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the bar with no name

2014年07月17日 | 
数日前、最低の評判をとった宿に泊まったことを書きました。
このまま放って置く訳にはいけません。
って、別にいいんだけど・・・

先日、ふとしたことからアルカトラズの話題がのぼったのを思い出しました。
その時は頭の中には映画のシーンや脱出不可能といったことが浮んだだけでした。
昨夜、息抜きに冷えた紅茶を飲んでいると「待てよ、アルカトラズと言えばサウサリートからフィッシャーマンズワーフへのボートで近くを通ったことがあったな」
記憶が蘇ってきた。

25年ぐらい前に、昼間サウサリートのBarで優勝目前の地元チーム49nrsを応援してる地元客に囲まれて喉を潤したことがあった。
チャンスだといったシーンでは皆動物のような歓声を送っていた。
アメリカの人達の体も声もデカカッタ。
その店の当時の看板には「the bar with no name」とあった。
そしてこの店は今もなお健在で、先日の最下位獲得のサイトの口コミでこの店がNo.1に輝いていました。
私は昔ただ一度だけ入ったことがあるだけですが。
まあ、どうでもいいことですね・・・

その店の看板と店内。
    写真はNANCY より
店名は「no name bar」になっていたが当時と住所は同じ。
トラベルのサイトでも「no name bar」でした。

1988年当時の看板は「the bar with no name」でした。
サウサリートを一通り散策した後、その看板からAmericaのThe horse with no nameと言う歌が浮び足を踏み入れた、という他愛の無い理由からでした。
窓から差し込む陽光を受けながらグラスワインを傾けました。
よくあるような店で、まあ悪くは無かったという程度。
そんなことは別にどうでもいいことだけど・・・
当時のマッチと窓際のカウンター。
  
このマッチよく残っていたもんです。


・・・上の話とは全く関係ありませんが、少し前からのアブラゼミの鳴き声に続いて、今日、今年初めてミンミンゼミの鳴き声を聞きました。

一日自由なのだ

2014年05月13日 | 
3時半に目が覚める。
まあいつものこと。
今日は一日中在宅予定。
シャワーを浴び4時過ぎ散歩でもと思ったが生憎の雨。

7時、雨は止まない。
朝の散歩は中止。


8時半頃二度目のシャワー。
何だか揺れてるように感じた。
数年前から何も無くても体が揺れ始めてるので今朝もそのせいだと思った。

8時45分、PCで地震をチェック。
東京23区は震度3とあった。
体ではなく地面が揺れてたのです(笑)

10時、まだ雨。
父の写真整理の合間を縫っていつものように旅の振り返りを・・・

今日はチャイナタウン。
世界有名チャイナタウンは9つあるらしい。
1. 横浜中華街
2. ニューヨーク チャイナタウン
3. サンフランシスコ チャイナタウン
4. ホノルル チャイナタウン
5. バンクーバー チャイナタウン
6. ロンドン チャイナタウン
7. シドニー チャイナタウン
8. バンコク チャイナタウン
9. シンガポール チャイナタウン

日本代表横浜中華街
 (http://www.japan-tourist-guide.com/yokohama-chinatown.php より)
大学の頃初めて足を運んだ。
昔は「チャンマチ」と言っていたが最近は耳にしなくなった。

ニューヨーク
 (http://www.panoramio.com/photo/28637226 より)
一度迷い込んだが何故か怖かった記憶が・・・

サンフランシスコ
(http://expatedna.com/2010/06/08/discovering-san-francisco/ より)
中華料理店でデザートに杏仁豆腐が食べたくなり注文しようとしたが英語で何と言うか知らなかった。
メニュー見れば判ったと思うが暫く頭をひねったがダメだった。
困った様子を見かねたのか、隣のテ-ブルの男性が「Almond Puddingって言うんだよ」と教えてくれました。
チャイナタウンで何度かお粥の朝食を摂ったが、悪くなかった。

ロンドン
(http://www.london-chinatown.info/ より)
ロッド・スチュワートのベーシストとして来日した山下テツさんと飯食ったのが中華街だった。
彼はロンドンで野球仲間を探していたけど、結局チームができないまま終わってしまった。
イギリス人は野球なんて興味なかったみたい(笑)

ホノルルとバンクーバーのチャイナタウンへは行かなかった。
何故だか思い出せない・・・
シドニーは行ったことないし・・・

バンコク

ヤワラーのあちこち路上でモヤシの芽を丁寧に取っていたのを料理好きの友人に話すと「そんなの当たり前だよ」と笑われてしまったことがある。

シンガポール
(http://travel.ninemsn.com.au/holidaytype/culture/719699/singapores-chinatown より)
去年シンガポールに行ったがこの写真はかなり前のものみたい。


こんなチャイナタウンだったらどこにでもあるよ、といったチャイナタウンは
  
1994年のマレーシアのクアラトレンガヌ。
静まり返ったチャイナタウンを初めて見たので驚きだった。
それが2009年には
 (http://gogoasia.exblog.jp/tags/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3/ より)
殆ど同じだね~。
やっぱり活気があまりなかったようです・・・

折角だからパリも
 (http://admin.the-daily-record.com/ap%20travel/2013/08/06/explore-the-quartier-chinois-chinatown-in-paris より)
13区のチャイナタウは結構地味。
ゴテゴテした装飾は見当たらなく拍子抜けする人がいるかも知れない。


時刻は午後2時半、薄日がさしてきた。
お~し、散歩に出掛けることにするか・・・







懐かしのバングラデシュ(3)

2013年08月29日 | 
家では殆ど酒を飲まない。
しか~し、昨夜は小樽の生ハムを頂いたのでメイチダイのムニエルを作りハムとサラダにバゲットといった、
自宅では珍しい夕食のメニューになった。
ワインはオーストラリアの白を開けた。




・・・さて、バングラでは、ダッカ、チッタゴン、コックスバザール、クルナ、ジェショール、クシティアなどの町を廻ったが、
殆どをダッカから250km離れた町で過ごした。

移動手段は様々だが、これは当時と現在でもさほど変わってないかも知れない。

飛行機はダッカ~チッタゴン、ダッカ~ジェショール間を何度か利用した。
ビーマンバングラデシュ国内線は30~40人ぐらいの小さな飛行機。
いい塩梅に揺れる天井も低く狭い機内はいつも満席だった。
乗客はビジネスマン風の男性が目立ち、女性の姿は殆どなかった。

国内線のチケット。読めません・・・


わら半紙に印刷された国内線のタイムテーブル。英語とローマ数字表記だったのでちゃんと読めた。



河が網の目のように広がるバングラではフェリーの移動も何度か。
フェリーは車のドライバーが殆どで人だけ乗船するのはあまりないらしく、ガラガラだった。


フェリー乗り場は大体こんな感じ。乗船ターミナルなんて立派な建物はなかった。



陸路の移動はバスがいいのだが・・・
こんな状態なので私は乗り込む勇気がなかった。


一度小さなバス一台を大金2,100タカ(約1万円)払い、借り切ってクシティアからクルナまで5時間かけて使ってみた。
途中、地元の人を何人も乗せたり降ろしたりして、だんだんと路線バスのようになってしまい、時間がどんどん過ぎていった。


バス借切りの領収書。まったく読めない・・


やはり乗用車が無難だった。
ダッカからクシティアまで9時間かけて向かったが、ダッカを出るとクシティアまで信号はひとつもなかった。
バングラは一年中灼熱の国というわけではなく、肌寒い季節もある。
しかし、基本的には暑い国かな?
その暑さ真っ只中の時に乗用車を借りたが、クーラーがついてない。
窓からの風に涼を求めるしかなかった。


コックスバザールでは知り合いがジープを用意してくれた。



バングラには鉄道もある。
ダッカからチッタゴンまで一度鉄道を使ってみた。
現地の友人は気を利かせてくれ冷房のきいたコンパートメントを予約してくれたが・・・・


6時間も密室状態では息がつまりそうになり笑顔が出ない、出発直前に個室より料金の安いファーストクラスに変更してもらう。
このファーストクラスは冷房はないが窓が開き風を受けながら・・かなりの開放感があった。
しかしチッタゴンに到着したとき、白かったTシャツは埃で黒ずんでしまった。



さて、田舎の村での移動はもっぱらリキシャ。
自転車の後ろに荷車をつけたバンが快適だった。


農村では牛車にも



・・・この頃私はまだアジアの旅に慣れてなく、節約よりは快適な手段を選んでいた。あ~・・・
年取ってからは現地の日常に紛れ込むのが楽しくなり節約旅の面白さ中心になり、手で尻を洗うことも平気になり、
よほどのことが無い限りカルチャーショックも受けなくなってきた。
これはモシカスルト感覚がマヒしてきたせいかも・・・






懐かしのバングラデシ(2)

2013年08月27日 | 
この当時バングラデシュでは一定以上の現金を持ち込む時、外貨持込証明書の提出が求められた。
TC(トラベラーズチェック)はこの対象になるか判らず、日本円とドルの現金を持ち込んだが、ドルの証明書だけ提出した。

外貨持込証明書



現在では大きな街ではATMが目に付いているようだが、この頃はダッカでもATMはなかった。。
クレジットカードは欧米資本のホテルぐらいしか使えない状況だった。
ダッカ市内ではシェラトンホテルぐらいしかなかった。
まだまだTCが安全対策として主流を占めていた。

ダッカでTCを現金に替えようと銀行へ向かった。
入口には小銃を持ったポリスなのかガードマンなのか、とにかく鋭い視線を送ってきている。
行内は閑散とし、すぐに両替ができそうだとまず窓口へ。
しかし窓口ではTCを現金化できず、マネージャーの個室へ案内された。

マネジャーは1000ドルのTCを一瞥するとデスクの押しボタンでスタッフを呼びTCを彼に渡した。
5分ぐらいしてお茶が出された。TCの両替でお茶まで出されては・・・恐縮してしまった。
暫くマネジャーと雑談するが一向に両替が終わらず、
1時間が過ぎてしまった。
TCの両替に何故そんな時間がかかるのかよく判らないが、とにかくもう少し待つしかない。
ついに2時間が経ってしまった。
他の銀行に行くか、と思った頃ようやく分厚い束のお札が目の前に置かれたのである。
こんなに時間がかかってはお茶でも飲んで待つしかないかも知れない。

TC両替証明書



2度目のTCの両替は銀行のクローズ近い時刻だった。
この時はカウンター内のデスクに呼ばれ、行員と一緒になって僕も両替分のお札を数えたのである。
銀行でこんなことしていいのかい?

3度目はやはりマネジャーの個室へ。
4度目はすっかりとマネジャーともうちとけ待ち時間もさほど気にならなくなってきた。
バングラ時間に慣れてきたのだろうか?・・・

現金の両替はホテルが手っ取り早く、銀行のように待ち時間も少なかったので何度か利用した。



バングラの友人が闇両替は?と聞いてきたので一度やってみた。
現場には友人が出向いたので、どこでどんな風にするのかわからない。
レートは闇が一番良かった。

・・・結局外貨持込証明書もTC両替証明書の出番はバングラでもニホンでもなっかった。

20数年前の話だが、今からすると大昔のことのように思える。

懐かしのバングラデシュ(1)

2013年08月26日 | 
ファイルを整理していたらバングラデシュのファイル発見。
思い出に浸りながら一部を抜粋してみることにした。

1989年 8月 2日~ 9月 1日
1989年11月28日~12月26日
1990年 4月24日~ 5月17日
1990年 8月 4日~ 9月 4日
2年にわたり4回バングラに飛んだ。




「バングラデシュってどんなとこだい?」
1989年当時、こういった質問にスラスラと答えられる人は僕の周囲には殆どいなかった。
毎年、決まったように洪水に見舞われ、北海道より少し広いぐらいの国に日本の人口と同じほどの人が住んでいる。
国教はイスラム教でいつも礼拝をしている、酒が飲めない、そして最貧国のひとつである、ということぐらいしかの知識しかない。
そして追い討ちをかけるように、ガイドブックも隣の国インドはあるものの肝心なバングラデシュについて書かれているものは皆無だった。
こうなりゃあ、当たって砕けろ精神にすがるしかないな~・・・

初めてのバングラへは、8月ということもあったが
成田~バンコク  125000円(タイ航空)
バンコク~ダッカ  64000円(タイ航空)
といった今で考えるととんでもなく高い飛行機代を支払って貧しい貧しい国へと飛んだのである。

ジア空港手前で「機内からの写真撮影は禁止されてます」というアナウンスが流れてきた。
空港や橋(これらは軍事施設だとバングラ政府は言う)よりは、毛細血管のように入り組みながら蛇行する川や運河に目をひかれ、思わずカメラを取り出すとすかさず乗務員が飛んできた。
そして「No No」と少し興奮気味に制止してきた。
これはなかなか手強そうな国だな~・・・

幸いカメラを取り上げられることもなくジア空港に到着。
飛行機を降りると銃を持った兵隊の鋭い目付きの間をターミナルまで歩く。
む~っとした熱気に複雑なニオイの混ざった空気に体が包まれた。
薄暗いターミナル内、あたりを見回してみたが観光客らしき人はいない。日本人も僕だけのようだ。
出稼ぎから戻って来たのだろうか、バングラの人たちは皆でかい荷物をいくつも抱え、税関で厳しく調べられている。
いくつものバッグを広げられている彼らを横目に僕の入国手続きは簡単に終わった。
なかなか順調じゃあないか・・・

ターミナルの出口へ向うと、ガラス越しに浅黒い顔が隙間無くへばり付くようにして内部を窺がっている。
親戚や友人の出迎えなんだろうか?
それにしては人が多すぎるような気がするな~、と気楽に思いながら出口を一歩出た瞬間、いきなり群集に取り囲まれ一斉に手が僕を目指して猛烈な勢いで伸びてきた。
「ナンダ? ん? な~に?」
何が起こってるのか冷静に考える暇もなく荷物が強い力で引っ張られ、ついに手から離れていくのを感じた。
これはまずい。思わず「待てー!」と大声を張り上げると幸いにも荷物を持った男達の足が止まった。
しかし男達は僕の荷物を抱くようにしてるだけで
「何か文句あっか?」といった表情をしているではないか。
僕を取り巻く群衆をひきずりながら男に近づき、無言で思いっきり荷物を取り上げる。
すると男達はなにやら大声で叫び始めた。
ベンガル語なので何を言ってるのかまったく判らない。
群集はますます膨れ上がり、ついには体を触る者、服を引っ張る者、また荷物をとろうとする者、大声で喋りかけてくる者、暇だから群集の中にいるといった者、数十人が僕の歩きに合わせながらのろのろと移動してるのだ。
ボロボロのタクシーに荷物を放り込み、僕も車内の人になったところで、集団はやっと散っていった。

空港から市内まではさほど離れていなかった。
250タカ(1タカ=5円)は、貧しいと言われて国にしては高い気がしたが相場がまるで判らない。

いつ止まってもおかしくなさそうなオンボロタクシーは
人を蹴散らすように市内へと向うが、どこもかしこも人人人人人、人で溢れクラクションは鳴りっ放しだ。
北海道よりちょっとだけ広い国に1億以上の人がいるんだから、だれかが国からこぼれ落ちても不思議ではない。 360度、全方位とにかく人だらけだった。

車を止めるとすぐに人に囲まれた



人を掻き分け驀進したタクシーは中級ホテル
(sundarban hotel 910タカ)の玄関に着いた。
ロビーに入るとどう見ても宿泊客とは思えない十数人の男達の視線が集まった。
しかし空港と違ってわ~っと取り囲まれることがないので少し安心だが一体彼らは何者なのか?
ホテルのマネジャーは「皆、暇だからここに来るんだよ」と言う。何だ、暇つぶしなのか・・・

一泊910タカの部屋は清潔だったが、トイレの薄い皿のような便器の脇に壷がポツリと置かれてるのを見つめ
「あ~、この国では水でキレイにするのか・・・」とちょっとたじろぐ。
話には聞いていたが、こうして直面するとただただ途方にくれるだけだった。 今でこそ何度も経験し驚きもしないが、この時はもうカルチャーショックそのものだった。




夕方散歩に出た。
ホテルから数分歩くと誰かが僕の足をつかんだ。
「ん? 何だ?」
横たわりながら足をつかんだ男は僕を見上げるようにしてもう片方の手を差し出している。
「そうか・・・」
しかしこの男に施しをと考える間もなくすぐに新たな手が伸びてきた。
辛いが、ここは目をつぶって彼らをやり過ごすしかないだろう。
この後Tシャツを引っ張る者、いきなり目の前に立ちはだかって手を差し出す者など相次いで色んな人間がするどく迫ってきたのである。




やっとニューマーケットが近くなってきた。
ところがマーケット周辺の道はリキシャが埋め尽くし人の通る隙間もないほどだ。
リキシャに挟まれないよう僅かの隙間を見つけてマーケットに入り込む。
人人人 リキシャ リキシャ・・・いやはや大変な街だ。


 

わずか1時間の散歩でグッタリしてホテルに戻る。
人・リキシャの洪水、物乞い、女性の少ない街、トイレの壷・・・・カルチャーショック連続のバングラ第一日目だった。

誰もいない海

2013年07月19日 | 
それほど、海水浴客がいませんでした・・・・

富浦の豊岡海岸で脂抜きでもしようかと8時過ぎ家を出る。
有楽町線は少し遅れて電車が到着。うまく乗り継がないと内房総線の本数が少ないので時間ぎりぎりになりそうだった。
その前に、新木場駅の自販機にビックリ・
めったに電車の乗らないので世間の事情にうといが、私のイメージにはない自販機に目が点。
世間の方は「そんなの ず~っと前からあったよ」と思われるだろうが、私は・・・




さて、どうにか間に合い蘇我から内房総線へ。
しかし出発時刻になっても列車は動かない。
車内アナウンスで次の駅の途中の踏み切りで車が立ち往生しているという。
「大幅に出発が遅れま~す」のアナウンス。
そこへ外房線の列車が到着した。
別に富浦でなくてもいい。外房の守谷海水浴場にするかとしばし迷う。

暫くして「踏み切りの安全確認が終了しました~。もうすぐ出発しま~す」の放送。
内房線で予定通り富浦へ向かうことにした。


たいした事故でなくて良かった。


アナウンスほどの遅れもなく、10分遅れで富浦到着。




まずは原岡海岸へ。
7~8月は浜をキャンプサイトにしているので、カラフルなテントが並んでいるだろうな、思いつつ浜に着くと
閑散とし人っ子ひとりいない。
キャンプ場止めたようだ。


静まり返った原岡海岸。


太陽が出てきた。
爽やかな海風にあたりながら豊岡海岸へ。
まだ海開き前、3人の若者が日光浴していた。
そして犬が2匹浜を走り回っている。


豊岡海岸


静かだ。
豊岡海水浴場は内房にしては水の透明度が高く、波も穏やかだがピーク時でもさほど海水浴客が多くない。
十数年ほど隣の原岡海岸でテントを張り、泳ぎはこちらの豊岡海岸に来ていた。



午後1時、依然として人が増えない。私を入れて3人しかここにいない。
すると雲が出始めてきた。
これでは脂が溶けない・・・・

3時前、しゃわーを浴び富浦駅へ。
この町に初めて来たのは1993年、当時は2軒の酒屋、数軒の食堂や喫茶店、土産物屋などがあったが、
その殆どにシャッターがおりていた。
夏の町の目玉、原岡海岸キャンプ場も閉鎖されこの富浦はどんどんと寂しくなってきている。
もう、再生は不可能なんだろうか・・・


富浦駅前。どの店にもシャッターが。