目の朝、これまで幾らぐらいかとレセプションで聞くと「わ~っ、そんなに」という、目玉が飛び出るほどの金額。
当時海外持ち出しは1500ドルまで。
このままだとロンドンに着く前に破産してしまう。
当然安ホテルへ移動するしかなかった。
物価が高いので日本から持参した吸い物や食材をホテルの部屋で食べ、昨日までの大名旅行とは打って変わって節約節約の日々となった。
まあそれでもバスに乗って郊外へ。
観光情報持ち合わせてないので、勿論あてはない。
取り敢えず終点までという情報の無さだった。
小さなレストランでビール片手に、現地のお嬢様のスカイブルーの瞳や金髪に吸い込まれながら「にここは日本ではない」と実感。
市庁舎前広場


数日後、ロンドンへ向かった。